社の奥、ひとりの戦い
月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
Part 1 ——千年の覚悟
廃村の、午後の光。午後三時半。
わたくしのセーラー服が、黒い水で汚れていた。スカートのプリーツが重く垂れ、
襟の白いラインも黒く染まっている。靴下の白も、もう、なかった。
それでも、わたくしは歩いた。社の方へ。ひとりで。
社の鳥居をくぐる。ぎい、と、古い木が軋んだ。
境内はしんと静まり返っていた。風が止まっていた。セミの声もしなかった。廃村の外側の世界が、もう、ここには届かない。
異界の入口、ですわね。
間違いなく。
社の前で立ち止まった。胸に、桃木剣の折れた柄を抱きしめている。折れた刃の方は、ござに置いてきた。
今は、これぐらいしかできませんが
坂東先生のお傍に。
胸の中で、唇を噛んだ。涙は、もう出なかった。涙を流す時間は終わった。
リュックを社の階段に下ろす。中を確認する。
武器確認、ですわ。
ひとつずつ、出していく。護符、三枚。四隅のお父様の結界札のうち、無事な一枚。お母様の勾玉。折れた桃木剣の柄。
それから、リュックの底に、小さな桐の箱。
お父様の、最後の札。「使うな」と言われたもの。「もし、君が死にそうになったら、それを使え」と。「君が、君自身を、守るためだけに使え」と。
桐の箱を、両手で握った。
お父様。わたくし、これはお役目で使いますわ。
許してくださいませ。お叱りは、帰ってから受けます。もし、帰れたら。
桐の箱をリュックに戻す。すぐに、取り出せるように。
そして、最後の、お母様の勾玉。冷たい翡翠の感触。
お母様。わたくし、いま、お母様の声を、思い出していますの。「真琴、覚悟は、できているのね」と。
できています。
勾玉を首にかけた。セーラー服の襟の内側に。肌に、直接、触れる。
お母様、わたくしと一緒に、来てくださいませ。
わたくしひとりでは、心細い、ですわ。
そう、つぶやいた。
立ち上がる。セーラー服を整える。スカートについた泥を払う。
お嬢様としての所作だけは、最後まで。お父様の、お母様の、娘として。大津家のお嬢様として。千年の誇りを持って。
そして、社の扉の前へ。両手を組んで、深く、頭を下げた。
「——大津家の、真琴、と申します」
声が震えた。
「お役目を、果たしに参りました」
「失礼、いたします」
そう告げた。
扉に手をかける。ずる、と、重い木が軋んだ。社の中に、足を踏み入れた。
Part 2 ——井戸の前
社の中は暗かった。外の光が、扉の隙間から薄く差し込むだけ。足元に苔。壁に、墨で何かが書かれていた。
古い、結界の跡。千年、いえ、それ以上前の、結界。でも、もう効いてはいない。朽ちている。
奥へ進んだ。
社の奥に、井戸があった。円形の石組みの井戸。
直径、一間ほど。蓋はない。中を覗き込むと、底が見えなかった。
ただ、ただ。暗かった。
これが、異界の入口。千と千尋の、湯屋の入口、みたいな。いえ、もっと古い。もっと深い。
そして、井戸の底からぞわりと霊圧が立ち上った。赤い。濃い赤。
犬神大明神。
御霊がいらっしゃる。
『ミツケタ』
低い、声。獣の声。でも、獣ではない、何か。
『ミツケタ ミツケタ』
『ニンゲン、ヒトリ、ミツケタ』
声が、井戸の底からこだまのように響いた。ぞわっ。背筋が震えた。
……。でも、引かない。わたくし、ここまで来たんですもの。
井戸の縁に近づいた。折れた桃木剣の柄を、両手で握り直す。
そして——
「犬神大明神様」
声が、井戸の底に落ちていく。
「大津家の、真琴、と申します」
「お話を、させていただいてもよろしいですか」
『……』
井戸の底の赤い霊圧が、ざわめいた。
そして、井戸の底から、それが、上がってきた。
黒い毛。獣の四足。人間の腕が、胴体から何本も突き出ている。人間の顔が、胴体のあちこちに貼り付いている。口は、すべて、開いていた。無声の悲鳴。
そして頭は、犬。赤い目。ぎらり、と、光った。
……これが、犬神大明神。千年の、守護神。四十七人の犠牲者の霊と、融合した、姿。
いえ、それだけじゃない。犬の魂と、人の魂が、絡まり合って、もう、解けない。
禍津神。
桃木剣の柄を、強く握った。
でも、顔だけは上げる。
最後まで下は向かない。
大津家の一員として。
『ニンゲン』
『マタ、キタカ』
犬神大明神の口から、声。人の女の声と、男の声と、子供の声が、混ざっていた。
『ナンノ、ヨウダ』
「お鎮めに参りました」
まっすぐに言った。
『……』
犬神大明神が、低く唸った。
『ワタシハ、マモル』
『ニンゲンヲ、マモル』
『コノコモ、マモッテイル』
犬神大明神の、人間の顔のひとつがぐにゃっと歪んだ。
『カエサナイ』
『ココハ、アンゼン』
『ソトハ、キケン』
『コノコモ、シラセタ』
『ココガ、イイ、ト』
心臓が、鳴った。
お役目に、集中するのです。
「では」
桃木剣の柄を構えた。
「失礼、いたします」
Part 3 ——通用しない
最初の、護符。
「急急如律令」
わたくしの声が、社の中に響いた。護符がぱっ、と、青く光った。そして、犬神大明神に向かって飛んでいった。
……効きますように。お父様、お力を。
護符が、犬神大明神の胸に、当たった。
ぱきっ。
!?
ぱきっ、ぱきっ。
護符が青く震えた。そして、ぱきん。砕けた。
ただ、砕けた。犬神大明神は、ぴくりとも動かなかった。赤い目だけが、わたくしを見ていた。
……効かない。お父様の、護符が。
手が震えた。
でも、まだ、一発。大丈夫。
もう一発、行きますわ。
二枚目の護符。
「急急如律令」
護符が飛ぶ。ぱきん。砕ける。何の変化もない。
……三発目。
「急急如律令」
ぱきん。砕ける。
……。
護符が、三枚とも、砕けて、地面に落ちた。
『ニンゲン』
犬神大明神の、笑いにも聞こえる声。
『ハナビ、カ』
『キレイ、ダナ』
……。
頬を、ひとすじの汗が伝っていった。
お父様の護符が、通用しない。大津家千年の家伝が、花火、扱い。
唇を噛んだ。
でも、まだ。四隅の結界札。あれは、お父様が、直接お貼りになったもの。千年の力が、込められている。
リュックから、無事な一枚の結界札を取り出す。それを、犬神大明神に向けて構えた。
「大津家の、結界札ですわ」
「封じます」
結界札が青く光った。そして、四角い結界の枠が、犬神大明神の周りに立ち上がった。
! 光った! 通用したかも——お父様、ありがとう——
そう思った、瞬間。
結界の枠がぱきんと四方が同時に、割れた。
!?
結界が空中で、四つの欠片になって、霧散した。犬神大明神は、ぴくりとも動かなかった。
『……』
赤い目が、わたくしを見ていた。
『ナマヌルイナ』
『コノマエ、キタ、ノモ、ナマヌルカッタ』
『オマエ、アレヨリ、ヨワイ』
……。前。前の、若手陰陽師さん、ですわね。同等の。
それと、同じ扱い。いえ、もしかしたら、それ以下。
目に、涙が滲んだ。
お父様。お父様の、結界札が、通用しない。わたくしの、お父様の、結界札が。
でも、まだ、ある。お母様の勾玉。お母様の声が、まだ、聞こえる。「真琴、覚悟は、できているのね」と。
襟の内側から、お母様の勾玉を取り出した。両手で握りしめる。冷たい、翡翠。
お母様、お力をお貸しください。大津家の、千年の血を、お貸しください。
勾玉がふわり、と青く光った。
! 光った! お母様、ありがとう——
勾玉から、青い光の糸が伸びる。その糸が、犬神大明神に向かって飛んでいった。
清めの糸。
千年にわたり受け継がれた血脈が織り上げた秘術
『……』
犬神大明神は、その糸を見ていた。そしてぱくりと口を開けた。青い糸が、犬神大明神の口の中に、吸い込まれた。
!?
ぱくん。
『……』
『ウマイ』
『マダ、アルカ』
!?
食べた。お母様の清めの糸を、食べた。秘術の力を、餌に。
わたくしの勾玉が震えた。そして、ぱきっと、翡翠にひびが入った。
! お母様! お母様の、勾玉、が——
両手で、勾玉を握りしめた。
ぱきん。
翡翠が、砕けた。手のひらの中で、緑の欠片になって、ぽろぽろ、と、地面に落ちた。
「……」
落ちた緑の欠片を見ていた。千年の、お母様の勾玉。砕けた。ただ、砕けた。
『マダ、アルカ』
犬神大明神の声。
『マダ、アルナラ、ダセ』
『オマエ、ヨワイ』
『デモ、アジハ、イイ』
……。まだ。まだ、ある。お父様の最後の札。「使うな」と、言われたもの。
でも、使う。わたくしが、わたくしを守るために、ではなく。お役目を果たすそのために。
お父様、お叱りは、後で。
リュックから、桐の箱を取り出した。両手で開ける。中に、一枚の札。朱色の墨で書かれた文字。
禁じ手の護符。お父様が、二十年前、一度だけお書きになったもの。「使えば、相手の魂が、消える」と。「だから、使うな」と。「最後の、最後の、手段」と。
その札を両手で、胸の前に構えた。
お父様。わたくし、これ、犬神大明神様に使いますわ。犬神大明神様、ごめんなさい。あなたを、消すこと、許してくださいませ。美咲さんを、お返しいただくため、ですから。
いえ、本当は——美咲さんを、助けるためですらない。もう、わたくしが——わたくしが、限界、なんですわ。
お許しくださいませ。
札に、「滅却」と、声を吹き込んだ。
朱色の文字がぼう、と燃えた。そして、札が、犬神大明神に向かって飛んでいった。
朱色の火球が、犬神大明神にぶつかった。
ぼう、と、朱色の炎が、犬神大明神の全身を包んだ。
! 燃えた! お父様の、禁じ手の秘術——! 通用、した——!
桃木剣の柄を、ぎゅっと握りしめた。
お父様、ありがとう——美咲さんを、お返しいただけます——
そう思った、瞬間。朱色の炎が、ぴた、と、止まった。
!?
朱色の炎が、犬神大明神の体の表面で、止まっていた。そしてぱきんとその炎が砕けた。ただ、砕けた。
『……』
『キレイ、ナ、ヒ、ダナ』
犬神大明神の声。
『デモ、ヌルイ』
『ニンゲン、オマエ、ニハ、コレ、ハ、ハヤイ』
……。
その場に崩れ落ちた。膝が地面についた。両手が地面についた。頭が垂れた。
……お父様の護符が、通用しない。お父様の結界札が、通用しない。お母様の勾玉が、通用しない。お父様の禁じ手が、秘術が、通用しない!
わたくしの、大津家の、千年にわたり受け継がれた秘術、全てが、通用しない。
ここでは、通用、しないのです。
涙がぽたり、と地面に落ちた。
影が滲みひろがり、足元からわたくしを呑む口となった。
大いなる狼の口が、わたくしという灯をひと呑みにした。
Part 4 ——井戸の底、美咲
落ちる。ふわり、と。
落ちている、というより、降りていく感覚。体が、軽い。時間が、ゆっくり流れている。
……これが、異界。千と千尋で見た、湯屋へのエレベーター、みたい。
お父様のお話で聞いた。「異界の入口は、地面の下にある」と。
「井戸が、その入口になることが、多い」と。
「中に入れば、時間が、ゆっくりになる」と。
「だから、千と千尋では、両親を救い出す時間がある」と。
「でも、長くいては、いけない」と。
「人間は、異界に長くいると、自分が誰か、忘れる」と。
……わたくし、覚えていますわ。大津家の、真琴。お父様の娘。
お母様の娘。千年続いたお役目。忘れません。絶対に。
地面に、足がついた。ふわり、と。
そこは——廃村の、夜だった。
! え?
廃村がそこにあった。でも、外の廃村ではない。家屋が、朽ちていない。新しい。人が住んでいた頃の、廃村。
……これが、千年前、いえ、四十七人が殺された、あの夜の、廃村。
夜。月のない夜。家屋の戸が、すべて、開いていた。
そして、家屋の中に、人が、いた。胡座をかいて。胸が四方に開いて。肋骨が花のように咲いて。顔の皮膚が半分、剥がれて。
……若手陰陽師さんと、同じ姿。いえ、四十七人、全員、同じ姿。一斉に、同じ時に、同じ仕方で、殺された。
……一九八一年八月の、あの夜。
その時、ふと、自分の袖に目を留めた。
セーラー服の袖の縁。白いラインが、じわりとにじんでいた。
……? ぴしっ。
袖の生地の、ほつれた糸が、空気に解けるように、すこしずつ消えていった。
煙のように、薄く。
大津家の霊具。わたくしのセーラー服。それが、少しずつ、溶けている。
……異界の空気に、「人間のもの」が、馴染まないから。
お父様、お話してくださった。
「異界に長くいると、霊具は溶けてくる」、と。
「とくに、相手が格上だと、尚、早い」、と。
「人間の力で、縛られた衣だから」、と。
……わたくしの、お母様の形見。解けている。
袖の縁が、すこし、短くなった。
それでも、進んだ。
家屋の前で立ち止まった。
……南無、阿弥陀仏。南無、阿弥陀仏。南無、阿弥陀仏。
胸の中で、念じた。
みなさま、どうかお休みくださいませ。わたくしが、必ず、お救いします。
いえ、お救いできる、とは、もう言えませんが。せめて、お参りさせていただきます。
家屋の戸口で、深く頭を下げた。そして、廃村の奥へ歩いた。
廃村の奥。社の跡。社の横に——小さな女の子が、うずくまっていた。
膝を抱えて。両手で、頭を抱えて。ふるふる、と、震えていた。
……! あの方が、美咲さん!
駆け寄った。
「美咲さん!」
女の子が、ゆっくりと、顔を上げた。
……生きていらっしゃる。息、ある。目、ある。意識、ある。
美咲ちゃんの白いワンピースは、泥だらけだった。ところどころ、破れていた。スカートの裾も、藪をくぐった時に裂けたのか、ぼろぼろ。
三日間、廃村に。
いえ、異界の時間で、もっと長く。
そして、その時、美咲ちゃんの足元に目を留めた。
……?
地面に、おにぎりの包み紙が、何枚か、落ちていた。コンビニの、ふつうの包装。半分以上は、すでに開けられて、食べた跡があった。空のペットボトルも、二本。封の切られた、ふつうの水。
なに、これ。
コンビニのおにぎり、と、水……?
どなたか、いらっしゃった?
でも、廃村に、コンビニ、ない。
いえ、外から、持ち込んだ?
どなた、が?
ここ、異界の、奥、ですわよ。
大津家千年の、結界も、通用しない、場所。
なのに、コンビニのおにぎり、が、落ちている。
包み紙の一枚に、ふと、目を留めた。何か、墨で、薄く、文字が書かれている。
……?
……これ、お符。
簡易の、保存符。
食べ物が、傷まないように、お力を、添えたお符。
わたくしも、知っているお符、ですけれど。
……どなたが、書かれたの。
お字が、丁寧、ではない。
でも、お力は、本物。
ふつうの、お符の使い方では、ない。
ふだん、書き慣れている、お方の、お字。
……。
美咲ちゃんは、ぽろぽろと、涙を流していた。
「お父様……」
か細い声。
「お父様、助けて……」
! 「お父様」って、おっしゃっている。いえ、心の中で、お父様を呼んでいらっしゃる。
「助けて」「お父様」「助けて」と、ずっと、呼んでいらっしゃった。
しゃがんで、美咲ちゃんと目線を合わせた。
「美咲さん」
「大津家の、真琴、と、申します」
「お祖父様の、久能様の、お遣いで、参りました」
美咲ちゃんがぱちりと目を見開いた。
「……お祖父、ちゃん?」
「ええ。お祖父様が、あなたを、心配していらっしゃいます。お母様も。みなさま、あなたが、お戻りになることを、お待ちです」
「美咲さん、ひとつ、お訊ねしても?」
「……は、はい」
「足元に、おにぎりと、お水、ありましたわよね」
「あれは、どなたから?」
美咲ちゃんが、首を、傾げた。
「……わたし、知らない、です」
「気が、ついたら、横に、落ちて、いて……」
「お腹、空いて、いたので、食べました……」
「ごめんなさい、知らないものを、食べて……」
美咲さんの声が細い。
「いえ、それは、よろしいの、ですよ」
「どなたか、見ましたか? お顔とか」
「……いえ、見ていない、です」
「ただ、落ちて、いただけ、で……」
……。
どなたかが、井戸の上から、落とした、ということ、ですわね。
美咲さんに、お会いせず、見せず、ただ、お命をつなぐためだけに。
……。
どなた、ですの、それ。
美咲ちゃんの唇が震えた。そして——
「ぐすっ」
涙が、ぽたぽた、と、落ちた。
「お祖父ちゃん……」
「お母さん……」
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
美咲さんの小さな肩が震えた。
「肝試し、なんて、しなければ、良かった……」
「隼くんが、熱、出して、来なかったから、わたしも、戻れば、良かったのに……」
「ひとりで、来ちゃった……」
「ごめんなさい……」
……。美咲さん。責めない。責めない。もう、十分。
美咲ちゃんをそっと抱きしめた。両腕で、ぎゅっと。
「美咲さん」
「お帰りしましょう。ご家族の元へ」
「お祖父様、お母様、お待ちです」
「お父様、おっしゃっていましたわよ」
「『美咲、帰っておいで』、と」
お父様、本当は、おっしゃっていないけど。でも、本当のお父様、きっと、おっしゃるはず。
美咲ちゃんが、わたくしのセーラー服に、しがみついた。
「……帰り、たい」
「お母さんに、会いたい」
「お祖父ちゃんに、会いたい」
「ごめんなさいって、言いたい」
「うん。お帰りしましょう」
美咲ちゃんを抱き上げた。両腕で。
軽い。お痩せになっている。何も、食べていらっしゃらなかったのね。
異界の時間で、もっと長く、感じていらしたのかも。
美咲ちゃんを抱いたまま、廃村の外へ向かって、歩き出した。
闇を梢へ手繰り、ただ上へ、光の方へ。
そして、社の跡の向こうに、赤い目が、並んでいた。
……。犬神大明神様。いらっしゃった。異界の中まで、お見送りに。
『……ニンゲン』
『デルナ』
『コノコハ、ココニ、イル』
『オマエ、モ、ココニ、イル』
『ココ、ガ、イイ』
美咲ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
そして、
「犬神大明神様」
声が震えた。
「美咲さんは、ご家族の元へ、お戻りになります」
「わたくしも、ご一緒します」
「失礼、いたします」
『……』
犬神大明神の赤い目がぎらりと光った。
そして、赤い目が、四つ、八つ、十六、増えた。廃村の四方の家屋の影から、ぞわりぞわりと赤い目が増えていった。
……。眷属。四方の山に封じられていた、眷属も、いらっしゃった、のですね。
犬神大明神様、本気で、わたくしをお逃しにならない。わかりましたわ。
美咲ちゃんを抱きしめたまま、走り出した。井戸の方へ。廃村の外へ。
お父様、お母様、お力を。もう、道具はない。でも、お力を、お貸しください。美咲さんだけは、お返しします。わたくしが、盾になります。
赤い目が、追ってくる。ぞわりぞわりと廃村の地面が揺れた。
そして——その時。
セーラー服の溶解が、加速した。
ぴしっ。
袖口の糸が、ふわりと、空気へ解けて、消えた。
! 速い。
さっきより、ずっと速い。
犬神大明神様の霊圧。それが、衣を、押し剥がしている。
布の内側に織り込まれた呪が、ひとつ、またひとつ、ほどけていく。
お母様が、一針ずつ、縫い込んでくださった守り。
それが、糸に戻り、糸が、煙に戻って、消えていく。
護符も。
結界札も。
お母様の勾玉も。
お父様の禁じ手も。
ぜんぶ、剥がされた。
最後に残った、この一枚まで。
襟の後ろで、リボンが、ふわりと、ほどけた。
お母様の、お形見。
ひとひら、空に溶けて、もう、ない。
裾が、袖が、端から繊維になって、解けていく。
布の奥で、ずっと淡く鳴っていた力が、ふつ、と、止んだ。
盾が、なくなった。
わたくしを包んでいた、千年が、なくなった。
そして、気づく。
冷たい。
異界の冷たさが、もう、衣ごしではない。
じかに、わたくしへ、届いている。
……お父様、おっしゃった。
「霊具が溶けたら、次は、人だ」、と。
「異界は、人間のものを、ひとつずつ、ほどいていく」、と。
衣の、次は。
わたくし、自身。
わたくしが、わたくしでなくなる、番。
指の先が、すこし、遠い。
自分の輪郭が、滲んでいくような、心地。
いえ。
奥歯を、噛んだ。
わたくしは、大津家の、真琴。
お父様の娘。お母様の娘。
忘れない。解けない。絶対に。
美咲ちゃんを、ぎゅっと、抱き直した。
腕の中の、ぬくもり。
それだけが、まだ、確かだった。
この子だけは、お返しする。
それだけは、絶対に。
走った。
むき出しの意志だけで、走り続けた。
!
その時。正面に——巨大な影が、立ちはだかった。犬神大明神の本体。赤い目が、わたくしを見下ろしていた。
『ニンゲン』
『カエサナイ』
そして、口が、開いた。ぱくり、と。わたくしと、美咲ちゃんを、呑み込もうとした。
……! ここまで、でしょうか。お父様、お母様、ごめんなさい。美咲さん、ごめんなさい。ご家族の元へ、お戻しできず、申し訳、ありません。
……。
美咲ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
いえ。
まだ、終わっていない。
残った力を、ぜんぶ、この一声に。
声が、続くかぎり。意志が、保つかぎり。正確に、ひと言の淀みもなく。
息を、吸った。
「神仏、兵、ことごとく——」
「我が前に、列をなして、守護せよ——!」
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
Nolaノベル
黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】
最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中
https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637
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