中編 九時十二分
次の日も、仕事が終わった。
腕時計を見やる。
二十時三十七分。
文字盤をしばらく見つめた。
「昨日も、一昨日も、この時間だったような……」
呟いてから、自分の神経質さがおかしくなった。
退勤時間なんて、毎日似通ってくるのが普通だ。定時より少し残業しただけの話である。
それでも、胸のざわつきは消えなかった。
「お先に失礼します」
定型句を口にする。
誰からも返事はなかった。
足を止める。
すぐ隣のデスクには同僚がいる。
一人は画面を睨みつけ、もう一人は立ったままバインダーをめくっていた。
「お疲れさまです」
少し語調を強めて呼びかける。
反応はない。
イヤホンでも差し込んでいるのかと思ったが、二人の耳には何もない。
少しむっとした。
疲れているのは、お互い様のはずなのに。
席を離れ際、机の端へ手をついた。
そこには半分ほど水が入った紙コップがあった。
倒してしまう、と思って反射的に手を引く。
けれど、紙コップは倒れなかった。
表面の水が揺れることすら、なかった。
「……?」
顔を寄せて観察する。
もう一度触れようと指を伸ばしかけて、やめた。
変な妄想に囚われすぎている。
バッグを肩にかけ、逃げるように会社を出た。
*
電車に乗る。
今日も私の両隣だけがぽっかりと空いていた。
向かいに座る女性が、何度かこちらへ目を向けた気がする。
けれど、視線は決して交錯しない。
中吊り広告に、大きなフォントで日付が印刷されていた。
新作映画の公開日らしい。
何月何日。
その数字に視線を這わせかけた瞬間、胸を突くような不快感が走り、慌てて目を逸らした。
なぜか、その日付を読んではいけない気がした。
今日が、何日なのか。
頭の中で手繰り寄せる。
水曜日。
たぶん。
けれど、日付の数字が出てこない。
スマートフォンを見れば一瞬で分かるはずだ。
けれど、ポケットから端末を出す気にはなれなかった。
知るのが、無性に怖かった。
*
スーパーへ辿り着く。
入口の時計を仰ぎ見た。
二十一時十二分。
まただ。
どんなに電車の混み具合が違っても、なぜ毎日この分まで同じなのだろう。
時計が狂っているだけかもしれない。
私はカゴを取り、いつもの売り場を回った。
牛乳。
食パン。
惣菜。
プリン。
デザートコーナーの角を曲がったところで、レジに立つ高橋さんが見えた。
私が通路に現れた瞬間から、彼女は震える両手で自分の二の腕をさすっている。
まただ。
今夜は、理不尽な苛立ちが胸をついた。
そんなに嫌悪感を剥き出しにされなければならない理由が分からない。
別のレジへ並ぼうと思った。
隣のレーンも空いている。
それなのに、足は磁石に引かれるように高橋さんの前へ向かってしまう。
自分で自分が制御できない。
「お願いします」
高橋さんは口を閉ざしたままだ。
その蒼白な顔を見据える。
「すみません」
反応はない。
声を張り上げた。
「私、何か気に障ることしましたか?」
高橋さんがうなじを両手で覆った。
細い肩が激しく波打つ。
「寒い……っ」
彼女の視線は、やはり私を捉えていない。
胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がる。
「そんなに、私が嫌ですか」
返答があるはずもなかった。
私の声など、最初からこの世に存在していないかのようだ。
高橋さんが急にレジ台へ手をついた。
ガクンと膝が折れそうになる。
「大丈夫!?」
思わず身を乗り出し、彼女の肩を支えようと手を伸ばした。
届いた。
触れた、はずだった。
けれど高橋さんの制服はわずかも窪まない。
私の掌だけが、冷たい煙をくぐるように彼女の肩を通り抜けていた。
「え……?」
もう一度、触れようと手を伸ばす。
肩。
腕。
何も掴めない。
皮膚の温もりも、布地の感触もない。
自分の両手を見つめ直した。
五本の指がある。
爪も、掌の皺もある。
透けてもいない。
「何、これ……」
背後の陳列棚へ手を伸ばした。
スナック菓子の袋に触れる。
指先にカサリとした感触はある。
けれど、どんなに力を込めて押し込んでも、袋は一ミリたりとも形を変えない。
押せない。動かない。
「……嘘でしょ?」
声が震えた。
高橋さんが隣のレジの店員に何事かを訴え、青ざめた顔のまま交代してもらっている。
誰も、私を見ようとはしなかった。
私は買い物を放り出し、転げるように店を飛び出した。
*
夜の歩道をがむしゃらに歩く。
街灯の下には人がいる。
帰宅途中の会社員。
自転車で通り過ぎる学生。
犬のリードを引く老人。
「すみません!」
前から歩いてくる男の人に呼びかけた。
男は眉ひとつ動かさず、私の肩すれすれを通り過ぎていく。
「お願い、誰か!」
別の女性の前に立ちはだかった。
女性はスマートフォンを見たまま、私を避けることすらせず歩き去る。
心臓が早鐘を打っていた。
バッグから震える手でスマートフォンを引っ張り出す。
母に電話をかけなければ。
アドレス帳を開く。
『お母さん』
登録はある。
名前をタップした。
コール音が鳴らない。
画面は発信中の表示にすら切り替わらない。
「なんで……」
通話履歴を開く。
真っ白だった。一件の履歴も残っていない。
メッセージアプリを起動しても、過去のやり取りが綺麗さっぱり消え失せていた。
「壊れてるんだ」
喉から掠れた息を吐き出す。
「機械が、壊れてるだけ」
とにかく家へ帰ろう。
自分の足で玄関を開けて、居間にいる母の顔を見ればいい。
そう言い聞かせ、記憶にある通学路を、通勤路を、早足で辿った。
*
けれど、大きな交差点の手前で足がぴたりと縫い止められた。
歩行者信号は青だ。
周囲の歩行者が次々と横断歩道を渡っていく。
私も前へ進もうと右足を踏み出す。
出ない。
足の裏が、まるでコールタールで固められたようにアスファルトから離れなかった。
「動いてよ……っ」
力を込めて身体を前へ倒そうとする。
その瞬間、頭の芯を金槌で殴られたような激痛が走った。
耳を劈く電子音のような耳鳴り。
網膜を焼き焦がす、暴力的な白い光。
甲高いスキール音。
誰かの悲鳴。
急激に胸が圧迫され、酸素が入ってこなくなる。
「やだ、やめて!」
頭を抱えて路上にうずくまった。
「何なの、これ……っ!」
ぎゅっと瞼を閉じる。
痛みが引くのを待ち、恐る恐る目を開けた。
目の前にあったのは、交差点のアスファルトではなかった。
見慣れたスーパーの自動ドアの前だった。
私は呆然と立ち尽くす。
「……どうして」
さっきまで、私は交差点にいた。
間違いなく、横断歩道の手前でうずくまっていたはずだ。
ウィーン、と音を立てて自動ドアが開いた。
買い物客が一人、袋を提げて出てくる。
私は引力に引きずられるように、再び店内へ足を踏み入れた。
*
壁掛け時計。
二十一時十二分。
見間違いではなかった。
針は、また同じ位置を指している。
レジには高橋さんがいた。
私が店に入った瞬間、彼女の背中が強張るのが見えた。
もう、近づくことすらできない。
青果コーナーの柱の陰に身を隠し、立ち尽くした。
どうすればいいのか分からない。
家に帰ることもできない。
誰にも声が届かない。
そのときだった。
「毎日、買い物してんの?」
すぐ近くから、低く掠れた声が降ってきた。
黒いスーツを着た男が立っていた。
年齢は判然としない。若くは見えないが、老人というほどでもない。
切れ長の細い目をしている。
カゴも持たず、品定めをする風でもなく、ただ気だるげに店内を見渡していた。
その男の視線が、
まっすぐに私を捉えていた。
気のせいではない。
はっきりと、目が合っている。
私は喉の奥で息を呑んだ。
周囲を見回すが、客はまばらで近くには誰もいない。
「……私に、言ってるんですか?」
「ほかに誰がいんだよ」
胸の奥の重苦しい澱が、ふっと軽くなった。
得体の知れない恐怖よりも先に、言葉が通じた安堵が涙のように込み上げてくる。
「私が見えるんですか」
「見えてる」
男は素っ気なく答えると、遠くのレジに立つ高橋さんへ視線を投げた。
「で?」
再び私へ視線を戻す。
「お前、自分がどこに帰ろうとしてるか、分かってんのか」
「家です」
即座に答えた。
けれど。
その先の言葉が、喉に引っかかって出てこない。
私の家。
母のいる場所。
玄関のタイルの色。
廊下の突き当たりのドア。
居間のテーブルの木目。
知っているはずの光景が、霧の向こうに溶けたように形を結ばない。
男の顔を見つめ返した。
「……私の、家です」
絞り出した声は、自分自身すら説得できないほど頼りなく震えていた。





