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神宝町怪異相談 ~働く人専門の拝み屋は、怪異の奥にある事情を読む~  作者: KASANE
神宝町怪異相談

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赤ちゃんの泣かない部屋

夜になると、隣の空き部屋から、赤ん坊の泣き声がする。

でも、うちの子は、腕の中で眠っている――泣いているのは、誰?

 夜になると、隣の部屋から、赤ん坊の泣き声がする。


 わたしが泣かせているはずのない、赤ん坊の声だ。


 うちの子の声じゃない。


 だって、その子は、わたしの腕の中で、すやすや眠っているのだから。


 隣は、物置に使っている、誰もいない部屋だ。


 ベビーバスの箱。使わなくなった哺乳瓶の消毒ケース。畳んだままの段ボール。そこには、赤ん坊なんていない。


 それなのに、毎晩、細く、絞り出すように、泣いている。


 ふえ、ふえ、と。


 泣く力も残っていないみたいな声で。


 最初の夜、わたしは布団の中で固まった。


 腕の中の子は眠っていた。小さな口を少し開けて、何も知らずに眠っていた。


 それなのに隣の部屋だけが、暗い水の底みたいに、ずっと泣いていた。


  ◆◇


 夫は、朝から夜中まで、いない。


 母乳、寝かしつけ、夜泣き、また母乳。


 二時間おきに切れる眠りを、もう三か月、繋いでいる。


 眠る、というより、気を失っているだけだった。


 目を閉じる。泣き声で起きる。抱く。飲ませる。おむつを替える。置く。泣く。抱く。


 一日が、何度も同じところを回っている。


 実家は遠い。


 友達は、みんな独身のままだ。


 電話をしても、何を話せばいいのかわからなかった。赤ちゃんかわいい? と聞かれたら、かわいいよ、と答えるしかない。


 かわいい。


 それは本当だ。


 でも、かわいいだけでは、朝まで持たない。


 だいじょうぶ、と毎日、自分に言う。


 母親なんだから、だいじょうぶ、と。


 母親なんだから、眠れなくても。


 母親なんだから、泣きたくても。


 母親なんだから、逃げたいなんて思ってはいけない。


 隣の泣き声を聞くたび、心臓が、ぎゅっと縮んだ。


 あの声は、赤ん坊の声なのに。


 なぜか、わたしの喉から出ているような気がした。


  ◆◇


 名刺は、区の乳児健診の帰りに、ベビーカーの籠に、いつのまにか入っていた。


 ――慈恩。


 神宝町の、古い喫茶だった。


 糸目の、痩せた男が、細い線香を一本立てた。三十を、少し過ぎたくらいか。


 わたしはベビーカーを足元に置いた。


 子どもは眠っていた。外では、よく眠る子だった。家に帰ると、まるで別の子みたいに泣くのに。


「なるほど」


 わたしの話を聞いて、彼は静かに言った。


「その泣き声はね、幽霊のものじゃ、ありませんよ」


 じゃあ、と声がかすれた。


 空耳、ですか。


 そう言われたら、どうしようと思った。


 疲れているんですよ。お母さんにはよくあります。そう言われたら、わたしはたぶん、笑って帰るしかない。


「いいえ。ちゃんと、聞こえている」


 慈恩は、糸目を細く開いた。


「あれは――あなたが、飲みこんでいる声です」


 息が止まった。


「助けて。眠りたい。母親を、やめたい」


 口にしたことのない言葉を、彼は、順に並べた。


 やめてください、と言いたかった。


 そんなこと、思っていません、と言いたかった。


 でも、喉が動かなかった。


 思っていた。


 夜中に泣き続ける子を抱きながら、ほんの一秒だけ、腕を離したくなることがあった。


 玄関の外へ出て、この泣き声の届かない場所まで歩いていきたくなることがあった。


 そのたびに、わたしは自分を叱った。


 母親なのに。


 この子は何も悪くないのに。


 母親なのに。


「言えない声はね、外へ、にじみ出る。この部屋で昔、ひとりで子を育てた人の思いも、そこに重なっている。よく似た声だから、引き合ったんです」


 慈恩は責めるようには言わなかった。


 それが、かえって苦しかった。


 責められたほうが、まだ耐えられたかもしれない。


  ◆◇


 その夜、慈恩を連れて、夫が帰ってきた。


 夫は疲れた顔をしていた。ネクタイをゆるめながら、ベビーベッドを見て、それからわたしを見た。


「俺だって、手伝ってる」と夫は言った。


「休みの日は、抱っこもする」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷えた。


 手伝う。


 その言葉が、ずっと嫌だったのだと、初めてわかった。


 これは、わたしの仕事で、夫は善意で手を貸している。


 そう言われている気がした。


 慈恩は、夫を責めなかった。


「では、今夜ひと晩」


 そう言って、赤ん坊を、夫の腕に渡した。


「全部、あなたが。奥さんは、別の部屋で、眠ってください」


 夫は何か言いかけた。


 けれど、赤ん坊が小さく身じろぎすると、慌てて抱き直した。


 わたしは、別の部屋に布団を敷かれた。


 眠れるはずがない、と思った。


 子どもの声が聞こえたら、起きてしまう。


 泣いたら、抱きに行ってしまう。


 わたしが行かなきゃ、と体が勝手に動く。


 そう思っていた。


 けれど、布団に横になった瞬間、体が沈んだ。


  ◆◇


 わたしは、三か月ぶりに、朝まで眠った。


 夜中、隣の部屋で、赤ん坊が泣いた。


 本物の泣き声だった。


 あやしても、泣きやまない。


 ミルクも、おむつも、抱っこも、ぜんぶ試して、それでも泣く。


 その声を、わたしは夢の底で聞いていた。


 誰かが抱いている。


 誰かが立っている。


 誰かが困っている。


 わたしじゃない誰かが、この子の泣き声の前にいる。


 それだけで、体が少しずつほどけていった。


 朝、夫の顔は、真っ白だった。


 髭も剃っていない。シャツはよれよれで、目の下に濃い影があった。


「……こんなのを、毎晩」


 それだけ言った。


 夫にも、聞こえていた。


 赤ん坊の泣き声だけじゃない。


 あの、絞り出すような、助けを呼ぶ声が。


 夫はわたしの顔を見た。


 何か謝ろうとして、言葉を探している顔だった。


 わたしは先に、泣いてしまった。


  ◆◇


 わたしたちは、区の窓口へ行った。


 ショートステイ。


 訪問。


 同じ月齢の子を持つ母親の、集まり。


 差し出された手は、思っていたより、たくさんあった。


 わたしが知らなかっただけだった。


 知らなかったというより、頼ってはいけないと思い込んでいた。


 窓口で、保健師さんが言った。


「よく来ましたね」


 その一言で、また涙が出た。


 隣の部屋の泣き声は、止んだ。


 その代わり、わたしは初めて、本当の声で言えた。


 夫に。


 保健師さんに。


 自分自身に。


「助けて」


 声に出すのは、怖かった。


 言った瞬間、母親失格の札を貼られる気がした。


 けれど誰も、わたしを責めなかった。


 夫はうなずいた。


 保健師さんは、予定を書いた紙を差し出した。


 子どもは、わたしの腕の中で小さく息をしていた。


 声に出すと、涙が出た。


 飲みこんでいた三か月ぶんが、いっぺんに、こぼれた。


 うちの子は、隣の部屋で、静かに眠っている。


 もう、代わりに泣いてくれなくても、いい。

「母親なんだから、だいじょうぶ」。その言葉が、いちばん人を追いつめることがある。

これは、飲みこんだ「助けて」を、声に出せるようになるまでの話です。

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