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燃えカスの守り人 外伝  作者: K3
燃えカスの守り人 外伝「犬神村事件」

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8/18

「黒い水、坂東先生」

**第8話 ——黒い水、坂東先生**


【前回までのあらすじ】

犬の群れは、なぜか退いた。

だが、坂東先生は呟く——「次が来ます」。


【今話の見どころ】

★この話、辛い回です。

大津家のお弟子・坂東英次の、軍人の最後のお務め。


それでは、本編をお楽しみください。

Part 1 ——再びの予兆

 

 午後三時。

 

 廃村は、静かだった。

 

 あの犬たちが引いてから、三十分。ござの中央に、わたくしと坂東先生。そして、ジオン。

 

「いやー、無事でよかったです」

 

 ジオンは、ぼんやり、煙草を吹かしている。

 

「あれですね、ぼくがいない間にいろいろあったみたいで。無事でよかったですよ、本当」

 

 わたくしは、ただ、頷いた。

 

  ジオン様、本当に何処にいらっしゃったの。

 

  本当に、物陰に隠れていたの。

 

  でも、わからない。

 

 折れた桃木剣。破れた護符。弾けた結界札。割れた式盤。

 

  わたくしの、敗北。

 

  なのに、生きてる。

 

  なぜ、犬たちが引いたのか、わからないまま。

 

「お嬢」

 

 坂東先生が、ぼそ、と囁いた。

 

「はい」

 

「次が、来ます」

 

 背筋が、凍った。

 

「……え」

 

「先ほどの犬の襲来は、第一波です」

 

「先生、それは——」

 

「お嬢、犬神様の力は、まだ解放されていない」

 

「……」

 

「真の襲撃は、これから」

 

  え。あれだけの犬、襲ってきたのに?

 

  あれが、第一波?

 

  なら、本番は——

 

「ジオン様、お逃げになれるなら、いま、お逃げくださいませ」

 

「あ、はい」

 

「ござの結界、破られていますの。次の襲撃には、もう——」

 

「あ、はい」

 

「いえ、お逃げ場所も、ないのですけど」

 

 ジオンは、糸目のまま、煙草をもみ消した。そして、ござの隅に、ぺたん、と座った。

 

「いやー、ぼく、ここにいますよ。だって、外、もっと怖そうですし」

 

  ジオン様、また、隅。わたくしたちの後ろ。

 

  一般人として、お守りしないと。

 

 坂東先生の隣に立った。手には、リュックに残った最後の護符の束。

 

  桃木剣は、折れた。

 

  結界札は、四枚とも弾けた。

 

  式盤も、清めの香も、もうない。

 

  残ってるのは、護符だけ。

 

  あと、坂東先生の、桃木剣。

 

  それだけで、戦うしか、ない。

 

「先生、わたくし、護符でしのぎますわ」

 

「お嬢、しかし——」

 

「先生、わたくし、もう絶望しません。あれだけのこと乗り越えたんですもの」

 

「……」

 

「先生と、わたくしで、また戦いますわ」

 

 そして——

 

 廃村の奥から、ぞわ、と、何かが蠢いた。

 

「お嬢」

 

「ええ」

 

「来ます」

 

「ええ」

 

 目を見開いた。

 

 社の奥。廃村の最深部。

 

 そこから——黒い、もの。

 

「先生、あれは——」

 

「水、です」

 

「水?」

 

「黒い水、です」

 

  黒い水。

 

  廃村に入った時、襲ってきた、あれ。

 

  でも、あの時は、消えた。なぜか、消えた。

 

  でも、今度は——

 

「先生、量が、違いますわ!」

 

「ええ」

 

「津波、ですわ!」

 

 廃村の奥から、ごう、と、黒い水が迫ってきた。社を、呑み込む。家屋を、呑み込む。そして、ござへ——

 

「ジオン様、お下がりください!!」

 

 叫んだ。

 

 でも、ジオンは——ござの隅で、ぺたんと座って、

 

「あれー、なんか、すごい水ですね」

 

 と、のんびりつぶやいた。

 

「ジオン様!!」

 

「あ、はい」

 

「水、来ますわ!!」

 

「あ、はい」

 

  ジオン様、なぜ、ぼんやり——!!

 

  でも、いま考えてる暇、ない。

 

  わたくしたち、あれを止めないと。

 

Part 2 ——黒い水、十分の防衛

 

「お嬢、ござから動かないで!」

 

 坂東先生が叫んだ。そして、桃木剣を構えた。

 

「臨——!」

 

 縦に一閃。

 

「兵——!!」

 

 横に一閃。

 

 四縦五横。坂東先生の、九字。

 

 桃木剣の刃から、青白い光が、ござの周りに格子を描いた。

 

——坂東先生の、即席の結界。

 

——お父様の結界札、ない。

 

——でも、坂東先生の九字、生きてる。

 

 黒い水の津波が、ござに達した。ぶつかった。

 

——でも、九字の格子が、一瞬、光った。

 

「お嬢、まだ持ちます!」

 

「先生、これで、しばらく持ちますの?」

 

「いえ、しばらくだけ、です」

 

 坂東先生の声に迷いはない。

 

「どのくらい?」

 

「十分」

 

「……十分」

 

「お嬢、その間に、何か手を打ちましょう」

 

  十分。十分の猶予。

 

  そのあと、九字が破れたら——わたくしたち、溺れる。

 

「ジオン様、ござの中央にいらしてくださいませ。水が来ても、ござから出ないでください」

 

「あ、はい」

 

「先生の結界が破られたら、わたくし、護符でお守りしますから」

 

「ありがとうございます」

 

 ジオンは、糸目のまま、頷いた。

 

 坂東先生の隣に立った。護符の束を、両手に。

 

「先生、わたくし、護符を投げます」

 

「ええ」

 

「先生は——」

 

「私は、九字を続けます」

 

「ええ」

 

 ふたりは、頷き合った。そして、黒い水を見据えた。

 

  来る。あれだけの犬とは、違う。

 

  もっと、大きな何か。

 

  犬神大明神、本人?

 

  いえ、まだ本人じゃない。犬神大明神の、波。力。意思。

 

 九字の格子に、黒い水が押し寄せる。ごう、ごう、ごう。格子が、きしむ。

 

「お嬢、護符、お早く!」

 

「はい!」

 

 護符を投げた。

 

「縛——!!」

 

 護符が、空中で光った。そして、黒い水に触れた。

 

——一瞬、水が退いた。

 

「効いた!!」

 

 でも、ぱしゃっ。護符が破れた。黒い水に、呑まれて。

 

「先生!! また!!」

 

「ええ!!」

 

 坂東先生は、桃木剣で結界に力を注ぐ。

 

「臨——!」

 

 縦に、一閃。

 

「兵——!!」

 

 横に、一閃。

 

 九字を、切り続ける。四縦五横、何度も、何度も。格子が、青白く、光り続ける。

 

  坂東先生の九字、ひとり、ふたり、三人前の力で。

 

  ござを、守ってる。

 

「お嬢、護符、もっと!!」

 

「はい!!」

 

 護符を投げ続けた。一枚、二枚、三枚。

 

「縛——!!」

 

「縛——!!」

 

「縛——!!」

 

 ぱしゃっ、ぱしゃっ、ぱしゃっ。

 

 護符が、破れる。

 

 でも、一瞬ずつ、水を止める。時間を稼ぐ。その間に、坂東先生が、結界を保つ。

 

 そして、わたくしたち、生き残る。たぶん。きっと。

 

 そう念じながら、護符を投げ続けた。

 

——五分。

 

——七分。

 

——八分。

 

 時間が、ゆっくり、過ぎていく。

 

 そして——

 

 坂東先生が、ぐっ、と呻いた。

 

「先生?」

 

 返事は、すぐにはなかった。

 

 桃木剣を握る、節くれだった手。

 

 その甲に、汗の玉。

 

「先生、大丈夫——」

 

「ええ」

 

 声が、絞り出すように、出た。

 

 坂東先生の額に、汗。紫色の唇。桃木剣を握る手が、震えていた。

 

「……ええ」

 

「先生、わたくしが変わりますわ!!」

 

「お嬢、結構です」

 

「先生、お疲れですわ!!」

 

「お嬢、私の任務、ですから」

 

  先生、もう限界、近い。

 

  でも、絶対、引かない。

 

「先生」

 

「ええ」

 

「先生、ずっと結界に霊力を注いで——ご自分の命を削って——」

 

「お嬢」

 

「先生!!」

 

 声が、震えた。

 

 坂東先生は、桃木剣を握り直して、

 

「お嬢、私のことは構いません。私は、お嬢をお守りするためにここにおります」

 

「先生——!!」

 

「お嬢、お母様の前で、誓いました」

 

「先生!!」

 

「最後まで——」

 

 そして、ぐらりと、坂東先生の膝が折れた。

 

「先生!!」

 

 ござの上に、坂東先生が膝をついた。

 

 でも、桃木剣は、握ったまま。

 

 四縦五横を、切り続ける。

 

  坂東先生の九字だけが、ござを、守ってる。

 

  膝ついても、振り続けてる。

 

  だから、黒い水は、まだござに侵入していない。

 

  でも、坂東先生、膝、ついた。

 

Part 3 ——膝つき、十分、返事なし

 

 坂東先生の横に跪いた。

 

「先生」

 

「お嬢、お下がりください」

 

「いえ、ご一緒しますわ」

 

「お嬢、危険、です」

 

「先生、お一人でこんな——」

 

「お嬢、お下がりを」

 

 坂東先生は、膝をついたまま、九字を続ける。

 

「臨——」

 

「兵——」

 

「闘——」

 

 額に滲む汗が、頬を伝って、ござに落ちる。

 

 ぽたり。

 

 ぽたり。

 

 膝をついた、コーデュロイの、シャツ。

 

 胸の、刀の所作で揺れる、肩。

 

 呼吸が、すこし、荒い。

 

  膝ついたまま。意識はある。

 

  でも、立てない。

 

  なのに、刀は振り続けてる。

 

「お嬢、護符を」

 

「はい」

 

 震える指で、護符を投げ続けた。

 

「縛——」

 

「縛——」

 

「縛——」

 

——一分。二分。三分。

 

 時間が、過ぎていく。

 

 坂東先生の、額の汗が、止まらない。

 

 唇の、紫色が、濃くなる。

 

 刀を握る手が、震えている。

 

 それでも、坂東先生は、九字を切り続けた。

 

 掠れた声で。

 

——五分。六分。七分。

 

——膝ついたまま、七分。

 

「先生」

 

「ええ」

 

「お疲れ、ですわよね」

 

「ええ」

 

「わたくし、変わりますわ」

 

「お嬢、結構、です」

 

——同じ、ご返事。

 

——でも、聞き入れない。

 

——お顔色、青白を通り越して、灰色。

 

——指先が、白く、なってる。

 

「先生、お休みに——」

 

「お嬢、ご無事で——」

 

「先生!」

 

——八分。九分。十分。

 

——膝ついて、十分。

 

 坂東先生の額に、玉のような汗。

 

 シャツが、汗で、肌に貼りついていた。

 

「臨——」

 

 声が、もう、聞こえないくらい、小さい。

 

「兵——」

 

 唇は、まだ、動いている。

 

「闘——」

 

——でも、ご返事、もう、ない?

 

「先生?」

 

「……」

 

「先生、聞いてますの?」

 

「……」

 

——え。返事、ない。

 

——でも、刀は、振ってる。

 

「先生!」

 

 返事は、なかった。

 

 桃木剣だけが、握ったまま、四縦五横を切り続けていた。

 

「先生、聞こえてますの!?」

 

 返事も、頷きも、ない。

 

「先生!」

 

 声を、張り上げた。

 

 ござの上に、声が響いて、しんと、消えた。

 

 返答は、なかった。

 

  意識、ぼんやりなのか?

 

  身体だけが、任務を果たし続けている?

 

「先生!! 返事してくださいませ!!」

 

 刀が、動いている。それだけ。

 

 時間が止まったように、坂東先生が膝をついたまま、刀を振っていた。

 

 無言で。返事もなく。ただ、唇だけが、九字を紡いで。

 

「臨——」

 

 声は、もう、聞こえない。

 

 でも、唇は、動いていた。

 

「兵——」

 

 刀は、まだ動いていた。

 

——一分。

 

 返事、ない。

 

——二分。

 

 額の汗が、ござに、ぽたぽたと落ちる。

 

——三分。

 

 桃木剣の刃先が、ぶれ始める。

 

——いえ、ぶれだけじゃない。

 

 ぴしっ。

 

——え。

 

 桃木剣の、刃に、

 

 ひびが、入った。

 

——お父様の桃木剣と、同じ。

 

——格上の霊障に、刃が、耐えられない。

 

「先生!! 桃木剣が——!!」

 

 返事は、ない。

 

 でも、坂東先生は、刀を、振り続けた。

 

 ひびが入った、ままで。

 

「臨——」

 

「兵——」

 

「闘——」

 

——四分。

 

 ひびが、広がる。

 

 ぴしっ。ぴしっ。

 

 肩の震えが、大きくなる。

 

——五分。

 

——返事、ない、まま、五分。

 

「先生、わたくし、ご一緒しますわ」

 

「先生が振ってるなら、わたくしも投げますわ」

 

 返事は、ない。

 

 護符を投げ続けた。

 

「縛——!!」

 

「縛——!!」

 

「縛——!!」

 

 ぱしゃっ、ぱしゃっ、ぱしゃっ。

 

 護符が、破れる。

 

 涙が、こぼれた。頬を、伝った。セーラー服の襟に、ぽとり、と落ちた。

 

  先生。先生、もう、お声出てない。

 

  でも、刀、振ってる。意識ないのに、刀、振ってる。

 

  任務だけが、残ってる。人間としての坂東先生は、もう——

 

  いえ、いえ、いえ。

 

  まだ、生きてる。まだ、刀、振ってる。

 

  なら、わたくしも、諦めない。

 

「先生!! 一緒に!!」

 

「縛——!!」

 

「縛——!!」

 

Part 4 ——守って、死亡

 

 そして——

 

 ぱきっ、ぱきっ、ぱきっ。

 

 ひびが、深くなっていく。

 

「先生……!!」

 

 返事は、ない。

 

 ぱきん。

 

 坂東先生の桃木剣が、折れた。

 

 刃の半分が、ぽろり、と落ちた。ござの上に。

 

「先生!!」

 

 でも、坂東先生は、折れた柄を握ったまま、刀を振り続けた。

 

 刃がない。ただの棒。

 

 それでも、四縦五横を刻む。

 

「臨——」

 

「兵——」

 

——刃が、なくても。

 

——道具が、壊れても。

 

——意志だけで、振ってる。

 

 そして——坂東先生の刀が、ぐらり、と揺れた。

 

「先生!!」

 

 折れた柄が、ござの上に落ちた。

 

 ことん、と、音を立てて。

 

「先生!!」

 

 坂東先生は膝をついたまま、ござの上にうつ伏せに倒れた。

 

「先生!!」

 

 駆け寄った。

 

「先生!! 先生!!」

 

 返事は、なかった。

 

「先生!! 返事——!!」

 

「先生……!!」

 

 坂東先生の肩を揺すった。

 

 ぐらん、と、肩が動いた。

 

 でも、目は、閉じたまま。

 

  息、ある?

 

 坂東先生の胸に、耳を当てた。

 

……

 

……

 

  音が、ない。

 

  え? 音が、ない?

 

  心臓、動いて、ない?

 

「先生……!!」

 

 坂東先生の頸動脈に、指を当てた。

 

……

 

……

 

  脈、ない。

 

  脈、ない、?

 

「先生!! 嘘——!!」

 

「先生、嘘ですわよね……!!」

 

「先生、眠ってるだけ、ですわよね……?」

 

 返事も、息も、ない。

 

 頬から、涙が、ぼろぼろと零れた。

 

「先生……」

 

「先生、起きてくださいませ……」

 

「先生……」

 

 坂東先生の胸は、動いていなかった。

 

  え。え? え?

 

  先生、亡くなった?

 

  先生、亡くなった?

 

  わたくしを、守って、亡くなった?

 

「先生!!!」

 

 ござの上で、絶叫した。

 

「先生!!!」

 

「いや、いや、いや、いや、ですわ!!!」

 

「先生、起きて、起きて、起きてくださいませ!!」

 

「先生!!」

 

「先生……」

 

「先生……」

 

 声が掠れて、涙で詰まって、それでも呼び続けた。

 

  先生、わたくしを、お守りして亡くなった。

 

  わたくしのために、亡くなった。

 

  わたくし、未熟だから、先生をお守りできなかった。

 

  お父様、お母様、坂東先生を、お助けに、どうか——!!

 

 そう、念じても、返事は、なかった。

 

 ござの上で、坂東先生の身体は、動かなかった。

 

「先生……」

 

 坂東先生の冷たくなった手を、両手で握った。

 

  お父様の元へ、お戻り、できないまま。

 

  お母様の前のお誓いを、果たして亡くなった。

 

  先生、本望、ですか?

 

  いえ、いえ、いえ。

 

  わたくし、先生をお返ししないと。お父様の元へ、お返ししないと。

 

  でも、どうやって?

 

  脱出札、破れない。

 

  わたくしの力では——わたくしの力では、もう——

 

 そして——

 

 坂東先生の九字の格子が、ぱしっ、と弾けた。

 

 最後の守りの効力が、消えた。

 

 黒い水が、再び、押し寄せてきた。ござに、達した。そして、倒れた坂東先生の身体に、触れた。

 

「先生!! いや!!」

 

 坂東先生を抱きかかえようとした。

 

 でも、黒い水が、ござの上で、膝まで達した。坂東先生の身体が、水に呑まれていく。

 

「いや!! いや、ですわ!!」

 

「先生、奪わないで!!」

 

「先生!!」

 

 頬に、涙と、黒い水のしぶき。セーラー服が、黒く濡れていく。

 

  先生。先生。先生!!

 

  わたくし、先生を、置いていけません!!

 

「先生!!」

 

「先生!!」

 

「先生……!!」

 

 坂東先生の身体を、胸に、抱きしめた。

 

  黒い水に奪われる前に、せめて、せめて、

 

  お父様の元へ、お連れしたい。

 

  脱出札、破れない、けど。

 

  力、ない、けど。

 

  でも、せめてお別れだけ、ちゃんと——

 

 そう、念じた、瞬間——

 

『——ピシャアン……』

 

 雷のような、音。

 

  え?

 

 目を見開いた。

 

 廃村の空が——光った。

 

 そして、黒い水が——退いた。

 

 ぴた、と、止まって——

 

 そして、ゆっくり、ゆっくりと、廃村の奥へ引いていった。

 

「……え?」

 

 坂東先生を胸に抱いたまま、呆然と、廃村を見渡した。

 

 黒い水が、引いていく。社の奥へ。家屋の間へ。そして、闇に、消えて——終わった。

 

 ただ、坂東先生を、抱きしめた。

 

  終わった。黒い水、退いた。

 

  なぜ? わからない。

 

  でも、先生、もういらっしゃらない。

 

「先生……」

 

「先生、起きてくださいませ……」

 

「先生、お願い、ですから……」

 

 声は、もう掠れて、涙で詰まって、ほとんど聞き取れなかった。

 

 ござの上で、坂東先生の冷たくなった身体を抱きしめて、ただ泣いていた。

 

 廃村に、静寂が、戻った。

 

——どれくらい、泣いていただろう。

 

 夏の光が、すこし、傾いた。

 

 ござに落ちる、影が、長くなった。

 

 涙が、止まらない。

 

 止まらない、けれど——

 

  いえ。

 

 ぴたり、と、涙を止めた。

 

——ここで、泣いてる場合じゃ、ない。

 

——先生は、ね、わたくしを、お守りして亡くなった。

 

——わたくしが、ここで、泣き崩れたら、

 

——先生の、お命、無駄に、なる。

 

——先生は、最後の最後まで、刀を、振っていらした。

 

——意識、ないのに、振っていらした。

 

——なら、わたくしも、立たないと。

 

——立って、戦わないと。

 

——犬神大明神を、鎮めないと。

 

——でないと、

 

——先生の、死、無駄に、なる。

 

——お父様の、ご命令、果たさないと。

 

——大津家の、お役目、果たさないと。

 

——わたくし、未熟、ですけれど。

 

——力、足りない、ですけれど。

 

——でも、立ちますわ。

 

——立って、最後まで、戦いますわ。

 

——お母様の前で、坂東先生が、お誓いになった——

 

——「お嬢を、お守りする」、と。

 

——そのお誓いを、わたくしも、お守りする。

 

——わたくしをお守りした、先生の御心を、わたくしがお守りする。

 

——先生の、死、無駄に、しない。

 

——絶対に。

 

 坂東先生に、深く頭を下げた。

 

 そして、手を合わせた。

 

——先生、ありがとうございました。

 

——お休みなさいませ。

 

——わたくし、戦って参ります。

 

 そして、ござの中央に、坂東先生をそっと横たえた。

 

 両手を、胸の上で、組ませた。

 

 折れた桃木剣を、その手に、握らせた。

 

——軍人の、最後の、姿。

 

——刀を、握ったまま。

 

 涙を、袖で、拭った。

 

 そして、立ち上がった。

 

 膝が、震える。

 

 足が、ふらつく。

 

 でも、立った。

 

——立った。

 

——わたくし、立った。

 

——なら、歩く。

 

——歩いて、戦う。

 

——先生の、お側に、戻ってこられるように。

 

——犬神大明神を、鎮めて、戻ってくる。

 

——絶対に。

 

 リュックから、残りの護符を、取り出した。

 

 折れた桃木剣の柄は、先生の手に。

 

 代わりに、手には、護符の束。

 

 そして、勾玉。

 

——お母様の、勾玉。

 

——お母様、お力をお貸しくださいませ。

 

——わたくし、ひとりで、戦いますから。

 

 胸の前で、勾玉を、握った。

 

——お母様の、温もり。

 

——感じる。

 

 そして、ござから、降りた。

 

 ふらつく足で、社の方へ、歩き始めた。

 

——犬神大明神は、社の奥。

 

——そこへ、行く。

 

——お父様の、護符と、

 

——お母様の、勾玉と、

 

——わたくしの、未熟な力、で、

 

——できる、ところまで、戦う。

 

——先生の、ご遺志を、継いで。

 

 廃村の、午後の、光。

 

 わたくしの、セーラー服が、黒い水で、汚れていた。

 

 足袋の、白も、もう、なかった。

 

 それでも、歩いた。

 

 社の方へ。

 

 ひとりで。

 

  ◆◇

 

——その頃。

 

 廃村の入口、鳥居の前で。

 

「いやー、すごい水でしたねー」

 

 ジオンが、ぼんやりと、煙草を、吹かしていた。

 

 アロハシャツの裾が、汗で、肌に、貼りついている。

 

 サンダルの足元に、湿った、土。

 

「ぼく、別のとこに、いっちゃってましたよー」

 

 そう、誰にともなく、つぶやいた。

 

「あれですね、津波って、怖いですね」

 

「いやー、無事でよかったー」

 

 そして、ふと、

 

 足を、止めた。

 

——え。

 

 ジオンの、糸目が、すこし、開いた。

 

——あの、気配。

 

——坂東さんの、気配が、消えてる。

 

 ジオンは、ぼんやりと、煙草を、もみ消した。

 

 そして、ぷらぷらと、社の方へ、歩いてきた。

 

 ござが、見える。

 

 ござの中央に、坂東先生が、横たわっていた。

 

 両手を、胸の上に、組んで。

 

 折れた桃木剣を、握って。

 

 軍人の、最後の、姿で。

 

 真琴さんの、姿は、ない。

 

 ジオンは、ござの近くまで、歩いてきた。

 

 そして、坂東先生のそばに、跪いた。

 

 頸動脈に、指を、当てた。

 

……

 

 胸に、耳を、当てた。

 

……

 

 ふっと、息を、吐いた。

 

「……坂東さん」

 

 ジオンは、糸目のまま、坂東先生の手に、触れた。

 

「……お辛かった、でしょう」

 

 返事は、ない。

 

「……でも、立派でした……」

 

 ジオンは、ござの上で、坂東先生の手を両手で握った。

 

「……ほんとうに、坂東さんは立派でした」

 

 ジオンの細い糸目の奥で、なにか微かなひかりが震えた。

 

 けれどそれは、廃村の午後にただ漂う光が、古いござに落ちただけだったのかもしれない。

 

 風が止み、世界がひと呼吸だけ黙り込む。

 

 ジオンの煙草から立ちのぼる最後の煙が、まっすぐ空へ伸びていき、

 

 その細い線は、まるで坂東さんの魂が帰る道を示すかのように、ゆっくりと消えていった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。



次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


Nolaノベル

黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】


最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637


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