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神宝町怪異相談 ~働く人の怪異をほどく、神宝町の拝み屋~  作者: K3/KASANE
いつもの時間に

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後編 帰るところ

「仕事、何してたんだ」


黒いスーツの男は、サッカー台の脇にあるベンチへ腰を下ろした。

私は数歩離れた位置に立ち尽くす。


レジの高橋さんからは、男が虚空に向かって一人でブツブツ話しているように見えているはずだ。

案の定、彼女は怯えた目でこちらを盗み見ている。


「事務です」

「今日、職場で何をした」

「え?」

「仕事の中身だよ」

「書類を作成して、取引先のメールに返信して……」

「何の書類だ」


口を開きかけ、言葉が途切れた。

思い出せない。


「……普通の、書類です」

「普通って何だ」

「普通は普通です!」

「昨日は?」


苛立ちがこみ上げてきた。


「なんなんですか、さっきから」

「別に」

「私、ただひどく疲れてるだけだと思うんです」

「かもな」


あっさりと肯定された。

それがかえって、底知れない恐怖を煽る。


「じゃあ、帰らせてください」

「帰ればいいだろ」

「帰れないから困ってるんじゃないですか!」


感情に任せて叫んだ。

もちろん、周囲の客には誰一人届かない。

ただ遠くの高橋さんだけが、冷気に当てられたように肩をびくつかせた。

私は拳を握りしめ、掠れた声を漏らした。


「……あの交差点から、先へ進めないんです」

「そうか」

「そうか、じゃないですよ!」

「俺が通せんぼしてるわけじゃねえだろ」


男はポケットから煙草の箱を取り出しかけ、店内だと気づいたのか億劫そうに引っ込めた。


「名前は」

「水野亜紀です」

「年齢」

「三十二歳」

「今日、何日だ」


私は口を噤んだ。


「曜日だけでも言ってみろ」

「水曜日」

「金曜だ」


男は自分のスマートフォンの画面をこちらへ向けた。

デジタル表示の日付が光っている。

私はその数字を見つめた。


意味が脳へ入ってこない。


「これ、狂ってます」

「何が」

「日付です」

「何日なら合ってんだよ」


答えられない。

思考の糸が、手繰り寄せるそばから千切れていく。


「あなたのスマホ、壊れてるんじゃないですか」

「俺のが?」

「はい」

「ずいぶん都合のいい頭してんな」


悔しさに唇を噛み、自分のスマートフォンを取り出した。

時刻は表示されている。

二十一時十二分。


けれど、その上にあるはずの日付の数字だけが、油膜を張ったようにぼやけて判読できない。

指で画面を擦っても、目を凝らしても、輪郭が滲んだままだ。


「これも……」

「壊れてるか?」

「……たぶん」


男が鼻で小さく笑った。


「財布、持ってんだろ」

「持ってます」

「毎日ここで買い物してんだよな」

「してます」

「何で払ってんだ」

「電子マネーです」

「決済履歴、見せてみろ」


アプリを立ち上げる。

履歴画面は、不気味なほど真っ白だった。

残高の数字すら表示されていない。


「おかしいな……通信エラーかな」

「紙のほうはどうだ」

「え?」

「レシートだよ」


バッグの奥から革の長財布を引き出し、ジッパーを開けた。

仕切りの隙間に、薄い感熱紙が一枚だけ挟まっていた。


「あ……ありました」


レシートだ。このスーパーのロゴが印字されている。

指先で広げた。

成分無調整牛乳。


六枚切り食パン。

焼き魚(塩鮭)。

カスタードプリン。


見慣れた買い物の品目。

印字された時刻は、二十一時十二分。

そして、その上に印字された日付を目にした瞬間。


私の呼吸が、完全に止まった。


「……これ」


男は何も言わず、ただ私を見つめている。


「半年前の……日付です」

「そうだな」

「でも、私、昨日もここで同じものを買いました!」

「昨日のレシートはどこにある」

「捨てたのかもしれません」

「一昨日は」

「だから、財布がパンパンになるのが嫌で……」

「毎日きっちり捨てて、半年前のその一枚だけ大事に取っといたってのか?」


言葉を失った。

指先が小刻みに震える。

握りしめたそのレシートだけが、この世界で唯一、確かな質感を持って存在していた。


「プリン」


男が低く言った。


「誰のために買ってんだ」

「母です」

「好きなのか」

「はい」


そこだけは、淀みなく答えられた。


「仕事帰りに買って帰ると、いつも喜んでくれるんです」

「最後にそのプリンを食ってるとこ、いつ見た」


思考が凍りつく。

母の顔。

思い出そうと意識を集中させる。


居間でテレビを見て笑う顔。

お小言を言うときのへの字の口元。

エプロン姿の後ろ姿。


どれも古いアルバムの写真のように色褪せていて、最近の母の姿がどこにも見当たらない。


昨日。

一昨日。

先週。


どんな顔をして、私を出迎えてくれた?


「……覚えて、ないです」

「最後に会話した内容は?」

「覚えて……ない……」


側頭部に焼けるような痛みが走った。

手の中のレシートに視線を落とす。


『カスタードプリン』


黒ずんだ活字が、強烈な引力で意識を引きずり倒していく。


――記憶の蓋が、音を立てて外れた。


*


雨がアスファルトを叩く匂い。


スーパーのビニール袋が、歩くたびにカサカサと太ももを打つ音。

手の中で震えたスマートフォンの画面に届いた、『プリン、買えた?』の文字。

母の嬉しそうな顔が浮かんで、私は濡れた指先でフリック入力を急いだ。


『買えたよ、今から帰』


青信号の横断歩道を踏み出し、ふと顔を上げた瞬間、視界のすべてが二条の白い閃光に呑み込まれた。

鼓膜を破るクラクション。濡れた路面を狂ったように滑るタイヤのスキール音。

轟音。視界が天地を失って激しく回転し、指先から買い物の重みが千切れていく。


冷たい水たまりの上を、黄色いプリンのプラスチック容器が、ぽつんと転がっていった。

そこで、私の二十時三十七分は永遠に止まっていたのだ。


*


「……私」


声がかすれて、うまく音にならない。

男は腕を組み、静かに待っていた。


「私、あの交差点で……死んだんですか」


長い沈黙が落ちた。


「そうみてえだな」


男の言葉には、同情も哀れみも混ざっていなかった。ただ冷厳な事実だけがそこにあった。


「でも!」


私は弾かれたように立ち上がった。


「私、今日も仕事をしていました!」

「ああ」

「会社へ行って、パソコンを打って!」

「そう思い込んでただけだ」

「電車にも乗って!」

「乗ったつもりで、このルートをなぞってたんだろ」

「買い物だって……母が、家で待ってるんです!」


叫んだ瞬間、涙が溢れそうになった。

けれど、幽霊の瞳からは一滴の水分もこぼれ落ちない。


「お母さんが」


胸を掻きむしるように繰り返す。


「家で、私の帰りを待ってるんです……!」

「なら、帰ってみろよ」

「だから!」


喉が裂けそうな悲鳴になった。


「帰れないんです……! 交差点から先へ行こうとすると、頭がおかしくなりそうで……気づいたらまたビルの前で、電車に乗って、買い物をして……ずっと、それの繰り返しで……っ」


息を吸い込む。肺に空気は入ってこない。


「なんで……どうして私、こんなところで……」


視界の端で、レジの高橋さんが怯えたようにこちらを見つめていた。


「あの子は……」


男も視線を高橋さんへ向けた。


「お前が最後に、生きて言葉を交わした相手なんじゃねえのか」

「最後の……」


雨の日の記憶の残骸が、静かに組み合わさっていく。


*


事故の日の夜。

研修中のプレートをつけた高橋さんは、まだ手際がおぼつかなかった。

レジ袋を床に落としてしまい、真っ赤になって拾い上げていた。


「すみません、申し訳ありません!」


何度も頭を下げる彼女に、私は思わず笑いかけたのだ。


「大丈夫ですよ、気にしないで」


会計を済ませ、レシートを受け取る。


「ありがとうございました」


そう言って頭を下げる彼女に、私は袋を提げながら、普段なら口にしない言葉を添えた。


「雨、ひどいけど頑張ってね」


高橋さんが顔を上げ、少しだけ安心したように笑った。


*


「……あの子が、最後だった」

「たぶんな」

「私、毎晩ここへ来て……あの子を怖がらせていたんですね」

「脅かす気で化けて出たわけじゃねえだろ」

「でも……」

「なら、言っとけよ」

「何をですか」

「知らねえよ」


男はベンチから身を起こし、スーツのシワを手で払った。


「お前が、言いたいことだよ」


*


私は、ゆっくりと売り場を歩いた。

牛乳の棚。

食パンの棚。


半額シールの貼られた焼き魚。

そして、デザートコーナーのプリン。

手を伸ばす。


指先にかすかな冷気を感じるけれど、商品はひとつも動かない。

今なら分かる。

最初から、何も買えてなどいなかった。


私はただ、あの日途切れてしまった日常の形を、必死に指先でなぞっていただけなのだ。

高橋さんのレジへ歩み寄る。

彼女の肩が、びくりと跳ね上がった。


「あ、あの……」


高橋さんが、レジの脇に立つスーツの男へ震え声で尋ねた。


「やっぱり、来てるんですか……?」

「ああ、いるぞ」

「どこに……」

「お前の、すぐ目の前だ」


高橋さんの顔から血の気が引いていく。

それでも彼女は、持ち場から逃げ出そうとはしなかった。

私は自嘲気味に微笑んだ。


「ごめんなさい」


声は空気の層を揺らさない。高橋さんの耳には届かない。


「やっぱり、聞こえねえか」


男が呟く。


「もう一回だ」


私は高橋さんの顔をまっすぐに見つめた。

あの雨の日の、おどおどしていた少女の面影はない。

少し髪が伸び、メイクも覚えて、大人びている。


それだけの月日が、私が立ち止まっているあいだに流れていったのだ。


「毎日」


魂を絞り出すように、喉を震わせた。


「毎日、ありがとうございました」


高橋さんの瞳が、見開かれた。


「……え?」


届いた。

耳元をかすめる風のような微かな音として、確かに届いたのだ。

私は笑った。


「あと、毎晩怖がらせてごめんなさい」


今度の言葉は、もう届かなかったらしい。

けれど、それで十分だった。


*


自動ドアへ向かって歩き出す。

プリンの棚の前を通り過ぎるとき、思わず足が止まった。


「お母さん、待ってるかな」


男がいつの間にか隣に並んでいた。


「待ってんじゃねえか」

「もう、ずいぶん遅くなっちゃいましたよね」

「向こうの時間は知らねえよ」

「いい加減ですね」

「知らねえもんは知らねえ」


くすっと笑いが漏れた。

ぶっきらぼうで、妙に救われる人だった。


「そういえば、お名前を聞いていませんでした」

「慈恩だ」

「慈恩さん」

「さん付けはいらねえ」

「じゃあ、慈恩さん」

「人の話を聞かねえやつだな」


ガラスの自動ドアの前に立つ。

いつもなら、ここから先へ足が出なかった。

家へ帰ろうとしてはあの交差点に阻まれ、またあの冷たいオフィスビルへ引き戻されていた。


けれど今夜は、もう迷いはない。

母のいる実家へ辿り着けるのか、それとも全く別の場所へ行くのか、私には分からない。

どこへ連れて行かれるのか、本当は少し怖い。


けれど。

この閉じた時間の輪の中に留まり続けることのほうが、ずっと恐ろしかった。

私はくるりと振り返った。


高橋さん。

レジカウンター。

白く明るい店内照明。

牛乳、食パン、そしてプリンの棚。

私が愛してやまなかった、平凡な仕事帰りの風景。


「それじゃあ」


何を言おうか迷って、結局、一番馴染みのある言葉を選んだ。


「お先に失礼します」


慈恩が、ポケットに手を突っ込んだまま片手をひらりと上げた。


「おう、お疲れさん」


ウィーン、と自動ドアが開く。

私は外の夜気の中へ踏み出した。


今度は、あの忌まわしい交差点へ向かうことはなかった。

どこへ続くのかも分からない夜道を、前を向いて歩いた。

不思議なほど、足取りは軽かった。


もう一度も振り返らなかった。


仕事を終えたとき。

「お疲れさま」と誰かに返事をもらえたのは、

本当に、久しぶりだった。


あの日以来、ずっと。

私は満足して、


本当の家へ、帰ることにした。




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