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燃えカスの守り人 外伝  作者: K3
燃えカスの守り人 外伝「犬神村事件」

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9/17

社の奥、ひとりの戦い

月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。

Part 1 ——千年の覚悟

 

 廃村の、午後の光。午後三時半。

 

 わたくしのセーラー服が、黒い水で汚れていた。スカートのプリーツが重く垂れ、

 

 襟の白いラインも黒く染まっている。靴下の白も、もう、なかった。

 

 それでも、わたくしは歩いた。社の方へ。ひとりで。

 

 社の鳥居をくぐる。ぎい、と、古い木が軋んだ。

 

 境内はしんと静まり返っていた。風が止まっていた。セミの声もしなかった。廃村の外側の世界が、もう、ここには届かない。

 

 異界の入口、ですわね。

 

 間違いなく。

 

 社の前で立ち止まった。胸に、桃木剣の折れた柄を抱きしめている。折れた刃の方は、ござに置いてきた。

 

 今は、これぐらいしかできませんが

 

 坂東先生のお傍に。

 

 胸の中で、唇を噛んだ。涙は、もう出なかった。涙を流す時間は終わった。

 

 リュックを社の階段に下ろす。中を確認する。

 

 武器確認、ですわ。

 

 ひとつずつ、出していく。護符、三枚。四隅のお父様の結界札のうち、無事な一枚。お母様の勾玉。折れた桃木剣の柄。

 

 それから、リュックの底に、小さな桐の箱。

 

 お父様の、最後の札。「使うな」と言われたもの。「もし、君が死にそうになったら、それを使え」と。「君が、君自身を、守るためだけに使え」と。

 

 桐の箱を、両手で握った。

 

 お父様。わたくし、これはお役目で使いますわ。

 

 許してくださいませ。お叱りは、帰ってから受けます。もし、帰れたら。

 

 桐の箱をリュックに戻す。すぐに、取り出せるように。

 

 そして、最後の、お母様の勾玉。冷たい翡翠の感触。

 

 お母様。わたくし、いま、お母様の声を、思い出していますの。「真琴、覚悟は、できているのね」と。

 

 できています。

 

 勾玉を首にかけた。セーラー服の襟の内側に。肌に、直接、触れる。

 

 お母様、わたくしと一緒に、来てくださいませ。

 

 わたくしひとりでは、心細い、ですわ。

 

 そう、つぶやいた。

 

 立ち上がる。セーラー服を整える。スカートについた泥を払う。

 

 お嬢様としての所作だけは、最後まで。お父様の、お母様の、娘として。大津家のお嬢様として。千年の誇りを持って。

 

 そして、社の扉の前へ。両手を組んで、深く、頭を下げた。

 

「——大津家の、真琴、と申します」

 

 声が震えた。

 

「お役目を、果たしに参りました」

 

「失礼、いたします」

 

 そう告げた。

 

 扉に手をかける。ずる、と、重い木が軋んだ。社の中に、足を踏み入れた。

 

Part 2 ——井戸の前

 

 社の中は暗かった。外の光が、扉の隙間から薄く差し込むだけ。足元に苔。壁に、墨で何かが書かれていた。

 

 古い、結界の跡。千年、いえ、それ以上前の、結界。でも、もう効いてはいない。朽ちている。

 

 奥へ進んだ。

 

 社の奥に、井戸があった。円形の石組みの井戸。

 

 直径、一間ほど。蓋はない。中を覗き込むと、底が見えなかった。

 

 ただ、ただ。暗かった。

 

 これが、異界の入口。千と千尋の、湯屋の入口、みたいな。いえ、もっと古い。もっと深い。

 

 そして、井戸の底からぞわりと霊圧が立ち上った。赤い。濃い赤。

 

 犬神大明神。

 

 御霊がいらっしゃる。

 

『ミツケタ』

 

 低い、声。獣の声。でも、獣ではない、何か。

 

『ミツケタ ミツケタ』

 

『ニンゲン、ヒトリ、ミツケタ』

 

 声が、井戸の底からこだまのように響いた。ぞわっ。背筋が震えた。

 

……。でも、引かない。わたくし、ここまで来たんですもの。

 

 井戸の縁に近づいた。折れた桃木剣の柄を、両手で握り直す。

 

 そして——

 

「犬神大明神様」

 

 声が、井戸の底に落ちていく。

 

「大津家の、真琴、と申します」

 

「お話を、させていただいてもよろしいですか」

 

『……』

 

 井戸の底の赤い霊圧が、ざわめいた。

 

 そして、井戸の底から、それが、上がってきた。

 

 黒い毛。獣の四足。人間の腕が、胴体から何本も突き出ている。人間の顔が、胴体のあちこちに貼り付いている。口は、すべて、開いていた。無声の悲鳴。

 

 そして頭は、犬。赤い目。ぎらり、と、光った。

 

……これが、犬神大明神。千年の、守護神。四十七人の犠牲者の霊と、融合した、姿。

 

 いえ、それだけじゃない。犬の魂と、人の魂が、絡まり合って、もう、解けない。

 

 禍津神。

 

 桃木剣の柄を、強く握った。

 

 でも、顔だけは上げる。

 

 最後まで下は向かない。

 

 大津家の一員として。

 

『ニンゲン』

 

『マタ、キタカ』

 

 犬神大明神の口から、声。人の女の声と、男の声と、子供の声が、混ざっていた。

 

『ナンノ、ヨウダ』

 

「お鎮めに参りました」

 

 まっすぐに言った。

 

『……』

 

 犬神大明神が、低く唸った。

 

『ワタシハ、マモル』

 

『ニンゲンヲ、マモル』

 

『コノコモ、マモッテイル』

 

 犬神大明神の、人間の顔のひとつがぐにゃっと歪んだ。

 

『カエサナイ』

 

『ココハ、アンゼン』

 

『ソトハ、キケン』

 

『コノコモ、シラセタ』

 

『ココガ、イイ、ト』

 

 心臓が、鳴った。

 

 お役目に、集中するのです。

 

「では」

 

 桃木剣の柄を構えた。

 

「失礼、いたします」

 

Part 3 ——通用しない

 

 最初の、護符。

 

「急急如律令」

 

 わたくしの声が、社の中に響いた。護符がぱっ、と、青く光った。そして、犬神大明神に向かって飛んでいった。

 

……効きますように。お父様、お力を。

 

 護符が、犬神大明神の胸に、当たった。

 

 ぱきっ。

 

 !?

 

 ぱきっ、ぱきっ。

 

 護符が青く震えた。そして、ぱきん。砕けた。

 

 ただ、砕けた。犬神大明神は、ぴくりとも動かなかった。赤い目だけが、わたくしを見ていた。

 

……効かない。お父様の、護符が。

 

 手が震えた。

 

 でも、まだ、一発。大丈夫。

 

 もう一発、行きますわ。

 

 二枚目の護符。

 

「急急如律令」

 

 護符が飛ぶ。ぱきん。砕ける。何の変化もない。

 

……三発目。

 

「急急如律令」

 

 ぱきん。砕ける。

 

……。

 

 護符が、三枚とも、砕けて、地面に落ちた。

 

『ニンゲン』

 

 犬神大明神の、笑いにも聞こえる声。

 

『ハナビ、カ』

 

『キレイ、ダナ』

 

……。

 

 頬を、ひとすじの汗が伝っていった。

 

 お父様の護符が、通用しない。大津家千年の家伝が、花火、扱い。

 

 唇を噛んだ。

 

 でも、まだ。四隅の結界札。あれは、お父様が、直接お貼りになったもの。千年の力が、込められている。

 

 リュックから、無事な一枚の結界札を取り出す。それを、犬神大明神に向けて構えた。

 

「大津家の、結界札ですわ」

 

「封じます」

 

 結界札が青く光った。そして、四角い結界の枠が、犬神大明神の周りに立ち上がった。

 

 ! 光った! 通用したかも——お父様、ありがとう——

 

 そう思った、瞬間。

 

 結界の枠がぱきんと四方が同時に、割れた。

 

 !?

 

 結界が空中で、四つの欠片になって、霧散した。犬神大明神は、ぴくりとも動かなかった。

 

『……』

 

 赤い目が、わたくしを見ていた。

 

『ナマヌルイナ』

 

『コノマエ、キタ、ノモ、ナマヌルカッタ』

 

『オマエ、アレヨリ、ヨワイ』

 

……。前。前の、若手陰陽師さん、ですわね。同等の。

 

 それと、同じ扱い。いえ、もしかしたら、それ以下。

 

 目に、涙が滲んだ。

 

 お父様。お父様の、結界札が、通用しない。わたくしの、お父様の、結界札が。

 

 でも、まだ、ある。お母様の勾玉。お母様の声が、まだ、聞こえる。「真琴、覚悟は、できているのね」と。

 

 襟の内側から、お母様の勾玉を取り出した。両手で握りしめる。冷たい、翡翠。

 

 お母様、お力をお貸しください。大津家の、千年の血を、お貸しください。

 

 勾玉がふわり、と青く光った。

 

 ! 光った! お母様、ありがとう——

 

 勾玉から、青い光の糸が伸びる。その糸が、犬神大明神に向かって飛んでいった。

 

 清めの糸。

 

 千年にわたり受け継がれた血脈が織り上げた秘術

 

『……』

 

 犬神大明神は、その糸を見ていた。そしてぱくりと口を開けた。青い糸が、犬神大明神の口の中に、吸い込まれた。

 

 !?

 

 ぱくん。

 

『……』

 

『ウマイ』

 

『マダ、アルカ』

 

 !?

 

 食べた。お母様の清めの糸を、食べた。秘術の力を、餌に。

 

 わたくしの勾玉が震えた。そして、ぱきっと、翡翠にひびが入った。

 

 ! お母様! お母様の、勾玉、が——

 

 両手で、勾玉を握りしめた。

 

 ぱきん。

 

 翡翠が、砕けた。手のひらの中で、緑の欠片になって、ぽろぽろ、と、地面に落ちた。

 

「……」

 

 落ちた緑の欠片を見ていた。千年の、お母様の勾玉。砕けた。ただ、砕けた。

 

『マダ、アルカ』

 

 犬神大明神の声。

 

『マダ、アルナラ、ダセ』

 

『オマエ、ヨワイ』

 

『デモ、アジハ、イイ』

 

……。まだ。まだ、ある。お父様の最後の札。「使うな」と、言われたもの。

 

 でも、使う。わたくしが、わたくしを守るために、ではなく。お役目を果たすそのために。

 

 お父様、お叱りは、後で。

 

 リュックから、桐の箱を取り出した。両手で開ける。中に、一枚の札。朱色の墨で書かれた文字。

 

 禁じ手の護符。お父様が、二十年前、一度だけお書きになったもの。「使えば、相手の魂が、消える」と。「だから、使うな」と。「最後の、最後の、手段」と。

 

 その札を両手で、胸の前に構えた。

 

 お父様。わたくし、これ、犬神大明神様に使いますわ。犬神大明神様、ごめんなさい。あなたを、消すこと、許してくださいませ。美咲さんを、お返しいただくため、ですから。

 

 いえ、本当は——美咲さんを、助けるためですらない。もう、わたくしが——わたくしが、限界、なんですわ。

 

 お許しくださいませ。

 

 札に、「滅却」と、声を吹き込んだ。

 

 朱色の文字がぼう、と燃えた。そして、札が、犬神大明神に向かって飛んでいった。

 

 朱色の火球が、犬神大明神にぶつかった。

 

 ぼう、と、朱色の炎が、犬神大明神の全身を包んだ。

 

 ! 燃えた! お父様の、禁じ手の秘術——! 通用、した——!

 

 桃木剣の柄を、ぎゅっと握りしめた。

 

 お父様、ありがとう——美咲さんを、お返しいただけます——

 

 そう思った、瞬間。朱色の炎が、ぴた、と、止まった。

 

 !?

 

 朱色の炎が、犬神大明神の体の表面で、止まっていた。そしてぱきんとその炎が砕けた。ただ、砕けた。

 

『……』

 

『キレイ、ナ、ヒ、ダナ』

 

 犬神大明神の声。

 

『デモ、ヌルイ』

 

『ニンゲン、オマエ、ニハ、コレ、ハ、ハヤイ』

 

……。

 

 その場に崩れ落ちた。膝が地面についた。両手が地面についた。頭が垂れた。

 

……お父様の護符が、通用しない。お父様の結界札が、通用しない。お母様の勾玉が、通用しない。お父様の禁じ手が、秘術が、通用しない!

 

 わたくしの、大津家の、千年にわたり受け継がれた秘術、全てが、通用しない。

 

 ここでは、通用、しないのです。

 

 涙がぽたり、と地面に落ちた。

 

 影が滲みひろがり、足元からわたくしを呑む口となった。

 

 大いなる狼の口が、わたくしという灯をひと呑みにした。

 

Part 4 ——井戸の底、美咲

 

 落ちる。ふわり、と。

 

 落ちている、というより、降りていく感覚。体が、軽い。時間が、ゆっくり流れている。

 

……これが、異界。千と千尋で見た、湯屋へのエレベーター、みたい。

 

 お父様のお話で聞いた。「異界の入口は、地面の下にある」と。

 

 「井戸が、その入口になることが、多い」と。

 

 「中に入れば、時間が、ゆっくりになる」と。

 

 「だから、千と千尋では、両親を救い出す時間がある」と。

 

 「でも、長くいては、いけない」と。

 

 「人間は、異界に長くいると、自分が誰か、忘れる」と。

 

……わたくし、覚えていますわ。大津家の、真琴。お父様の娘。

 

 お母様の娘。千年続いたお役目。忘れません。絶対に。

 

 地面に、足がついた。ふわり、と。

 

 そこは——廃村の、夜だった。

 

 ! え?

 

 廃村がそこにあった。でも、外の廃村ではない。家屋が、朽ちていない。新しい。人が住んでいた頃の、廃村。

 

……これが、千年前、いえ、四十七人が殺された、あの夜の、廃村。

 

 夜。月のない夜。家屋の戸が、すべて、開いていた。

 

 そして、家屋の中に、人が、いた。胡座をかいて。胸が四方に開いて。肋骨が花のように咲いて。顔の皮膚が半分、剥がれて。

 

……若手陰陽師さんと、同じ姿。いえ、四十七人、全員、同じ姿。一斉に、同じ時に、同じ仕方で、殺された。

 

……一九八一年八月の、あの夜。

 

 その時、ふと、自分の袖に目を留めた。

 

 セーラー服の袖の縁。白いラインが、じわりとにじんでいた。

 

……? ぴしっ。

 

 袖の生地の、ほつれた糸が、空気に解けるように、すこしずつ消えていった。

 

 煙のように、薄く。

 

 大津家の霊具。わたくしのセーラー服。それが、少しずつ、溶けている。

 

……異界の空気に、「人間のもの」が、馴染まないから。

 

 お父様、お話してくださった。

 

 「異界に長くいると、霊具は溶けてくる」、と。

 

 「とくに、相手が格上だと、尚、早い」、と。

 

 「人間の力で、縛られた衣だから」、と。

 

……わたくしの、お母様の形見。解けている。

 

 袖の縁が、すこし、短くなった。

 

 それでも、進んだ。

 

 家屋の前で立ち止まった。

 

……南無、阿弥陀仏。南無、阿弥陀仏。南無、阿弥陀仏。

 

 胸の中で、念じた。

 

 みなさま、どうかお休みくださいませ。わたくしが、必ず、お救いします。

 

 いえ、お救いできる、とは、もう言えませんが。せめて、お参りさせていただきます。

 

 家屋の戸口で、深く頭を下げた。そして、廃村の奥へ歩いた。

 

 廃村の奥。社の跡。社の横に——小さな女の子が、うずくまっていた。

 

 膝を抱えて。両手で、頭を抱えて。ふるふる、と、震えていた。

 

……! あの方が、美咲さん!

 

 駆け寄った。

 

「美咲さん!」

 

 女の子が、ゆっくりと、顔を上げた。

 

……生きていらっしゃる。息、ある。目、ある。意識、ある。

 

 美咲ちゃんの白いワンピースは、泥だらけだった。ところどころ、破れていた。スカートの裾も、藪をくぐった時に裂けたのか、ぼろぼろ。

 

 三日間、廃村に。

 

 いえ、異界の時間で、もっと長く。

 

 そして、その時、美咲ちゃんの足元に目を留めた。

 

……?

 

 地面に、おにぎりの包み紙が、何枚か、落ちていた。コンビニの、ふつうの包装。半分以上は、すでに開けられて、食べた跡があった。空のペットボトルも、二本。封の切られた、ふつうの水。

 

 なに、これ。

 

 コンビニのおにぎり、と、水……?

 

 どなたか、いらっしゃった?

 

 でも、廃村に、コンビニ、ない。

 

 いえ、外から、持ち込んだ?

 

 どなた、が?

 

 ここ、異界の、奥、ですわよ。

 

 大津家千年の、結界も、通用しない、場所。

 

 なのに、コンビニのおにぎり、が、落ちている。

 

 包み紙の一枚に、ふと、目を留めた。何か、墨で、薄く、文字が書かれている。

 

……?

 

……これ、お符。

 

 簡易の、保存符。

 

 食べ物が、傷まないように、お力を、添えたお符。

 

 わたくしも、知っているお符、ですけれど。

 

……どなたが、書かれたの。

 

 お字が、丁寧、ではない。

 

 でも、お力は、本物。

 

 ふつうの、お符の使い方では、ない。

 

 ふだん、書き慣れている、お方の、お字。

 

……。

 

 美咲ちゃんは、ぽろぽろと、涙を流していた。

 

「お父様……」

 

 か細い声。

 

「お父様、助けて……」

 

 ! 「お父様」って、おっしゃっている。いえ、心の中で、お父様を呼んでいらっしゃる。

 

 「助けて」「お父様」「助けて」と、ずっと、呼んでいらっしゃった。

 

 しゃがんで、美咲ちゃんと目線を合わせた。

 

「美咲さん」

 

「大津家の、真琴、と、申します」

 

「お祖父様の、久能様の、お遣いで、参りました」

 

 美咲ちゃんがぱちりと目を見開いた。

 

「……お祖父、ちゃん?」

 

「ええ。お祖父様が、あなたを、心配していらっしゃいます。お母様も。みなさま、あなたが、お戻りになることを、お待ちです」

 

「美咲さん、ひとつ、お訊ねしても?」

 

「……は、はい」

 

「足元に、おにぎりと、お水、ありましたわよね」

 

「あれは、どなたから?」

 

 美咲ちゃんが、首を、傾げた。

 

「……わたし、知らない、です」

 

「気が、ついたら、横に、落ちて、いて……」

 

「お腹、空いて、いたので、食べました……」

 

「ごめんなさい、知らないものを、食べて……」

 

 美咲さんの声が細い。

 

「いえ、それは、よろしいの、ですよ」

 

「どなたか、見ましたか? お顔とか」

 

「……いえ、見ていない、です」

 

「ただ、落ちて、いただけ、で……」

 

……。

 

 どなたかが、井戸の上から、落とした、ということ、ですわね。

 

 美咲さんに、お会いせず、見せず、ただ、お命をつなぐためだけに。

 

……。

 

 どなた、ですの、それ。

 

 美咲ちゃんの唇が震えた。そして——

 

「ぐすっ」

 

 涙が、ぽたぽた、と、落ちた。

 

「お祖父ちゃん……」

 

「お母さん……」

 

「ごめんなさい……」

 

「ごめんなさい……」

 

 美咲さんの小さな肩が震えた。

 

「肝試し、なんて、しなければ、良かった……」

 

「隼くんが、熱、出して、来なかったから、わたしも、戻れば、良かったのに……」

 

「ひとりで、来ちゃった……」

 

「ごめんなさい……」

 

……。美咲さん。責めない。責めない。もう、十分。

 

 美咲ちゃんをそっと抱きしめた。両腕で、ぎゅっと。

 

「美咲さん」

 

「お帰りしましょう。ご家族の元へ」

 

「お祖父様、お母様、お待ちです」

 

「お父様、おっしゃっていましたわよ」

 

「『美咲、帰っておいで』、と」

 

 お父様、本当は、おっしゃっていないけど。でも、本当のお父様、きっと、おっしゃるはず。

 

 美咲ちゃんが、わたくしのセーラー服に、しがみついた。

 

「……帰り、たい」

 

「お母さんに、会いたい」

 

「お祖父ちゃんに、会いたい」

 

「ごめんなさいって、言いたい」

 

「うん。お帰りしましょう」

 

 美咲ちゃんを抱き上げた。両腕で。

 

 軽い。お痩せになっている。何も、食べていらっしゃらなかったのね。

 

 異界の時間で、もっと長く、感じていらしたのかも。

 

 美咲ちゃんを抱いたまま、廃村の外へ向かって、歩き出した。

 

 闇を梢へ手繰り、ただ上へ、光の方へ。

 

 そして、社の跡の向こうに、赤い目が、並んでいた。

 

……。犬神大明神様。いらっしゃった。異界の中まで、お見送りに。

 

『……ニンゲン』

 

『デルナ』

 

『コノコハ、ココニ、イル』

 

『オマエ、モ、ココニ、イル』

 

『ココ、ガ、イイ』

 

 美咲ちゃんをぎゅっと抱きしめた。

 

 そして、

 

「犬神大明神様」

 

 声が震えた。

 

「美咲さんは、ご家族の元へ、お戻りになります」

 

「わたくしも、ご一緒します」

 

「失礼、いたします」

 

『……』

 

 犬神大明神の赤い目がぎらりと光った。

 

 そして、赤い目が、四つ、八つ、十六、増えた。廃村の四方の家屋の影から、ぞわりぞわりと赤い目が増えていった。

 

……。眷属。四方の山に封じられていた、眷属も、いらっしゃった、のですね。

 

 犬神大明神様、本気で、わたくしをお逃しにならない。わかりましたわ。

 

 美咲ちゃんを抱きしめたまま、走り出した。井戸の方へ。廃村の外へ。

 

 お父様、お母様、お力を。もう、道具はない。でも、お力を、お貸しください。美咲さんだけは、お返しします。わたくしが、盾になります。

 

 赤い目が、追ってくる。ぞわりぞわりと廃村の地面が揺れた。

 

 そして——その時。

 

 セーラー服の溶解が、加速した。

 

 ぴしっ。

 

 袖口の糸が、ふわりと、空気へ解けて、消えた。

 

 ! 速い。

 

 さっきより、ずっと速い。

 

 犬神大明神様の霊圧。それが、衣を、押し剥がしている。

 

 布の内側に織り込まれた呪が、ひとつ、またひとつ、ほどけていく。

 

 お母様が、一針ずつ、縫い込んでくださった守り。

 

 それが、糸に戻り、糸が、煙に戻って、消えていく。

 

 護符も。

 

 結界札も。

 

 お母様の勾玉も。

 

 お父様の禁じ手も。

 

 ぜんぶ、剥がされた。

 

 最後に残った、この一枚まで。

 

 襟の後ろで、リボンが、ふわりと、ほどけた。

 

 お母様の、お形見。

 

 ひとひら、空に溶けて、もう、ない。

 

 裾が、袖が、端から繊維になって、解けていく。

 

 布の奥で、ずっと淡く鳴っていた力が、ふつ、と、止んだ。

 

 盾が、なくなった。

 

 わたくしを包んでいた、千年が、なくなった。

 

 そして、気づく。

 

 冷たい。

 

 異界の冷たさが、もう、衣ごしではない。

 

 じかに、わたくしへ、届いている。

 

……お父様、おっしゃった。

 

 「霊具が溶けたら、次は、人だ」、と。

 

 「異界は、人間のものを、ひとつずつ、ほどいていく」、と。

 

 衣の、次は。

 

 わたくし、自身。

 

 わたくしが、わたくしでなくなる、番。

 

 指の先が、すこし、遠い。

 

 自分の輪郭が、滲んでいくような、心地。

 

 いえ。

 

 奥歯を、噛んだ。

 

 わたくしは、大津家の、真琴。

 

 お父様の娘。お母様の娘。

 

 忘れない。解けない。絶対に。

 

 美咲ちゃんを、ぎゅっと、抱き直した。

 

 腕の中の、ぬくもり。

 

 それだけが、まだ、確かだった。

 

 この子だけは、お返しする。

 

 それだけは、絶対に。

 

 走った。

 

 むき出しの意志だけで、走り続けた。

 

 !

 

 その時。正面に——巨大な影が、立ちはだかった。犬神大明神の本体。赤い目が、わたくしを見下ろしていた。

 

『ニンゲン』

 

『カエサナイ』

 

 そして、口が、開いた。ぱくり、と。わたくしと、美咲ちゃんを、呑み込もうとした。

 

……! ここまで、でしょうか。お父様、お母様、ごめんなさい。美咲さん、ごめんなさい。ご家族の元へ、お戻しできず、申し訳、ありません。

 

……。

 

 美咲ちゃんをぎゅっと抱きしめた。

 

 いえ。

 

 まだ、終わっていない。

 

 残った力を、ぜんぶ、この一声に。

 

 声が、続くかぎり。意志が、保つかぎり。正確に、ひと言の淀みもなく。

 

 息を、吸った。

 

「神仏、兵、ことごとく——」

 

「我が前に、列をなして、守護せよ——!」

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。



次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


Nolaノベル

黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】


最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637


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