前編 仕事帰り
今日も、仕事が終わった。
パソコンを閉じる。
机の端に置いていたバッグを持った。
「お先に失礼します」
誰かが返事をした気がした。
時計を見る。
二十時三十七分。
最近、ずっとこの時間だ。
忙しい時期でもないのに、なぜか帰るのが遅くなる。
エレベーターを下りて、オフィスビルを出た。
九月の夜は、昼間より少しだけ歩きやすい。
日中はまだ汗ばむほどなのに、陽が落ちると風が冷たく肌を撫でる。
駅までの道を歩く。
途中のコンビニの前には、自転車が三台並んでいた。
スーツ姿の男の人が、こちらへ向かって歩いてくる。
ぶつかりそうになり、咄嗟に右へ避けた。
相手も急に同じ方向へ動く。
「すみません」
頭を下げて言ったけれど、声は聞こえなかったらしい。
男の人はぞっとしたように後ろを振り返り、早足で去ってしまった。
疲れているのだろう。
みんな同じだ。
*
駅のホームは混み合っていた。
一本見送ろうか迷ったけれど、滑り込んできた電車にそのまま乗る。
運よく席が空いていた。
端から二番目。
腰を下ろす。
そのあとも何人か乗り込んできた。
吊り革に掴まる人までいるのに、なぜか私の隣だけ最後まで誰も座らない。
ラッキーだった。
そう思って窓ガラスを見やる。
黒い車窓に、車内の蛍光灯がぼんやり映り込んでいた。
疲れた顔がいくつも重なっている。
けれど、自分の顔だけがうまく輪郭を結ばない。
車内が暗いせいだと思う。
バッグからスマートフォンを取り出す。
母に何か買って帰ろうか。
メッセージアプリを開こうとして、指を止めた。
たぶん、いつもと同じでいい。
牛乳。
食パン。
夕飯用の惣菜。
それから、プリン。
母はカスタードプリンが好きだ。
電車を降りる。
自動改札を通った。
通った、と思う。
最近、こういう何気ない日常の記憶がおぼつかない。
カードをタッチしているだけだから、意識に残らないのも無理はなかった。
*
スーパーへ着いた。
入口のデジタル時計は、二十一時十二分を指している。
この時間になると、客足はまばらだ。
残業帰りらしき会社員と、惣菜コーナーの値引きシールを待つ人がちらほらいるくらいだった。
私は入口で買い物カゴを取る。
野菜売り場を通り抜けた。
牛乳を一本。
六枚切りの食パン。
半額シールの貼られた焼き魚。
それからデザートの棚へ向かう。
プリンを一つ手に取った。
「今日はこれでいいかな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
母に確認の連絡を入れようかとも思った。
けれど、わざわざ端末を開くほどのことでもない。
家に帰れば、顔を合わせるのだから。
レジへ向かった。
いつもの女の子が入っている。
名札には「高橋」とあった。
十七歳くらいの高校生だろう。
髪を後ろでひとつに束ねていて、まだ幼さの残る顔立ちをしている。
私が近づくと、高橋さんがビクッと肩をすくめた。
寒いのだろうか。
レジカウンターは、冷凍食品のケースからは離れている。
けれど、このスーパーは夜間の冷房がやけに強い。
カゴをレジ台に乗せた。
「お願いします」
高橋さんは返事をしない。
隣のレジの客へ視線を泳がせている。
「お願いします」
もう一度声をかけた。
高橋さんのバーコードを通す手が止まる。
「……寒っ」
吐き出すような呟きだった。
彼女がこちらを見た。
目が合った、と思った。
けれど高橋さんの瞳は焦点を結ばず、私の頭の少し横の空間を、恐る恐る見つめているように思えた。
私はバッグからスマートフォンを出す。
「袋も一枚、お願いします」
高橋さんは言われるより一瞬早く、レジ下のポリ袋へ手を伸ばしていた。
妙だな、と思う。
私が頼む前に動いたように見えた。
まあ、毎日同じものを買っているから、覚えているのかもしれない。
少し気恥ずかしくなった。
画面に電子マネーのバーコードを表示させ、読み取り機にかざす。
ピピッ、と決済音が鳴ったような気がした。
「ありがとうございました」
高橋さんの震える声が響く。
「どうも」
小さく返して、買い物袋を指にかけ、自動ドアをくぐった。
*
次の日も、仕事が終わった。
二十時三十七分。
「お先に失礼します」
誰かが返事をした気がした。
駅へ向かう。
電車に揺られる。
スーパーへ寄る。
牛乳。
食パン。
惣菜。
プリン。
高橋さんのレジへ並ぶ。
彼女の肩が、小さく小刻みに震えていた。
少し心配になる。
風邪でも引いているのだろうか。
「大丈夫ですか」
声をかけた。
返事はない。
高橋さんは俯き、レジ台の奥から何かを取り出そうとしている。
店内放送の音楽にかき消されて、聞こえなかったらしい。
そのまま帰宅した。
たぶん。
*
また、次の日。
二十時三十七分。
業務を終える。
駅。
電車。
スーパー。
牛乳。
パン。
惣菜。
プリン。
高橋さん。
寸分違わぬ繰り返し。
最近、時間が経つのが異様に早い。
月曜日だったはずなのに、気づけば水曜日になっている。
水曜だと思えば、また夜のオフィスでパソコンを閉じている。
仕事の疲労が抜けないせいだと思う。
日中に何をしていたかも、退勤するころには記憶が霞んでしまっていた。
書類を作成した。
メールに返信した。
電話対応もこなした。
たぶん。
そんな毎日だった。
*
その日は、目当てのプリンが棚に残り一つだった。
「よかった」
思わず安堵の声が漏れる。
母が好きな、黄色いラベルの焼きプリンだ。
棚から取り、カゴの隅に置いた。
数歩進んでから、なぜか気になって振り返る。
理由なんてなかった。
ただ、背後が気になったのだ。
棚の同じ場所に、プリンがもう一つ置かれていた。
さっきまで、最後の一つだったはずなのに。
「……。二ケ、あったっけ?」
棚の奥を覗き込む。
同じ商品が整然と並んでいた。
見間違いだ。
自分のカゴを見下ろす。プリンは確かに収まっている。
なら、何も問題はない。
レジへ足を向けた。
今夜も高橋さんが立っている。
私の姿を視界に収める前から、彼女は血の気を引かせていた。
なんとなく、別のレジへ行こうかとも迷った。
けれど足は勝手に高橋さんの前へ向かってしまう。
習慣とは恐ろしいものだ。
台へカゴを滑らせる。
「お願いします」
高橋さんの肩が大きく跳ねた。
寒さに耐えるように、両腕を自分の手で抱きしめている。
その顔は、あからさまに怯え、引きつっていた。
胸の奥がちくりと痛む。
私、何か気に障るようなことをしただろうか。
袋の有無で揉めたこともなければ、値引きのことで怒鳴った覚えもない。
そもそも、この高校生とは日常会話すら交わしたことがないのだ。
それなのに。
私がレジに来るたび、彼女は尋常じゃない怯え方をする。
高橋さんが顔を上げた。
その視線は、やはり私の頭の少し後ろ、何もない空間へ注がれている。
思わず後ろを振り返った。
誰もいない。
「……私?」
唇から疑問がこぼれた。
高橋さんは口を真一文字に結んだままだ。
会計が終わった。
たぶん、終わったはずだ。
私は袋を抱えて出口へ向かった。
自動ドアの手前で、もう一度だけ振り返る。
高橋さんは、誰もいないはずのレジ前をじっと凝視していた。
真っ青な顔で、胸の前でぎゅっと両手を握りしめている。
本気で何かに怯えている顔だった。
自動ドアを抜けると、夜の冷気が頬を打つ。
アスファルトを踏みしめながら、奇妙な確信が胸に落ちてきた。
あの子。
私が来る時間だけ、あんなふうに震えている。





