第二話 誰に怒られるんです?
慈恩は、急かさなかった。
春に何があったのか。
上司が、どんな人間だったのか。
会社が、どう動いたのか。
いなくなったあと、何が残ったのか。
男は、順番に話した。
「よく、怒鳴る人だったんですか」
「……はい」
「どんな時に?」
「なんでも、です」
男は苦笑した。
「分からなくて聞くと、『そんなことも自分で判断できないのか』って」
慈恩は、黙って聞いていた。
「だから次は自分で判断したんです。そしたら、『なんで勝手なことした』って」
「そうですか」
「残業してれば、仕事が遅い。帰ろうとすれば、みんな働いてるのが見えないのかって」
「それで?」
「確認するようになりました」
「何を」
「全部です」
メール。
資料。
報告。
退勤時間。
相手の顔。
声の調子。
句読点まで気になることがあった。
「間違えなきゃいいって、思ってました」
「間違えなければ、怒られない」
「はい」
慈恩は、少しだけ間を置いた。
「今朝も確認しました?」
「しました」
「何回」
「……三回くらい」
「どうして?」
「抜けがあったら困るので」
「困ると?」
「怒られます」
慈恩が、男を見た。
「誰に?」
男の口が開いた。
声が出ない。
「……え?」
「誰に、怒られるんです?」
「それは」
今の上司。
そう言おうとした。
違う。
今の上司は、怒鳴らない。
ミスをすれば注意はされる。
でも、それだけだ。
では。
誰に。
「……いないですね」
男は笑った。
頬だけが、引きつっていた。
「もう、いないんだ」
「そんなことも分からないのか」
声がした。
男の身体が、固まる。
「すみません」
反射だった。
部屋が静かになる。
慈恩は、男の背後を見ていた。
「……いますか」
「何がです?」
「後ろに」
慈恩は、すぐには答えなかった。
「今も、謝りましたね」
男が口元を押さえた。
「……また」
「ええ」
俯く。
「ずっと、こうなんです」
◇
「元上司の霊ですか」
「その人は、生きているんでしょう」
「はい」
「なら、亡くなった人の霊ではないですね」
「じゃあ、何なんです」
慈恩は、男を見た。
「それを、僕が一つに決めるのは危ないと思います」
「危ない?」
「声が聞こえる。眠れない。音で身体が固まる。仕事にも残っている」
一つずつ、置くように言った。
「ここから先は、僕だけで見る話じゃありません」
男の表情が硬くなった。
「……精神科、とかですか」
「ええ。こういう症状を診ているところを紹介します」
「俺、そんなにおかしいですか」
「おかしいかどうかを決めに行くんじゃないですよ」
男が顔を上げる。
「困っている。それで、十分です」
「でも」
「歯が痛ければ、歯医者に行くでしょう」
「……まあ」
「同じです」
慈恩は、それ以上、例えを重ねなかった。
「会社に知られますか」
「そこも、向こうで聞いてください」
「……怖いですね」
「そうですね」
否定しなかった。
「でも、一人で判断し続けなくていい」
男は、黙った。
長く。
「紹介、してもらえますか」
「ええ」
◇
帰ろうとした男を、慈恩が呼び止めた。
「一つだけ」
「はい」
「さっきの話」
「何です?」
「間違えなければ、怒られない」
男は黙る。
「ずっと、正解を探してきたんですね」
「……たぶん」
「聞けば怒られる。聞かなくても怒られる。残っても、帰っても」
慈恩は、そこで止めた。
「それ、正解があったと思います?」
男は答えられなかった。
「あなたに直すところがあったかどうかと、傷つけられていいかどうかは、別です」
「言い訳するな」
声がした。
男が震える。
慈恩が、背後を見る。
「……聞こえたんですか」
「ええ」
男は振り向く。
誰もいない。
「やっぱり、いる」
「何かは」
慈恩の視線の先に、黒い影があった。
人の形。
けれど。
顔がない。
「元上司に見えますか」
慈恩は、影から目を離さなかった。
「いえ」
影が囁く。
「使えないな」
「遅い」
「普通分かるだろ」
「何回言わせるんだ」
同じ言葉。
何度も。
新しいことは、何も言わない。
男の顔が歪んだ。
「全部、言われました」
「そうでしょうね」
「じゃあ、これ」
男は、振り返れないまま言った。
「俺が作ったんですか」
「そこまで決めなくていいです」
慈恩は言った。
「ただ」
影を見る。
「言葉だけ、残った」
男が拳を握る。
「いつまで」
掠れた声だった。
「いつまで残るんですか」
「分かりません」
慈恩は、誤魔化さなかった。
「だから、他の人にも手を借りましょう」
「そんなことも一人でできないのか」
声がした。
男の唇が動く。
すみません。
その言葉が、出かかる。
出なかった。
男は、唇を噛んだ。
慈恩は、何も言わなかった。





