父の席
父の椅子が、毎晩ひとりでに後ろへ下がる。
夕飯のあいだは、ちゃんとみんなと同じ位置にある。
それが、片づけを終えて居間の電気を消すころには、その椅子だけ食卓から半歩、後ろへ引かれているのだ。
わたしが戻しても、母が戻しても、朝にはまた離れている。
そこに座る人が、自分からその席を降りたがっているみたいだった。
父が会社を辞めさせられたのは、桜の散るころだった。
二十三年勤めた会社で、課長だった人だ。
帰ってきたその日、父は「早期退職ってやつでな」と笑っていた。
母も笑い、わたしも笑った。
笑うしかなかった。
まだ誰も、椅子のことには気づいていなかった。
◆◇
それから父は、朝になると背広を着て出かけ、夕方に帰ってくるようになった。
ハローワークと、面接だ。
けれど何週間たっても、決まったという話は聞かない。
食卓で母が「どうだった?」と訊くと、父は「うん」とだけ言って、味噌汁に目を落とす。
その「うん」のたびに、父の背中が、ほんの少し丸くなる気がした。
わたしは、何度も言った。
「大丈夫だよ」
母も言った。
「焦らなくていいのよ」
父はそのたびに笑った。
ありがとう、とも、そうだな、とも言わず、ただ口の端だけを少し上げた。
そのころから、父はいろんなものを遠慮するようになった。
テレビの音量。
おかずの取り箸。
エアコンの温度。
母が「もっと食べて」と皿を寄せると、父は「いや、いい」と言った。
わたしがリモコンを渡すと、「見たいものないから」と言った。
まるで、この家のものを使う権利が、自分にはもう半分しかないみたいに。
椅子が下がりはじめたのも、そのころだ。
母は最初、床が傾いているのだと言った。
わたしも、そう思おうとした。
でも、下がるのは父の椅子だけだ。
四脚のうち、父のものだけが、毎晩ひとりでに後ろへ退いていく。
食卓から、少しずつ。
家族の輪から、少しずつ。
◆◇
母がパート先で、その話をした。
神宝町のはずれに、看板もないビルがある。
その十階に、拝み屋がいるらしい。
祓うのが商売じゃなくて、気づかせるのが商売だと、その人は言うそうだ。
わたしが行った。
父は連れて行けなかった。
父は今、「相談」という言葉に、いちばん傷つくから。
十階のドアを開けると、煙草のにおいがした。
糸のように細い目をした男が、アロハシャツのまま、古い腕時計をいじっていた。
机には、ポケット灰皿と、小さな瓶。
「拝み屋の慈恩です」と、その人は言った。
若い。三十前くらいに見えた。
わたしが椅子の話をすると、慈恩さんは「なるほど」と言って、それきりしばらく黙った。
「お父さん、面接、うまくいってないでしょう」
「……はい」
「家で、優しくされてますか」
変な質問だと思った。
「はい。母も、わたしも、なるべく普通にしてます。大丈夫だよ、って」
「それだ」
慈恩さんは、細い目をますます細くした。
「その『大丈夫だよ』が、お父さんを食卓から押し出してるんですよ」
意味がわからなかった。
大丈夫と言わなければ、父が壊れてしまう気がした。
焦らなくていいと言わなければ、父を責めているみたいになると思っていた。
「いいですか。人はね、自分の居場所がないと感じたとき、無意識に半歩引くんです。お父さんは、稼ぐことで家族の真ん中にいた人だ。その稼ぎがなくなった。だから自分で、椅子を引いてる。誰かに言われる前に、先に降りようとしてるんですよ」
現代の理屈だ、と思った。
霊なんて、関係ないみたいに聞こえた。
「そう。ここまでは、ぜんぶ気持ちの話です」
慈恩さんは瓶を振った。
粗塩の音がした。
「でもね、気持ちってのは、置きっぱなしにすると、形になる。お父さんが会社に置いてきたものが――『会社員のお父さん』が、まだ家に帰れてないんです。玄関までは来てる。でも、食卓には、座れない」
会社員のお父さん。
その言葉で、父の背広姿が浮かんだ。
毎朝、玄関で靴べらを使う背中。
ネクタイを締める指。
もう行く会社がないのに、それでも背広を着る父。
わたしは、初めて怖くなった。
椅子が怖いのではなかった。
父が、自分の席から消えていくことが怖かった。
◆◇
その晩、慈恩さんは家に来た。
線香を一本、玄関で焚く。
細い煙が、まっすぐ廊下を進んで、父の椅子の前で、ふっと横に流れた。
「ここですね」
慈恩さんは言った。
「入ってきてない。ドアの外で、待ってる」
父は、青い顔をしていた。
「祓ってください」と父は言った。
「気味が悪い。家族に、こんな……」
「祓いません」
慈恩さんは即座に言った。
「座ってください、お父さん。その椅子に」
「でも」
「いいから、座る」
声が、低くなった。
細い目が、開いていた。
父は、逃げるみたいに椅子に座った。
いつもの父の席だった。
けれど、その夜の父は、客みたいに浅く腰かけた。
すぐ立てるように。
追い出される前に、自分から立てるように。
慈恩さんは、わたしと母のほうを向いた。
「お母さんも、娘さんも。今から、なにも言わないでください。『大丈夫』も、『頑張って』も、『気にしないで』も。ぜんぶ禁止です」
「どうして」
母が言った。
「励ましちゃ、だめなんですか」
「励ましは、『稼げないあなたを許す』ってことでしょう。許すってことは、その人をいったん外に出すってことだ。あなたたちは優しさで、お父さんを、毎晩ドアの外に出してたんですよ」
食卓が、しんとした。
母の顔が、歪んだ。
そんなつもりじゃない、と言いたそうだった。
わたしも同じだった。
そんなつもりじゃなかった。
ただ、父を傷つけたくなかった。
けれど父は、ずっと傷ついていた。
父は、座っていた。
誰も、なにも言わない。
時計の秒針の音だけがする。
父の手が、テーブルの上で行き場をなくしていた。
箸もない。
書類もない。
名刺もない。
父は、なにも持っていなかった。
長い沈黙のあとで、父が小さな声で言った。
「……怖い」
母が、息を呑んだ。
「なにを、すればいいか、わからん」
父はテーブルを見たまま言った。
「会社なら、わかった。朝行って、仕事して、帰る。それだけで、俺はここにいていい気がしてた。今は……座ってるだけで、悪いことをしてる気がする」
慈恩さんは、なにも言わなかった。
ただ、うなずいた。
わたしは「大丈夫」と言いたかった。
喉まで出かかった。
でも、慈恩さんがちらりとこっちを見た。
だから、言わなかった。
代わりに、父の湯呑みにお茶を注いだ。
母が、父の茶碗にごはんをよそった。
だれも、なにも言わない。
父は湯呑みを持った。
まだ、怖い顔のままだった。
でも、椅子から立たなかった。
お茶をひと口飲んで、茶碗を手前に引いた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
父が、自分の席で、自分のごはんを食べる音だった。
◆◇
翌朝、目を覚まして食卓に行くと、父の椅子は、いつもの位置に戻っていた。
半歩も、下がっていなかった。
わたしは、しばらくその椅子を見ていた。
ただの木の椅子だった。
何年も父が座って、背もたれの角が少し擦れている、ただの椅子だった。
慈恩さんは帰りぎわ、玄関で、無地のカードを一枚、父に渡していた。
慰めの言葉じゃなくていい。
ほんとのことを一言書いて、食卓に置いておけと言って。
父がなにを書いたのか、わたしは知らない。
カードは、伏せて置かれていた。
母も、わたしも、めくらなかった。
たぶん、それでよかった。
父が食卓に置いたものを、勝手に確かめなくてもいい。
父はもう、そこに座っているのだから。
◆◇
父の再就職は、まだ決まっていない。
あの朝から何日たっても、電話は鳴らない。
父はあいかわらず、背広を着て出かけ、疲れた顔で帰ってくる。
母は「どうだった?」と聞かなくなった。
わたしも「大丈夫」と言わなくなった。
その代わり、母は父の茶碗にごはんをよそう。
わたしは父の湯呑みにお茶を注ぐ。
父はそれを受け取って、食べる。
毎朝、食卓に座る。
ごはんを食べる。
「いってくる」と言って出ていく。
「怖い」とは、もう言わない。
怖くなくなったわけでは、ないのだと思う。
ただ、怖いまま座っていてもいいのだと、少しだけわかったのだと思う。
椅子は、もう下がらない。
会社員のお父さんは、たぶん、まだ帰ってきていない。
でも、ただのお父さんが、ちゃんとそこに座っている。
空っぽの両手を、テーブルの上に置いて。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
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