観光客の風
**第6話 ——観光客の風**
【前回までのあらすじ】
廃村の異変に向き合う真琴に、黒い水の津波が襲いかかる——
【今話の見どころ】
★ついに、彼が登場します。
アロハシャツ。サンダル。糸目。煙草。
「すみません、道、ちょっと、間違えたみたいで」
それでは、本編をお楽しみください。
Part 1 ——黒い水が、消える
黒い水が、社の奥から津波のように押し寄せてきた。
腐臭の塊だった。獣の臭いと、内臓の臭いと、井戸の底に何十年も沈んでいたような澱んだ臭い。それが固体になって、わたくしと坂東先生に向かってくる。
「伏せてください!!」
坂東先生の叫び声で、わたくしは咄嗟に頭を抱えた。折りたたんだ膝の上に顔を押し付け、桃木剣とお父様の御札を、ぎゅっと抱きしめる。
駄目。飲み込まれる。わたくし、ここで——こんなところで。お父様、お母様、ごめんなさい——
その瞬間。
ぴた、と、世界が止まった。
押し寄せてくるはずの音も、腐臭も、冷気も。その全部が、ぴたりと止まった。
「……え?」
おそるおそる顔を上げる。
社の入口の半分くらいまで迫っていた黒い水。それが、まるで目に見えない壁にぶつかったみたいに、止まっていた。ふわりと宙に浮いて、水面だけが小さく震えている。
息が、止まった。
しゃっくりが止まったみたいに、ふっと、何かが抜けた。
死を覚悟した心臓が、まだ動いている。
「先生……」
声が、震えていた。
坂東先生も、その光景を見ていた。桃木剣を構えたまま、ぴくりとも動かない。額には汗。
「これ、わたくしたちの結界札の効果ですの?」
「いえ」
「では、なぜ……」
「わかりません」
坂東先生が「わからない」。それだけで、十分だった。
ぞわ、と、背筋に何かが走った。恐怖ではない。別の感覚。
誰か、いる。
ぱきん。
小さな音がした。ガラスの欠片が落ちるような、繊細な音。
その瞬間、宙に浮いていた黒い水が——ぱぁん、と空気の中で砕けた。霧散していく。腐臭が薄れる。社の奥の闇も、少しだけ明るくなった。
社の中で、何か巨大な影がぴくりと震えた。そしてゆっくり、奥へ引いていく。
『……』
複数の声が、不機嫌そうに唸った。そして、闇の奥へ消えた。
静かに、なった。
廃村の腐臭は、まだ残っている。けれど、押し寄せてきた殺意が、消えた。
何が起きたのか、わからない。
ただ、生きている。
それだけが、わかった。
坂東先生の声は低い。警戒は解いていない。桃木剣を握り直す。二人とも、まだ社の方を向いていた。
気配。まだ、ある。ただし、社の中ではない。
……後ろ?
そう推理した瞬間、坂東先生がゆっくり振り返った。その動きが、ふだんよりもずっとゆっくりだった。刺激しないように。決して急がないように。
「お嬢」
「はい?」
「後ろを、見てください」
「え?」
その「え?」の声が口から出る前に。わたくしの背筋に、また、ぞわっと何かが走った。
気配の主は——わたくしたちの、後ろ。すぐ後ろ。いつから?
ゆっくり振り返る。刺激しないように。息をひそめて。膝はまだ震えているけれど。
石段。その半ばくらいのところに——
人が、立っていた。
「……えっ?」
ふたりとも、まったく気付かなかった。いつから、そこに、いたのか。
え。え? いつ、来たの?
その男は、二十代後半くらい。中肉中背で、少し痩せている。派手な柄のアロハシャツに、ハーフパンツ、サンダル。サングラス。
完璧な、観光客の軽装だった。
——夏の、海辺?
ここは山の奥の廃村ですわよ?
サングラス越しの、糸目。笑っているような、ぼんやりとした糸目。緊張も、警戒もない。
頭が、追いつかない。
——この方、変、ですわ。
でも、今は深く考える余裕は、ない。
桃木剣を握り直す手だけが、勝手に動いていた。
ただ、
「すみません」
ぼそ、と、男が言った。
「道、ちょっと、間違えたみたいで」
「……」
「ここ、なんて村でしたっけー?」
———
———
———
わたくしの頭の中で、何かが、完全に止まった。
Part 2 ——一般人
夏の軽装。糸目。困ったような口元。
どう見ても、一般人。観光客。ハイキング迷子。
巻き込まれた、ご様子。
「えーと」
男は、首をぽりぽり、と掻いた。
「ぼく車を停めて山を歩こうとしたら、迷っちゃって。看板を追って降りてきたら、ここに出たんですけど。なんか雰囲気違いますよね?」
「ええ……」
いや、「はい」しか言えませんわ。
ちょっと雰囲気が違うどころじゃ、ありませんもの。廃村ですわよ。廃村の神社ですわよ。いま、津波みたいな黒い水が出てきましたわよ。それが勝手に消えましたわよ。あなた、ね、それを見てません?
そう、心の中でつぶやいた。
「先生」
坂東先生に囁く。
「はい」
「この方、一般人ですわ。巻き込まれた感じ。保護しないと」
坂東先生は黙って頷いた。声に出さない。出すと、あの男に聞こえる距離だからだろう。坂東先生のそういう繊細さが、お父様の右腕、と呼ばれるゆえん。
わたくしたちはお役目でここへ来た。でも、この方は迷い込んだだけ。
責任はわたくしたちにあるのですわ。お父様の結界札の外側で待たせておけば、よかった。
でも、もう遅い。保護しないと。
「あの、すみません」
男に近づく。
「はい?」
「ここ、危険な場所、ですの」
「あ、そうなんですか」
「ええ。すぐにお引き取りください」
「それじゃあ、帰りますかー」
あまりに軽い返事だった。
「車、どちらに停めてます?」
「えーと、麓の方です」
「徒歩で、戻れますか」
「うーん、どうですかね」
どうですかね、って。軽い。軽すぎる。危険な廃村に迷い込んで、軽すぎるリアクション。
いや、危険が伝わっていないのかもしれない。だって、いま消えたもの。黒い水も津波も。この方、見てない可能性、ありますわ。
「先生、この方を麓まで、お送りしますか?」
坂東先生に聞いた。
「お嬢、それは、危険です」
「……なるほど」
坂東先生は、低い声で続けた。我々が廃村を離れたら、結界が解ける可能性がある。結界が解けたら、犬神様が追ってくる可能性もある。そうしたら、麓の村まで被害が及ぶ。
つまり——わたくしたちは、ここを離れられない。
「ですので、お嬢この方を結界の内側に置いておくしか、ありません」
「……承知、いたしました」
なるほど。わたくしたちが離れるわけにはいかない。でも、この方をここに置いておくわけにもいかない。どちらも危険。もう、一緒に行動するしかないのですわね。
「あの」
男に、向き直った。
「はい?」
「申し訳、ございませんが」
「はい」
「しばらく、わたくしたちと一緒に、行動していただけますか」
「えっ?」
言葉を継いだ。
「危険な場所なので、お一人で麓まで戻していただくわけには、いきません」
「ああ、そうなんですか」
「我々がお役目を終えてから、麓までお送りいたしますので」
「あ、それは助かります」
男は糸目のまま、軽く頷いた。
軽い。本当に軽い。廃村にしばらくいることになったのに、「助かります」って。緊張感、ゼロ。
大丈夫かしら、この方。
「あの、お名前、伺っても?」
「佐藤士恩、です。ジオンって呼んでください」
ジオン? 珍しいお名前。下のお名前の方を、通称で?
少し、変わってらっしゃる。でも、一般人の中にも、いらっしゃいますわよね。
「佐藤様、ですね」
「いえ、ジオン、でいいですよ」
「ですが、初対面で、下のお名前で、というのは——」
「いやー、ぼく、佐藤、って呼ばれるの、なんか慣れなくて」
「……左様、ですか」
仕方ない。ご本人がそうおっしゃるなら。
「では、ジオン様、と」
「ジオン、でいいですよ」
「……ジオン様、と」
結局「様」で押し切った。
「お嬢さん、お名前は?」
「大津真琴、と、申します」
「真琴さん、と」
名乗りに緊張感はなかった。
「こちら、坂東先生、ですわ」
「坂東さん、ね」
「で、申し訳ありませんが、しばらくお付き合いください」
「いえいえ、ぼくも迷子ですから助かります」
軽い。本当に軽い。
でも、悪い人ではなさそうですわね。糸目でぼんやりして、害もなさそう。
「ぼくも迷子ですから、助かります」って。保護をお願いする側の、感じ。
可愛らしいと言えば、可愛らしいですわ。
そして、坂東先生を振り返った。
「先生。とりあえず、社の前でもう少し、待機しますわよね?」
「ええ」
ジオンはぼんやりと糸目のまま、ふたりについてきた。その足音は不思議と軽かった。廃村の湿った土の上で、ぱた、ぱたとサンダルの音が響く。
そして、ジオンは、ふと神社の社の方を見た。
何かを感じているような顔だった。糸目のまま。けれど、ほんの一瞬、表情が引き締まったように見えた。
……気のせい、かしら。
すぐにジオンの表情は、元の、ぼんやりとした糸目に戻った。
わたくしと坂東先生、そしてジオンは、社の前にいた。
田中が用意してくれた、ござを敷く。お父様の結界札を四方に貼り直した。中央にござを敷く。田中がリュックに入れてくれていたもの。
田中、本当によく気が利くですわ。失禁の予備のスカートも、ござも、ぜんぶ入れてくださっていた。
「ジオン様、こちらお座り、ください」
「ありがとうございます」
ジオンは、ござの隅にぺたんと座った。
そして——
「ぼくちょっと一服しても、いいですか?」
と、煙草を出した。
え。煙草? こんな状況で? 一般人、強い。廃村で何か出てきても煙草、吸う感じ。
「あ、はい、どうぞ」
頷いた。
ジオンは火をつけて、ふっ、と煙を吐いた。
ふしぎ。煙がね、まっすぐ上に行く。廃村、空気止まってる、はずなのに。煙、ちゃんと立ち上る。あれ? ジオン様の周りだけ、空気が流れてる?
いえ、気のせい、ですわね。
「ジオン様、お仕事は、何を?」
聞いてみた。
「相談屋、みたいなもんです」
「相談屋?」
「ええ。色々、相談に乗りますよ」
「あの……どのような、ご相談を?」
要領を得ない。
「うーん。占い師みたいなもんです」
「占い師?」
「人生の占いってやつを、少々」
「……」
つかみどころがない。
「住所、なかったんですよ」
「えっ?」
「だから占い師なんです」
──意味が、わからない。
──住所がないから、占い師?
──いえ、これは「煙に巻く」って、おっしゃってるの?
──ご職業を、はぐらかしている、ということ?
ジオンは糸目のまま、ふっ、と煙を吐いた。
「住所がないんで、ぼくの方が皆さんのところに行くんですよ」
「あー……」
「相談屋、占い師。まあ似たようなもんで」
そう言って、また煙を吐いた。
占い師。変わったお仕事。でも、一般人ですよね? わたくしたち、陰陽師。あちらは、占い師。
世界が、違いますわ。
Part 3 ——たまに、いない
「お嬢、警戒は、解かないでください」
坂東先生が、低く囁いた。異界化が進んだ廃村。いつ、何が来てもおかしくない、と。
わたくしは、頷いた。
そう囁き合っているうちに、ジオンは煙草を吸い終わって、
「ぼく、ちょっとお手洗い行ってきますね」
と、言った。
「えっ?」
「すぐ、戻ります」
「ジオン様、危険、ですから——」
「すぐそこの、木の影で」
「あ、はい」
「それじゃ、ちょっと」
ジオンは立ち上がって、ぷらぷらと社の向こう側へ歩いていった。
え。大丈夫、かしら。廃村のお手洗い。わたくしたちの視界から、消えた。
「先生、追いかけた方が、よろしいですか?」
「いえ、ある程度のプライバシーはお与えすべきです」
「……なるほど」
「大丈夫、結界の内側、です」
「はい」
待った。一分、二分、三分。
遅い。お手洗い、長すぎですわ。
「先生、見てきますわ」
「お嬢、私が」
「いえ、わたくしが」
ござから立ち上がって、ジオンが消えた社の向こう側へ回り込んだ。
あら? いない。
社の向こう側。そこには、誰もいなかった。
「ジオン様?」
呼んでも、返事がない。
観察、ですわ。
その場で立ち止まって、周囲を見回した。
視界の範囲、約三十メートル。木の影、岩の影、社の壁。全部確認できる。人ひとり隠れる場所、ない。
ということは——ジオン様、ここにいない。でも、結界札の外には出ていない。結界札は、淡く光っている。ということは、結界の内側にいるはず。
なのに、見えない。
……論理的に、矛盾していますわ。
視認可能な範囲にいるはずなのに、見えない。ということは、ふたつ。ひとつ、わたくしの目では視えない場所におられる。もうひとつ、わたくしの認識から消されておられる。
どちらにしても——ふつう、ないですわ。
不安になって、坂東先生を呼んだ。
「先生、ジオン様、いません」
坂東先生の眉が、ぴくり、と動いた。
「いつから、ですか」
「わかりません。さっきまで、おられたのに」
坂東先生も、急いで来た。ふたりで、社の周りを探した。
「いない、ですね」
「ええ」
「結界の、外に、出た?」
「いえ、結界札は変わらず、光っています」
理屈は合っている。
「では、結界の内側に、いるはず」
「そのはず、ですが——」
「でも、いない」
坂東先生も、確認なさった。結界札は変わらず光っている。ということは、結界の内側のはず。でも、ふたりで探して、見つからない。
え。どこ? どこに行きましたの? もしかして、犬神様に攫われた? でも結界は効いてるはず。なら、なぜいない?
混乱して、社の入り口を見た。
その時——
「すみません」
ぼそ、と、声がした。
振り返ると——
ジオンが、立っていた。
「えっ?」
え? え?
いま振り返るまで、いなかった。視界の真ん中で、ふたり社を見ていた。その視界の中に——ジオン様の入ってきた瞬間が、ない。「ぼそ」と声がしたのは、わたくしたちの後ろ。
ということは——ジオン様、わたくしたちの後ろから、現れた。でも、社の向こう側にいなかったし、結界の外にも出ていなかった。
……論理が、また破綻、しましたわ。
「ジオン様、どちらに、いらっしゃったの?」
「いやー、ちょっとお腹が、奥の方まで行っちゃいまして」
「奥?」
「ええ、ちょっと申し訳ないです」
「あの、社の向こう側、ぜんぶ見ましたけれど」
「あれれー?」
ジオンは糸目のまま、不思議そうに、首を傾げた。
「ぼく、向こうに、いましたよ?」
「……」
いえ、いらっしゃいませんでした。
「ま、ぼくもちょっと迷子だったかもしれませんね」
「……そう、ですか」
……「奥」。どの奥? わたくしたち、社の周り、ぜんぶ見ましたわよ?
「お腹、痛くて」「奥の方まで」=大人がよく使う、流す言葉。
でも、ジオン様が向こうへ歩いていったのは、わたくしたち確認しているのですわ。社の向こう側へ、ぷらぷらと歩いていった。なのに、向こう側にはいなかった。そして——戻ってきたのは、わたくしたちの後ろ。
しかも、後ろから。
ということは、この異界——ループしている?
向こうへ行くと、後ろから戻ってくる。空間が、ねじれている、ということ?
ふつうの一般人なら、絶対に、こんな現れ方はしない。
……本当に、一般人?
でも、ジオンは糸目のまま、けろっとしている。
「ご心配、おかけして、すみませーん」
「いえ、無事でなにより、ですわ」
「ありがとうございます」
変。変、ですわ。
でも、戻ってきた。
無事な顔で、糸目で、けろっとして。
なら、こちらも、いつも通りに対応するしかない。一般人を保護するお役目に、変わりはないのですから。
Part 4 ——違和感
その後も、ジオンはたまに、消えた。
「ちょっと、煙草、買いに」
(廃村に売店、ありませんわ)
「ちょっと、足、伸ばしてきます」
(結界の外出たら、危険ですわ)
「ちょっと、休憩、ね」
(ござの上で休めばいいですわよ)
そう心の中でツッコミながら、ジオンを見ていた。
毎回、消える。毎回、戻ってくる。無事。怪我、なし。血の匂い、なし。
——違和感が、積み重なる。
ひとつ。アロハシャツで廃村。
ふたつ。気配なしで、後ろから現れた。
みっつ。一般人なのに、黒い水を見ても動じない。
よっつ。お手洗いと言って消えても、すぐ戻ってくる。
いつつ。「お腹が、奥の方まで」と、はぐらかす。
——ふつう、じゃない。
そう思い始めていた。
「先生」
坂東先生に、囁く。
「はい」
「ジオン様、ね、ふつうじゃないですわ」
「ええ。私も、感じます」
「いつ、何処へ消えてる、んですの?」
「観察、できておりません」
坂東先生も眉を寄せた。
「先生、追跡できます?」
「お嬢」
「はい?」
「私の、技量では、難しい」
「……そう、なのですか」
坂東先生は言葉を選んでいた。
「あの方、ね、気配を消す技術を持ってます」
「気配を、消す?」
「ええ。修行を、積んだ人間でも、難しい」
「じゃあ、ジオン様は修行を、積んだ人?」
「断定、いたしかねます」
断定、いたしかねます、ばかりですわ。
でも、坂東先生も感じている。ジオン様、ね、ただの一般人ではない。でも、敵ではない雰囲気。少なくとも、わたくしたちに危害を加える感じはしない。むしろ。
黒い水を消したのも、もしかして、この方?
ジオンは、また、ござの上で煙草を吸っている。ぼんやりと。糸目のまま。その横顔は、本当にただのとぼけた二十代後半の男に、見える。
でも、違いますわ。きっと違いますわ。
この方、ね、何か特別な何かですわ。でも、何が特別なのか、わからない。
そう思いながら、ジオンを観察した。
ジオンは、ふと煙を吐いて、
「真琴さん」
「はい?」
「お嬢さん、疲れが出てますよ」
「えっ?」
「目の下に、ちょっと隈ができてます」
「えっ?」
え。隈? わたくし、隈、出てる? 気付かなかったですわ。
「いやー、ぼくこういうの気になっちゃうタチで」
「……はあ」
「目の隈は、人の疲れたーっていうのの、サインみたいなもんです」
「ええ」
「お嬢さん、無理しないでくださいね」
「……ありがとうございます」
あら。優しい。一般人なのに人の疲れに気づく、お方。でも、本当に一般人? 人の疲れのサインにこんなにすぐ気付く方なんて、ふつういらっしゃらないですわよ?
「ぼくが見張ってますから、ちょっと横になっても」
「いえ、お役目中、ですから」
「ああ、そりゃそうですよね」
そりゃそうですよね、って。軽く流された、感じ。でも、優しさ伝わってきた。変な人。でも、悪くない人。
そして、ジオンは、もう一度煙を吐いて
「ぼくちょっとまた、お手洗い」
「えっ?」
「すぐ、戻ります」
「また?」
「いやー、お腹がちょっと」
ジオンは、また立ち上がって、ぷらぷらと社の向こうへ歩いていった。
また? お手洗い、何回? お腹は大丈夫? いえ、たぶんお腹は大丈夫。別の目的があるんですわよ、これ。
そして、坂東先生を見た。
「先生、ジオン様、何しに行ってると思います?」
「わかりません。先ほど、つけてみました」
「えっ、先生、追われましたの?」
「ええ。途中で、見失いました」
先生の声が低い。
「えっ、先生が、ですか?」
「ええ。気配を、追っていたのですが——途中で、ふっと、消えました」
「……」
坂東先生でも、追えなかった。
——むっつ。あの坂東先生でも、気配を追えない。
違和感が、また、積み上がった。
「でも、何か目的があって、消えてるのかも?」
「わかりません。ただ、無目的とは、思えません」
「ジオン様が、犬神様を、調べてる?」
「お嬢、それも、推測の域、です」
あら。坂東先生、推測の域、と。
ジオン様、犬神様を調べてる可能性。でも、なぜ? 一般人なら逃げるはず。なのに、逃げない。むしろ調べてる。なぜ? 目的は何?
「先生、ジオン様ね、本当に一般人ですの?」
「判断、つきません」
「先生、いつもの答え、ですわ」
「ええ。本当に、判断、つかんのです」
坂東先生の声が、低い。
「お嬢」
「はい?」
坂東先生は、少し言いよどんだ。それから、ゆっくりと言った。
「あの方、ね、もしかして——我々が待っていた増援なのかもしれません」
「えっ?」
え。え? え?
「ジオン様、が?」
坂東先生は、それ以上は何も言わなかった。ただ、ジオンを見ている。その目には、警戒ではない別の感情があった。
——畏怖。
敬意とも警戒とも違う。古いもの、得体の知れないものを見るときの目。坂東先生でも、こんな目で人を見ることがあるのかと、わたくしは初めて知った。
「えっ?」
え。いや、まさか。あの方が? 我々の任務——犬神様を封印する、お手伝い? あの、だらり糸目煙草吸う人が?
うそ、でしょう?
増援、ね。お父様クラスの陰陽師が来るものと思ってましたのに。あの、サンダルの方が?
——いえ。
待って。
お父様、おっしゃっていた。「最近、業界に面白い若手がいるな」と。
「うちのような旧家の陰陽道は、堅すぎる。型に、はまり過ぎだ。あの子は神道、密教、修験道を独自に組み合わせて、新しい型を作りつつある」
「変わり種、だが——大成、するかもしれん」
——あれ?
そう、お父様。陰陽師の変わった方の話を、しておられた。
ということは——まだまだ知らない術者も、この世界には、いる。
ジオン様、もしかして、その変わり種の方?
お父様がおっしゃっていた、神道・密教・修験道を独自に組み合わせる、新しい型の——?
そう、思って、ジオンを見た。
——わからない。
確証は、ない。
でも、その線で、観察してみよう。
一般人なら、見えないものが視えている。気配なく、後ろから現れる。気配が、ふっと、消える。「お札」の状態がわかる。
これぜんぶ、お父様がおっしゃっていた「神道・密教・修験道を独自に組み合わせる方」、なら説明つく?
——つく、かもしれない。
いえ、確証はない。でも一般人より、その線の方がまだつじつまが合う。
そして、社の向こうへ消えていったジオンの後ろ姿を、思い出した。
その背中は、軽かった。ぷらぷらと、ふらふらと、頼りない感じ。なのに——なぜか。
堂々として、いた。
そう思えてきた。
え。え? え? 本当に、あの方が? 本当に?
頭の中で、何かが繋がりかけて、止まった。
その時——
社の向こうから、ぷらぷらと、ジオンが戻ってきた。
「すみません」
「あ、お帰り、なさいませ」
「いやー、もう大丈夫みたいです」
「……」
「真琴さん」
「はい?」
ジオンが、糸目のままわたくしを見た。
「あれ、お嬢さん、あのお札なんか変じゃないですか?」
「えっ?」
「あの、四隅に貼ってあるやつ。ちょっとこう、字が薄くなってる感じが。あ、なんか割れてるのもあるし、四方が奇妙に欠けてるっていうか」
「えっ?」
慌てて、結界札を見た。
四隅の、お父様の御札。
——あ。
ほんとだ。確かに、字が薄くなってる。墨が滲んでいる。端っこがわずかに欠けている。
物理的に、変化している。
——でも、おかしい。
結界札を貼ったのは、ほんの数十分前。お父様が半年かけて、心血を注いで書いた最高位の御札。本来なら丸三日は保つはずですわよ?
それが、貼った瞬間から、もう消耗している。
——犬神様の怨念が。
想定の何倍も、強い。
お父様も坂東先生も、これほどの規模を想定していなかった。一九八一年の事件の規模で計算していたから。
でも実際は——もっと、ずっと深い。
戦時中の何百もの悲しみと、怒りと、無念。それが一柱の犬神様に、凝縮されている。
「ジオン様……」
「いやー、ぼくこういうの、なんとなく目につくみたいで」
「あの、ジオン様」
「はい?」
「貼った瞬間から、もうこんなに消耗するもの、なのですか?」
「あれれー?」
ジオンは糸目のまま、首を傾げた。
「ぼくよくわかんないんですけどね。ただ、なんか薄いなー、って」
「……」
——「ただ、なんか」で、終わらせないでくださいませ。
「字が薄い」だけなら、まあ、いいですわ。墨汁が薄くなれば、目に見える。素人でも、気づくかもしれない。
でも——「割れてる」「四方が奇妙に欠けてる」?
物理的には、何ともなっていない御札の「欠け」が、見える?
それは、ふつうの人には見えないこと、ですわよ?
「あの、ジオン様」
「はい?」
「結界札を貼ったのは、ジオン様がお手洗いに行っていらっしゃる時、ですわよ?」
「あれー、そうでしたっけ?」
「ええ。確かに」
「うーん、いつの間にか、目に入ったんですかねー」
——いえ、入ってないはずです。
ジオン様、お手洗いから戻られて、ずっとござの上で煙草を吸っていらっしゃった。結界札の方を、一度も振り返らなかった。それは、わたくしがずっと視界の端で見ていた。
なのに、結界札の欠けの位置まで、ご存じ。
そう思っても、口には出さない。
「……そう、ですか」
「ぼくね、昔からこういうのよく見つけちゃうタチでー」
「……そう、ですか」
「よく見つける」で、片付けないでくださいませ。
ご職業、「占い師」って、おっしゃっていた。
なら——もしかして、本当にこういう世界の、関係者?
オカルト関係・霊能力者・霊媒師・霊感商法……いえ、ジオン様、お金は要求されてない。
それなら、何?
「視える」だけの、占い師?
でも、結界札の状態まで見抜ける占い師なんて聞いたことがない、ですわよ?
——ななつ。お父様の結界札の状態が、視える。
——やっつ。見ていないはずなのに、状態を、ご存じ。
違和感が、また、積み上がった。
でも、ジオンは糸目のまま、にこにこしている。ただ、ぼんやりと。
「いえいえ、ぼくなんか何にもできないんですけどね」
「……」
「ぼくね、本当にただの占い師なんですよ」
「ええ……」
「ただの」って、部分が、引っかかる。
「占い師」は、ご本人がおっしゃるなら、たぶん本当。ジオン様は嘘を言わないご様子。
でも、「ただの」?
ふつうの占い師、廃村ふらふら歩いて、結界札の状態は視えませんもの。
「ただの」って、部分だけ、なんだか、嘘っぽい。
——いえ。
ご自分のことを軽くおっしゃる方、なのかしら。
いや、待って。論理的に、考えてみる。
犬神様の津波、ね、勝手に消えた。
——ふつう、なら、ありえない。
あれだけの規模、ね、誰かが消したとしか思えない。
——誰?
わたくしと、坂東先生は、対峙していただけ。消す術は、使えていない。
ということは——他に、術者が、いた?
それとも——ジオン様?
でも、ジオン様。「占い師」「よく見えちゃうみたい」「一般人」と、軽い口調で流していらっしゃる。
ご本人ではない、可能性もある。
ただ、結界札の状態は、視える。
つじつまが、合わない。
——よくわからない、方。
そう、思った。
確信は、できない。一般人にしては、視えすぎる。ふつうの陰陽師にしては、軽すぎる。
——でも、お父様の言う「変わり種」、なら?
神道・密教・修験道、独自に組み合わせる方。型に、はまらない方。
それなら——軽い雰囲気、説明、つくかも。
……うーん。仮説。仮説、ですわ。
そして、ジオンを、まじまじと見た。
ジオンは、糸目のまま煙草を吸って、
「いやー、廃村ってなんか、いいですよね。雰囲気が」
と、のんびり、つぶやいた。
「いい」、ですって? 廃村が「いい」?
一般人、ふつう、廃村「いい」って言わないですわよ? 「怖い」「気持ち悪い」「早く帰りたい」ですわよ? 「いい」って、もう観光感覚ですわよ?
——ここのつ。廃村を「いい」と言える。
観光感覚で廃村にいる人? いえ、もっと正確には——犬神様を「いい雰囲気」と見ていらっしゃる、人。怪異を観察対象として楽しんでいらっしゃる、人。
ふつうの陰陽師でも、こんな顔はできない。怪異は、お役目の対象であって、楽しむものではないですわ。
なのに、この方は楽しんでいらっしゃる。怖がってもいない。緊張もしていない。
ただ、煙草を吸って、ぼんやりと観ていらっしゃる。
——もう、確信は、できない。確信は、できないけれど。
九つの違和感が、積み上がった。
ひとつや、ふたつなら、偶然と言えた。
みっつ、よっつ、いつつでも、まだ偶然と思えた。
でも、九つ。
そして、傍観者という言葉が、頭に浮かんだ。
ご自分から、動かない。助けるけれど、踏み込まない。
黒い水のとき、結界札のとき。何かが起きた瞬間、いつも近くにおられた。でも、ご自分が「やった」とは、絶対におっしゃらない。
……こういう、お方、なのですね。
夏の、午後の、廃村。
ジオンの煙草の煙が、まっすぐ空へ立ち上る。その煙だけが——廃村の止まった空気の中で、唯一、生き生きと動いていた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
Nolaノベル
黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】
最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中
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