空席のタイムカード
小さな印刷会社。三か月前に亡くなった社員のタイムカードが、毎朝、勝手に打刻される。
出勤、午前七時。退勤、午前二時――誰も、押していないのに。
谷口さんが死んで、三か月になる。
なのに、あの人だけは毎朝、まだ出勤している。
あの人のタイムカードだけ、勝手に打ってある。
出勤、午前七時。
退勤、午前二時。
誰もいない事務所で、深夜、機械がかちりと鳴るのだと、宿直の先輩が言った。
谷口さんが生きていたころと、寸分たがわない時刻に。
その音を、俺はまだ聞いたことがない。
けれど午前二時の印字を見るたび、聞こえた気がした。
かちり。
帰れなかった人間の音が。
◆◇
谷口さんは、社の裏で倒れて、そのまま逝った。
社長は「持病でしたから」と繰り返した。
葬式でも、労基の書類でも。
残業の記録は、いつのまにか、定時で終わったことになっていた。
俺は、それを知っていて、黙っていた。
知っていた、というより、見ていた。
谷口さんが毎朝七時に来るところも。
終電がなくなってから、椅子に沈むように背中を丸めるところも。
コンビニのおにぎりを、キーボードの横で飲みこむところも。
見ていた。
見ていて、何もしなかった。
俺自身、いまも七時に来て、終電を逃す。
谷口さんが座っていた席で、同じ仕事を、同じ時間、している。
机の引き出しには、あの人の残した古いボールペンが入っている。
インクは、まだ出る。
それが、嫌だった。
◆◇
気味悪がった社長が、拝み屋を呼んだ。
慈恩、と名乗った。
糸目で、痩せた男だ。
三十を、少し過ぎたくらいか。
細い線香を一本立ててから、そのタイムカードを、指の腹で撫でた。
「よく働く人だ」と、静かに言った。
「死んでも、まだ打刻している」
「祓ってくれ」と社長が言った。
「客も来る。縁起でもない」
社長の声には、苛立ちが混じっていた。
怖がっているというより、邪魔なものを片づけたがっている声だった。
慈恩は、首を横に振った。
「祓いませんよ」
社長の顔が、こわばった。
「この人はね、恨んで出ているんじゃない」
慈恩は、俺のほうを見た。
糸目を、細く開いて。
「止めたいんです。自分と同じ時刻に、出て、帰らない――そこの、若いのを」
喉の奥が、つまった。
俺は何も言えなかった。
谷口さんの席に座っているのは、俺だ。
谷口さんの仕事を引き継いだのも、俺だ。
谷口さんと同じ時刻に出て、同じように帰れなくなっているのも、俺だ。
午前二時の打刻は、死んだ人間の記録じゃなかった。
俺の明日の時刻だった。
◆◇
帰りぎわ、慈恩は俺に、一枚の紙を渡した。
谷口さんの、本物の勤務記録だった。
改ざんされる前の、午前二時が並んだ、あの人の三か月。
紙は薄かった。
けれど、鞄に入れると、やけに重かった。
どこで手に入れたのかは、訊かなかった。
「どうするかは、あなたが決めることです」と慈恩は言った。
「労基署に持っていくのも、破って捨てるのも。ぼくは、どちらでもいい」
押しつけては、こなかった。
ただ、渡しただけだった。
そのほうが、逃げ道がなかった。
◆◇
俺は、一週間、その紙を鞄に入れたまま歩いた。
朝、七時に会社へ行く。
夜、終電を逃す。
駅前のベンチで始発を待つ。
そのたびに、鞄の中の紙を思い出した。
谷口さんの、二時の打刻を、何度も見た。
俺の、明日かもしれない時刻を。
破って捨てれば、楽になると思った。
見なかったことにすれば、明日も席に座れる。
社長に睨まれずに済む。
仕事も、たぶん失わずに済む。
でも、午前二時の印字だけは消えなかった。
かちり。
誰もいない事務所で鳴る音が、耳の奥に残っていた。
労基署の窓口に座ったのは、次の月曜だった。
紙を出す手が、震えた。
それでも、出した。
◆◇
会社に、調査が入った。
社長は、しばらく口をきかなくなった。
俺のことも、谷口さんのことも。
事務所の空気は、前より重くなった。
けれど、夜の二時まで残る人間は、少しずつ減った。
俺も、帰るようになった。
帰っていいのか、最初はわからなかった。
午後五時半に席を立つと、背中がざわついた。
谷口さんの席だけが、こちらを見ている気がした。
調査が始まって、最後の朝。
いつものように、事務所へ入ると、谷口さんのタイムカードが、打ってあった。
出勤の欄は、空だった。
退勤 午後五時三十分。
終業の、定時だった。
生きているあいだ、一度も押せなかった時刻だ。
俺は、そのカードの前で、しばらく立っていた。
かちり、という音はしなかった。
それきり、あの機械が、深夜に鳴ることは、なくなった。
谷口さんは、やっと、定時で帰ったのだと思う。
過労死を「持病」に書き換える手は、いまも、どこかにある。
これは復讐の話ではありません。死んでもなお、後輩を帰らせたかった人の話です。
過労死多かったからな...( = =) トオイメ目




