工場の夜勤
一九九八年、飛べなかった男の話。夢が夢じゃなくなる瞬間を、工場の夜に置きました。
深夜二時の工場は、機械の音しかしない。
プレス機が鉄板を打つ。ドン、ドン、ドン。
その隙間に、俺はメロディを数える。ワン、ツー、スリー、フォー。
作業服のポケットには、いつも折りたたんだ五線譜が入っている。汗と油で角がふやけても、捨てられなかった。
俺は十九歳だった。
高校を出て、春に上京した。長野の山の中から、夜行バスで。ギターケースと、ボストンバッグひとつ。それで足りると思っていた。
夢は、ミュージシャンだ。
ライブハウスの扉を叩いて、笑われた。デモテープを送って、返事は来なかった。金が尽きて、この工場に流れ着いた。夜勤専門。時給が二割いい。夜に働く人間には、二割ぶんの何かが欠けているのだと、あとで知る。
生活はシンプルだった。
働く。曲を書く。寝る。
それでよかった。夜勤は仮の姿だ。いつか昼の世界へ、飛んでいく。
そう思わなければ、ドン、ドン、ドン、という音に、自分まで平らにされてしまいそうだった。
◆◇
そのころ、SHOと知り合った。
同じ日の、二つ前の出番。細くて、声が高くて、ステージで笑うのがうまい男だった。
俺のほうが、コードを知っていた。あいつよりギターが弾けた。それは本当だ。今でも本当だと思っている。
なのに客は、あいつの笑った顔を覚えて帰った。俺の曲は、うまいと言われて、それで終わった。
「お前の曲、うまいよな」とSHOは言った。「うますぎて、こわい」
意味がわからなかった。ほめられているのか、けなされているのか。
ただ、腹の奥が少しだけ冷えた。うまいのに、こわい。そんな言い方をされたのは、初めてだった。
◆◇
名刺は、いつのまにか俺のポケットにあった。
誰が入れたのかは、わからない。楽屋の隅で、誰かがそっと滑らせたのだと思う。
――慈恩 気づかせ屋。電話番号だけ。住所は、ない。
怪しかった。捨てようと思った。けれど捨てられなかった。
売れたいとは、誰にでも言えた。
でも、怖くて出せないとは、誰にも言えなかった。
神宝町、という街だった。古書店と、木造の喫茶が残る、時間の止まったような路地。喧噪の新宿から電車で少し行くだけなのに、空気の色がちがった。
喫茶「珈琲 鈴蘭」。夜九時。奥の窓際に、その人はいた。
糸目で、痩せて、白い。二十歳を少し過ぎたくらいか。指で煙草をくるくると回している。
「ええ」
「ええ」
俺が話すあいだ、相槌はそれだけだった。話を聞く前に、小皿へ線香を一本、立てた。細い煙が、まっすぐ立ちのぼる。
俺は喋った。いつか売れる。いまは荒い。ぜんぶ完璧にしてから、世に出すんだと。もっとうまくなってから。
喋れば喋るほど、自分の声が薄くなっていくのがわかった。言いわけを、音楽の話みたいに包んでいるだけだった。
慈恩は、ゆっくり煙草を回した。
それから、たった一つ、訊いた。
「完璧になったら、って――それ、いつです?」
俺は笑った。答えなかった。答えは、そのうち、と思っていた。子どもじみた問いだと思った。
味のしないコーヒーを飲み干して、俺は神宝町を出た。線香の匂いを、背中に置いて。
◆◇
SHOは飛んだ。
二年目の冬、あいつのバンドがインディーズでシングルを出した。三年目の春、それが有線で流れはじめた。
俺はそれを、工場で聴いた。
深夜二時の休憩室。古いラジオ。壁の向こうのドン、ドン、という音の手前で、SHOの高い声が鳴った。
うまくない、と思った。俺のほうがうまい、と思った。
そのあとで、気づいた。
――三年、経っている。
曲は増えた。ノートが溜まった。腕も、上がった。あのころよりずっと上だ。
でも一曲も、誰にも、届いていない。
「完璧になったら、って――それ、いつです?」
三年遅れて、あの問いが、胸のいちばん奥に落ちた。
慈恩は、答えを言わなかった。ただ、訊いただけだ。俺が、答えなかっただけだ。
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。蛍光灯の下で、燃えカスみたいに白かった。
俺とSHOの差は、才能じゃない。腕でもない。それは今でも言い切れる。
あいつは、手を離せた。荒いまま、未完成のまま、人前に放り出せた。
俺は、握りしめていた。完璧にする、という言いわけで。握っている手のほうが、先に冷えていくのも知らずに。
ポケットの五線譜を取り出すと、折り目のところが黒く汚れていた。何度も開いた跡だった。けれど、誰にも見せていない紙だった。
それが、いちばん恥ずかしかった。
◆◇
休憩終わりのブザーが鳴った。
俺はラインに戻る。ドン、ドン、ドン。鉄板が、正確なリズムで打たれていく。
いいリズムだ、と思った。この拍で、一曲書けるな、と。
そう思う自分を、俺はもう、責めなかった。ポケットの五線譜は、まだそこにある。鳴らす場所が、少し変わっただけだ。
飛べなかった者にも、朝は来る。
夜勤明け、俺はアパートのカーテンを、三年ぶりに正面から開けた。眩しくて、少しだけ、泣いた。
その春、工場に、新しい夜勤が入ってきた。地方から出てきたばかりの、目だけが焦げていない若いのだった。
休憩室で、そいつは弁当も食わずにノートへ何かを書いていた。俺は、それを見ないふりをした。見ないふりをしながら、昔の自分の背中を見ていた。
俺はポケットの名刺を、そいつのロッカーに、そっと滑らせた。
名刺は、そうやって、街の隙間を、人から人へ、渡っていく。
手を離せた者と、握りしめた者。差は才能じゃなかった——そう書きたくて、この夜勤を書きました。




