第一話 怒られなくなった人
スマートフォンが鳴った。
たった、それだけだった。
男の右肩が、跳ねた。
神宝町の小さな喫茶店だった。
窓の外を、仕事帰りの人が流れている。
男は、テーブルの上のスマートフォンを見る。
社内チャットの通知が、一件。
『明日の会議、十時からに変更です。よろしくお願いします』
それだけだった。
男は、親指を動かした。
『承知しました』
止まる。
消す。
『承知いたしました。ご連絡ありがとうございます』
また、止まる。
消す。
『承知いたしました。ご連絡ありがとうございます。明日十時、承知いたしました。よろしくお願いいたします』
送信。
既読がついた。
それでも、画面から目を離さない。
「ねえ」
向かいから、葵が言った。
「……何?」
「今、怒られた?」
「え?」
「仕事のやつ」
「ああ」
男は、ようやくスマートフォンを伏せた。
「違います。予定変更です」
「じゃあ、なんでそんな顔してんの」
「そんな顔?」
「してる」
男は、少し笑った。
「癖ですよ」
「癖」
「前の上司が、ちょっと厳しかったんで」
ちょっと。
男は、そう言った。
葵は、それ以上聞かなかった。
その日は。
◇
数日後。
また、会った。
「ちょっといい?」
葵が声をかけた。
「すみません」
男が、立ち上がった。
葵が止まる。
男も止まった。
「……まだ、なんも言ってないけど」
「あ」
男は困ったように笑った。
「すみません」
「それ」
「え?」
「今の」
男は笑ったままだった。
「だから、癖ですって」
「その癖、いつから?」
男の笑顔が、少しだけ止まった。
「前の上司、まだいるの?」
「いませんよ」
「異動?」
「解雇されました」
あっさりしていた。
葵の方が、言葉に詰まった。
「パワハラで」
「……解雇?」
「はい」
男は座り直した。
「会社が調べてくれたんです。俺だけじゃなかったみたいで」
「いつ?」
「春です」
今は、秋だった。
「半年くらい?」
「それくらいです」
「今の上司は?」
「いい人ですよ」
答えは、すぐだった。
「怒鳴らないし、無茶も言わない。残ってると、帰れって言われます」
「帰る?」
男は黙った。
「……帰れないんですよ」
「なんで」
「周りがまだ働いてると」
「何か言われる?」
「言われません」
「今の上司に?」
「はい」
「同僚にも?」
「何も」
「じゃあ――」
ピコン。
スマートフォンが鳴った。
男の肩が跳ねる。
すぐに画面を見る。
「……違った」
「何が?」
「いえ」
男は、スマートフォンをポケットへしまった。
「なんでもないです」
手が、震えていた。
葵は、そこを見ていた。
◇
その夜。
午前零時を回っていた。
男は、ベッドに横になっていた。
眠らなければ。
明日も仕事だ。
目を閉じる。
ピコン。
目を開ける。
枕元のスマートフォンを取った。
通知はない。
「……なんだよ」
伏せる。
目を閉じる。
ピコン。
今度は、すぐに見る。
何もない。
メールも。
社内チャットも。
メッセージも。
新着は、ゼロ。
男は、しばらく画面を見た。
電源を切る。
「これでいいだろ」
暗くなったスマートフォンを、机へ置いた。
布団へ戻る。
静かだった。
時計の針だけが聞こえる。
十秒。
二十秒。
「遅い」
耳元で、声がした。
男は飛び起きた。
誰もいない。
電気をつける。
机。
椅子。
カーテン。
六畳の部屋。
誰も、いない。
「……いるわけないだろ」
もう、会社にもいない。
自分の住所だって知らない。
それなのに。
「何回言わせるんだよ」
今度は、はっきり聞こえた。
男は、両耳を塞いだ。
◇
翌朝。
「昨日、寝てないでしょ」
「寝ましたよ」
「嘘」
「ちょっと寝不足なだけです」
「声、聞こえた?」
男が黙る。
「誰の?」
「……分かりません」
「分かってる顔」
「葵さん」
少し、強い声が出た。
「もう終わったことなんです」
葵は黙った。
「会社も対応してくれました。あの人は解雇された。今の上司もいい人です。仕事だって普通にできてる」
「うん」
「だから」
言葉が止まる。
だから。
何だ。
全部、終わっている。
終わっているはずなのに。
「……俺がおかしいんですよ」
葵の眉が、少し動いた。
「それ、誰が決めたの」
「え?」
「おかしいって」
「だって」
「一回来て」
「どこに?」
「知り合いのとこ」
「何の?」
「こういうの、見る人」
男は、冗談だと思った。
怪異相談。
自分には関係がない。
幽霊なんて信じていない。
あの男は、死んですらいない。
「俺、そういうのじゃないですよ」
「うん」
「うんって」
「違うなら、それでいいじゃん」
葵は言った。
「一回、見てもらえば」
断ろうとした。
そのとき。
ピコン。
電源を切ってあるはずのスマートフォンが鳴った。
男の顔から、血の気が引いた。
葵にも聞こえていた。
震える手で、スマートフォンを出す。
画面は、真っ暗だった。
なのに。
「遅い」
男の背後から、低い声がした。





