若手陰陽師
**第5話 ——若手陰陽師**
【前回までのあらすじ】
廃村に入った真琴は、家屋の奥に何かの気配を感じる。
【今話の見どころ】
若手陰陽師の遺体発見。
真琴の動揺と、お嬢様としての覚悟。
★ホラー描写があります。
★やや長めの話数ですが、最後まで一気に読めるようにしてあります。
それでは、本編をお楽しみください。
レッツゴー!陰陽師 (゜∀゜)o彡
家屋の奥の部屋は、襖が半分、外れていた。
その隙間から、冷たい空気が流れてくる。
いや。
空気ではない。
湿った『何か』だった。
腐った水の臭い。
長年、陽の当たらない井戸の底に溜まり続けた泥水の臭い。
そこへ、獣の腐臭が混ざっていた。
犬。
いや、犬だったもの。
腹を裂かれ、内臓が腐り、水を吸って膨れ上がった死骸の臭い。
その臭いが、部屋の奥から、静かに滲み出している。
ぽた。
ぽた。
どこかで、水が落ちる音がした。
わたくしは、息を止めた。
森が、静かすぎた。
さっきから、ずっと。
蝉も鳴かない。
鳥も飛ばない。
風で葉が擦れる音すらない。
山そのものが、息を潜めている。
まるで、この家の中にいる『何か』を刺激しないように。
「……先生」
「ええ」
坂東の声も、小さい。
ふたりとも、本能で理解していた。
ここは、まずい。
襖の隙間から、中を覗く。
その瞬間。
喉が、凍った。
部屋の真ん中に。
人が、いた。
いや。
人だったもの。
胡坐をかいている。
白い陰陽師装束。
けれど、その白は、もう白ではなかった。
茶色。
黒。
赤。
乾いた血と、水腐れで、色が変わっている。
胸が、開いていた。
四方へ。
花みたいに。
肋骨が、外へ向かって咲いている。
ばき、ばき、と折れた骨が、花弁みたいに肉を押し広げていた。
その中心。
本来、心臓や肺がある場所には——
暗い穴。
真っ黒な空洞。
その穴の奥から。
ちゃぷん。
水の音がした。
「……え?」
凍りつく。
──え。
──水?
──内臓があるはずの場所、ですのに?
ちゃぷん。
ちゃぷん。
まるで腹の中に、黒い水が溜まっているみたいに。
腐臭が、さらに濃くなる。
鼻の奥に、まとわりつく。
湿った獣臭。
古い血。
泥。
腐肉。
そして。
濡れた犬の臭い。
……観察、ですわ。
また、自分に言い聞かせる。
膝は、もう止まらないほど震えていた。
それでも、目だけは、逸らさなかった。
幼い頃、お父様が、教えてくださった。
──視ることが、わたくしたちの、お役目。
──視ないことは、亡くなった方への、礼を欠くこと。
だから、見る。
逃げずに、見る。
──まず、死後の経過。
そう、自分に言い聞かせる。
幼い頃、お父様の書斎にあった、ご検視のお書物。
捲ってはいけないと、言われていたのに、こっそり見てしまったあの本。
ページごとに、亡くなった方の写真と見解が、並んでいた。
そこに書かれていたことを、今、思い出す。
──皮膚の状態。
──乾燥していますわね。
──でも、剥がれた箇所の肉は、まだ湿っている。
──ということは——
──死後、数日?
──いえ。
──数ヶ月?
──そんなはずは、ない。
──だって。
──皮膚は、剥がれていますもの。
──剥がれたのは、最近のはず。
そこで、論理が、行き詰まる。
普通の死体ではない。
普通の経過を、たどっていない。
──陰陽道の、ご本にも、書いてございました。
──呪われた死体は、腐敗が止まる、と。
──または、別の方向へ進む、と。
──だから、わたくしの知識では、判断できない。
──そういう、領域。
そこまで考えて、また顔を見つめた。
顔。
顔の皮膚は、半分、剥がされていた。
赤黒い筋肉が剥き出しになっている。
筋繊維の、ひとすじひとすじが、見えた。
頬筋。
咬筋。
側頭筋。
幼い頃、お父様に教わった人体のお名前が、勝手に頭の中に並んでいく。
並べることで、これが、ただの「肉のかたまり」だと自分に信じ込ませようとした。
ただの、解剖学。
ただの、知識。
──こわく、ない。
──こわく、ない。
──ただの、教科書。
でも、嘘だった。
ちっとも、信じられなかった。
片側の頭皮だけが、べろん、と捲れ、耳の後ろへ垂れ下がっていた。
まるで誰かが、生きたまま、素手で剥いだみたいに。
──いえ。
──「みたいに」、ではない。
──素手で、剥いだ、跡。
──爪の、跡が、残ってますもの。
──皮膚の、縁に。
そう、推理した。
すると、頭の中に、その瞬間の映像が勝手に流れ込んできた。
誰かが。
生きたまま。
両手で。
頭皮を。
ぐぃ。
──やめて。
──やめて。
──やめて、ください。
胃の奥が、ぎゅ、と縮んだ。
それでも、目を、閉じなかった。
目は、なかった。
眼窩だけが、暗く空いている。
──眼球が、ない。
──摘出された?
──いえ。
──食べられた?
──犬に?
──それとも——
──犬神様、ご自身に?
そこで、ようやく思考が、限界を超えた。
胃の奥が、ぐらりと、ねじれた。
肺に、酸素が、足りない。
口の中に、酸っぱいものが、こみ上げる。
それでも、まだ、視ようとした。
──最後まで、視るんですの。
──視るのが、わたくしのお役目。
──視ないのは、亡くなった方への、ご無礼。
なのに。
その穴の奥で。
何かが、動いた。
ぬる。
「っ……!」
目の穴の奥。
そこに。
白いものが、ぎち、と動いた。
犬の歯。
いや。
歯だけじゃない。
暗闇の奥に、何かの『口』がある。
人間の頭蓋の内側に。
何か別の生き物が、入り込んでいる。
ぎち。
ぎち、ぎち。
歯を鳴らしている。
──……、無理。
その瞬間。
ようやく目を、逸らした。
二歩、後ずさる。
そして。
口を、押さえた。
「……っ、ぐ」
押さえた手の、指の隙間から、酸っぱい味だけがこみ上げてくる。
朝に食べた田中のおにぎりは、もう消化されてしまっていた。
胃の中に、ほとんど、何もない。
それでも、胃が、ねじれる。
ねじれて、酸っぱい胃液だけを、押し上げる。
膝が、折れた。
地面に、両手を、ついた。
「お、ぇ……っ」
そのまま。
吐いた。
ぼた。
ぼた、と。
胃液と、唾液と、消化しきれなかったお米の名残が、地面にこぼれる。
ほとんど、水のような、嘔吐だった。
それでも、胃の痙攣は、止まらなかった。
「お、ぇ……っ、おぇ……っ」
二度。
三度。
しぼり出すように、胃液だけが、こみ上げる。
涙が、ぼろぼろとこぼれる。
──ごめんなさい。
──田中。
──お作りくださったおにぎりが、こんな、ことに。
──ごめんなさい、お父様。
──わたくし、まだお役目に、慣れていなくて。
「先生……!」
声が、震えていた。
坂東が、桃木剣へ手を伸ばす。
その瞬間。
部屋の奥で。
ぐちゃ。
水音がした。
ゆっくり視線を落とす。
若手陰陽師の足元。
畳が、濡れていた。
黒い水。
そこへ。
ぼた。
ぼた。
天井から、液体が落ち続けている。
しかも。
その水は、動いていた。
畳の上を。
ゆっくり。
生き物みたいに。
足元へ向かって。
「……え?」
黒い水の中に、毛が浮いている。
白い毛。
茶色い毛。
犬の毛。
しかも。
ところどころ、人間の髪も混ざっていた。
長い黒髪。
水の中で、ゆらゆら揺れている。
「……ッ」
吐き気が込み上げる。
その時だった。
若手陰陽師の身体が。
ぴくり、と動いた。
呼吸を忘れた。
動いた。
確かに。
肩が。
関節が。
不自然に、逆方向へ。
ぐき。
音がした。
腕が、折れ曲がる。
人間ではありえない方向へ。
ぐき、ぐき、ぐき。
関節が、ひとつずつ回る。
まるで中にいる何かが、壊れた人形を無理やり動かしているみたいに。
そして。
首が。
ゆっくり。
こちらを向いた。
皮膚のない顔。
眼窩の穴。
その暗闇の奥で。
ぎち。
何かが、笑った。
「下がってください!!」
坂東が叫ぶ。
その瞬間。
部屋の天井裏を。
どたどたどたどたどたっ!!
何十匹もの足音が走った。
犬。
いや。
犬ではない。
重すぎる。
大きすぎる。
家全体が揺れる。
腐った木材が悲鳴を上げる。
そして。
森が。
突然、鳴いた。
ウォォォォォォォォォン……
遠く。
山の奥。
犬の遠吠え。
ひとつじゃない。
二つ。
三つ。
十。
何十。
何百。
山全体から響いてくる。
その声に混じって。
人間の声が、聞こえた。
泣いている。
笑っている。
助けを呼んでいる。
「お嬢、走って!!」
坂東がわたくしの腕を掴む。
その瞬間。
若手陰陽師の口が。
ばき。
縦に裂けた。
耳元まで。
裂けた口の奥。
喉の奥。
そこに。
犬の顔が、詰まっていた。
濡れた犬。
皮膚の剥がれた犬。
白い目をした犬。
それが。
人間の喉の奥から。
ゆっくり、こちらを覗いていた。
そして——
笑った。
「——ッ!!」
呼吸が、止まる。
犬の顔が。
喉の奥から、ゆっくり、せり上がってくる。
ぐちゅ。
ぐちゅ。
肉を押し広げながら。
若手陰陽師の裂けた顎が、さらに左右へ開く。
人間の口では、ありえない角度。
骨が、ばきばき、と割れていく。
なのに、その死体は、まだ胡坐をかいたまま。
座っている。
まるで。
何十年も、そこに座って、『待っていた』みたいに。
「お嬢!!」
坂東の声。
けれど、わたくしの耳には、もう遠かった。
森が、鳴いていた。
さっきまで、死んだみたいに静かだった森。
なのに今は。
ざわ。
ざわざわ。
ざわざわざわざわ。
風もないのに、木々が揺れている。
葉が擦れる。
枝が鳴る。
そして。
どこかで、水の流れる音がする。
ごぼ。
ごぼごぼ。
ごぼごぼごぼ。
井戸。
暗い井戸の底で、何か巨大なものが呼吸しているみたいな音。
その音に混じって。
犬の遠吠え。
女の泣き声。
子供の笑い声。
全部が、山の中で混ざり合っていた。
「……ぁ」
視界が、歪む。
若手陰陽師の眼窩。
その暗闇の奥。
そこに、無数の目があった。
犬の目。
人の目。
濡れた目。
腐った目。
それが全部、ぎっしりと、こちらを見ている。
見てる。
見てる。
見てる。
その瞬間。
わたくしの頭の中へ。
声が、流れ込んできた。
『イタイ』
女の声。
『タスケテ』
子供。
『ミズ』
老人。
『クルシイ』
男。
『カエレナイ』
『クサイ』
『アツイ』
『クライ』
『イヤダ』
『イヤダイヤダイヤダ』
声が、増える。
何十。
何百。
頭の内側で、死人たちが喚き始める。
「や……っ」
耳を塞いだ。
でも、意味がない。
声は、頭の中から聞こえている。
若手陰陽師の死体が、ゆっくり立ち上がる。
ぐき。
ぐしゃ。
骨が折れる。
膝が逆方向に曲がる。
腕が異常に伸びる。
そして。
その死体の腹が。
ぼこん、と膨らんだ。
「……え?」
腹の皮膚の下。
何かが、動いている。
犬。
何匹も。
腹の中を、走り回っている。
皮膚の下で。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
骨の内側を、犬が這っている。
そして。
腹が、裂けた。
ぶち。
黒い水が、畳へ溢れる。
腐臭が爆発する。
胃液。
血。
泥。
犬の毛。
人間の髪。
その全部が混ざった液体。
そこから。
犬の頭が、ひとつ、出てきた。
次。
また、ひとつ。
また、ひとつ。
「っ、ぁ……!」
膝から、力が抜ける。
身体が、冷たい。
なのに汗が止まらない。
額から。
首から。
背中から。
氷みたいな汗が噴き出す。
呼吸が、できない。
肺が、動かない。
視界の端が、黒く染まり始める。
まずい。
逃げないと。
立って。
立ちなさい。
でも、脚が、自分のものじゃなかった。
震えている。
立てない。
その時。
若手陰陽師の、眼窩の奥。
そこにいた『何か』が。
ぬるり、と顔を出した。
犬。
いや。
犬じゃない。
顔だけが犬。
でも、その首の下には、人間の赤ん坊みたいな肉が続いていた。
濡れている。
皮膚が半分溶けている。
それが。
わたくしを見て。
にたぁ、と笑った。
その瞬間。
下腹が、ひゅっ、と冷えた。
「あ……」
力が抜ける。
スカートの奥が、熱くなった。
じわ。
温かい液体が、脚を伝う。
え。
え?
うそ。
失禁。
恐怖で。
身体が、勝手に。
「……っ」
羞恥が、遅れて襲ってくる。
けれど、それ以上に。
恐怖が、巨大だった。
犬の赤子が。
喉を鳴らした。
かた。
かたかた。
かたかたかた。
それは、笑い声だった。
次の瞬間。
視界が、真っ黒になった。
身体が、崩れる。
遠くで、坂東の声。
「お嬢!!」
でも。
もう、聞こえなかった。
最後に見えたのは。
若手陰陽師の裂けた腹から。
何匹もの犬が。
ずる。
ずるずる。
這い出してくる光景だった。
そして——
その犬たちの目が。
全部。
わたくしのお父様と、同じ目をしていた。
◆◇
「お嬢」
え?
え?
「お嬢、お嬢」
あ。
坂東先生の、声。
あれ?
わたくし、いま、何を?
「お嬢、目を、開けてください」
「……?」
ゆっくり目を開けた。
天井が、見えた。
天井?
え?
わたくし、立っていた、はず?
「お嬢、ここは廃村の外、です」
「えっ?」
「鳥居の、外、です」
「えっ?」
「私が、お嬢を抱えて、運びました」
「えっ?」
え。
え?
わたくし、抱えられて、運ばれた?
混乱した。
いつ?
どうやって?
わたくし、最後に、覚えているのは——
若手陰陽師の腹から、犬が出てきて——
犬の顔が、お父様と、同じ目をしていて——
それから——
記憶が、ない。
わたくし、気を、失った?
失神した?
その、瞬間。
自分の下半身に違和感を覚えた。
あ。
温かい?
えっ?
セーラー服の、スカートの、下。
そこが、温かく、湿っていた。
冷静に、考えようとする。
──分析、ですわ。
──温度、約三十六度。
──湿度、高い。
──臭い——
そこで、思考が、止まった。
鉄ではない。
腐臭でもない。
もっと、近しい、別の臭い。
──アンモニア。
その単語が、頭に浮かんだ瞬間。
冷たいものが、頬を伝った。
──失禁。
──そう、ですのね。
──わたくしの、お役目の現場で。
──最後の記憶の、直前、か。
──気を失った、その、間に。
そう、推理が、まとまった。
まとまってしまった。
──……分析、終わり。
──結論、出ましたわ。
涙が、ぼたぼたと、流れた。
──みっともない。
──お母様。
──わたくし、お母様の、娘なのに。
──失神して、失禁して。
──こんな、ことで。
「お嬢」
坂東の声が、低く優しく響いた。
「お嬢、聞いて、ください」
「……はい」
「失神は、生理現象、です」
「はい」
坂東先生の声は、いつもより、ずっと、ゆっくりだった。
「あれを見て失神しなかったら、それは人間では、ありません」
「……はい」
「お父上も、初めてのご依頼の時、失神なさいました」
「えっ?」
え?
お父様も?
「ええ。私は、お父上の付き添いでしたから、見ました」
「……お父様、が」
「お父上は、若手陰陽師のお役目で、初めて即死体をご覧になって——」
「ええ」
坂東先生は、淡々と、続けた。
「失神なさって、それから嘔吐、なさって——」
「ええ」
「失禁、なさいました」
え。
お父様も?
お父様も、失禁、なさったの?
あの、お父様が?
「お嬢、これは恥では、ありません」
「……はい」
「霊的なお役目の現場では、失神も嘔吐も、失禁も起こります」
「はい」
ひとつずつ、胸の奥へ、落ちてくる。
「身体の、正常な防御反応です」
「はい」
「気を失わなかったら、お嬢の心が、壊れていたかもしれません」
「……そう、なのですか」
「身体が、お嬢を、守ったのです」
身体が、わたくしを、守った。
失神も、失禁も、わたくしを守るため。
そう、思えば——
少し、楽に、なる。
ゆっくり息を吐いた。
「先生」
「はい」
「ありがとう、ございます」
「いえ」
「あの、お父様のお話、本当ですの?」
「ええ。本当です」
ふっと、肩の力が、すこし抜けた。
「お父様、わたくしに絶対おっしゃらないですわ、それ」
「ええ。父親として、娘に言いにくい、でしょう」
「ですよね」
お父様、ね、優しいですわ。
わたくしのため、と思って、言わなかったのね。
でも、坂東先生が教えてくださって、ありがとうですわ。
わたくし、ひとりじゃ、ない。
お父様も、通った、道。
そう、思えば——
少し立ち直れる気が、しますわ。
ゆっくり、起き上がった。
下半身は、温かく、湿っていた。
不快。
でも、生きている、証。
わたくし、生きてる。
あれを見て、生きて戻ってきた。
それだけで、十分、ですわ。
「先生、お着替え、持ってますわ」
「ええ」
「車に戻って、お着替えしますわ」
「ええ。私は、外に、いますので」
「はい」
坂東先生は、すこし、目をそらした。
「お嬢」
「はい?」
「ご無理は、なさらず」
「はい」
坂東先生、優しい、ですわ。
そして、車へ向かった。
レンタカーで、下半身を、着替える。
予備のスカートと、下着。
田中が、リュックに入れてくれていた。
田中、ね、こういう時のことを想定してくれていたのね。
田中、二十年、大津家に仕えてきた人。
お母様のご出立の時にも、こういう想定をしていたのかも、しれない。
お母様も、初めてのお役目で、失禁なさったのかしら。
そう、ふと、思った。
着替えながら、また少し泣いた。
でも、もう、大丈夫。
そう、自分に、言い聞かせた。
そして、車を出た。
外の坂東のところへ、戻った。
「先生、参りますわ」
「お嬢、本当に、よろしいですか」
「はい」
「廃村の奥は、もっとひどい可能性が、あります」
「はい」
坂東先生は、ひとつずつ、確かめるように言う。
「もう一度、失神するかも、しれません」
「はい」
「失禁も嘔吐も、またあるかも、しれません」
「はい」
それでも、退く気は、なかった。
「それでも、行きますか」
「行きます」
「……承知、いたしました」
わたくし、もう覚悟を決めましたわ。
失神も失禁も嘔吐も、わたくしの生理現象。
わたくしの身体が、わたくしを守ってくれている証。
だから、もう、恐れない。
そして、廃村の奥に進む。
増援の、ベテランの方を、待つ。
犬神大明神を、救済か、封印。
美咲さんの、捜索。
ぜんぶ、やる。
わたくしの、お役目、ですもの。
そして、坂東の後ろを歩き始めた。
家屋の、戸を、振り返った。
戸の、向こうから、
カタ。
カタ、カタ。
カタ、カタ、カタ。
何か、音が、聞こえた。
「先生……」
「聞こえました」
「あれ、動いて、ますわ」
「ええ」
戸の奥の音は、止まらない。
「立ち上がっているような、音」
「ええ」
「先生、追いかけて、来ますか?」
「結界札が、効いている、はずです」
はず、なのですわね。
「もし、効かなかったら?」
「逃げます」
うん、当然逃げる、ですわね。
そう思いながら、走った。
坂東も、走った。
ふたりは、廃村の奥へ、奥へと進んだ。
そして、その奥に——
神社があった。
Part 4 ——犬神神社
廃村の北側。
山肌を削るようにして、高台があった。
その頂上に。
神社があった。
朽ち果てた石段。
崩れた灯籠。
縄の切れた鳥居。
そして、その奥。
半壊した社が、夏の蔦に呑み込まれている。
まるで森そのものが、社をゆっくり食っているみたいだった。
犬神神社。
犬神大明神の、社。
守護神様の、お住まい。
いえ。
もう、違いますわね。
石段の下で立ち止まった。
空気が、違う。
さっきまでの廃村とは、比較にならない。
冷たい。
山の冷気ではない。
井戸の底から吹き上がるような、湿った冷たさ。
肌が、刺されるように痛む。
それは、温度というより、霊脈の重さだった。
千年、いや、もっと古い。
ここに、何かがずっと、いる。
そして——
しかも。
臭う。
血。
腐った血。
古い血。
そして、新しい血。
それが、水の匂いに混ざっている。
湿った木。
泥。
腐肉。
濡れた獣。
全部が混ざり合って、肺へ入り込んでくる。
「先生……血の匂い、しますわ」
「ええ」
坂東の声が低い。
いつもより、ずっと。
「古い血と……新しい血、両方です」
喉が、小さく鳴る。
新しい血。
つまり。
最近、ここで、誰かが。
そこまで考えて。
視界の端で、何かが動いた。
石段の上。
赤茶色の染み。
最初、血痕だと思った。
でも。
違う。
ゆっくり。
じわり。
それは、石段を『流れて』いた。
「……え?」
血。
黒ずんだ血が。
石の隙間を、生き物みたいに這っている。
意思を、持っているように。
ぽた。
上から、水滴が落ちる。
見上げた。
木々。
その枝の隙間から。
何か白いものが、ぶら下がっていた。
細長い。
濡れている。
風もないのに、ゆらゆら揺れている。
髪。
人間の髪だった。
長い黒髪が、木から垂れている。
その先。
枝の奥。
暗闇の中で。
何かが、逆さに吊られていた。
「……ッ」
目を逸らした。
見たくなかった。
本能が拒絶した。
でも。
遅かった。
逆さの『それ』が。
ぎり。
首を回した。
「お嬢」
坂東が前へ出る。
わたくしの肩を掴む。
「見ないでください」
けれど。
もう見えてしまっていた。
女。
顔の半分が、なかった。
犬に食われたみたいに。
片目だけが残っている。
その片目が。
じぃ、とわたくしを見ていた。
しかも。
笑っていた。
歓迎、でも、ない。
哀しみ、でも、ない。
ただ、ぞっとするほど、嬉しそうに。
誰か来た、と。
そう、笑っているみたいに。
「行きます」
坂東が低く言う。
「お嬢、私の後ろから、離れないでください」
「ええ」
「目を、合わせないでください」
「ええ」
「呼ばれても、返事をしないでください」
「ええ」
その指示の一つ一つが、不対特異班の禁則とぴたりと、重なる。
お父様の御札を、胸元で握りしめた。
紙の温もりが、まだ、残っていた。
──お父様。
──ちゃんと、お父様の御札、効いていますわ。
ふたりは石段を登り始めた。
一段。
また一段。
石段は、濡れていた。
水。
いや。
血が混ざっている。
靴裏が、ぬるり、と滑る。
そのたび。
下から。
ごぼ。
ごぼごぼ。
水音が聞こえた。
石段の下。
地面の奥。
山の内部。
そこに、巨大な水溜まりがあるみたいだった。
そして。
その水の中で。
何かが動いている。
「……先生」
「ええ」
「下から……何か、聞こえます」
「聞こえています」
坂東の顔が険しい。
額に汗。
でも、その汗は冷たそうだった。
──坂東先生も、怯えていらっしゃる。
──お父様の右腕、と呼ばれる先生が。
──二十年以上、お父様の元で修練を積まれた方が。
そう思うと、足が、止まりそうになる。
それでも、登った。
お父様の御札の重みが、背中を押した。
上へ着く。
社の前。
そこに。
狛犬があった。
いや。
『残骸』だった。
頭が、ない。
二体とも。
首から上だけ、砕き潰されている。
しかも。
断面が新しい。
最近、壊されたみたいに。
「先生……」
「ええ」
「最近です」
背筋が冷える。
──犬神大明神を守るはずの、狛犬。
──それが、壊されている。
──壊したのは、犬神大明神、ご自身。
──守護神様が、ご自分の社を、ご自分で。
その時。
かり。
音がした。
社の中から。
小さな音。
犬が床を引っ掻くみたいな音。
かり。
かりかりかり。
かりかりかりかり。
息を止めた。
暗闇。
社の奥。
そこから。
何かが、這っている。
音だけでわかる。
濡れた腹を引きずって。
ゆっくり。
こちらへ。
「結界を」
坂東が札を撒く。
四方へ。
紙が淡く光る。
七枚の札が、地に落ちる前に、空中で円を描いた。
──坂東先生の、七陣。
──得意の、最強の、お守り。
──十分は、保ちますもの。
その瞬間。
社の奥で。
『何か』が止まった。
静寂。
山も。
森も。
水音すら止まる。
世界から音が消える。
そして。
気づいた。
臭いが、変わった。
腐臭ではない。
もっと新しい臭い。
鉄。
内臓。
裂いたばかりの肉。
新しい血。
いま。
ここで。
ぞわ。
首筋に、息がかかった。
凍る。
背後。
誰かいる。
でも、振り向けない。
振り向いたら、終わる。
本能が、そう叫んでいた。
「……先生」
坂東も、動かない。
ゆっくり。
坂東の視線だけが、わたくしの後ろを見ている。
その顔から、血の気が消えていた。
理解する。
いる。
後ろに。
その時。
耳元で。
濡れた声がした。
『かえして』
女の声。
腐った水が喉に詰まったみたいな声。
『わたしの、こども』
呼吸が止まる。
『いぬに、たべられた』
ぽた。
肩に、水滴が落ちる。
生ぬるい。
臭い。
恐る恐る視線を落とす。
黒い髪。
女の髪が。
わたくしの肩へ垂れていた。
1981年の。
お母様。
子供を失った。
お母様の、お声。
そう、わかった瞬間。
胸の奥が、ぎゅっ、と痛んだ。
それは、恐怖だけではない、悲しみだった。
──この方。
──子供を、犬神様に、食べられた方。
──そして、ご自身も、生き残れずに——
──ここで、こうして、吊られて、
──二十三年。
──ずっと、視つづけてこられた。
──ご自分の、お子様が、戻らないのを。
──ずっと。
──ずっと。
──たった、おひとりで。
その想像が、頭に流れ込んできた瞬間。
涙が、勝手に目の縁に、滲んだ。
──わたくしの、お母様も。
──子供のため、命を、賭けて。
──戻ら、なかった。
──沖縄の、空の上で。
──わたくしが、二歳の、ときに。
──「お母様、ばいばいー」と、お見送り申し上げて。
──それが、最後だった。
ご遺体は、戻らなかった。
機体が、海へ落ちた、と聞いた。
幼すぎて、わからなかった。
「お母様は、お役目で、お亡くなりになられました」
お父様が、わたくしにそう、おっしゃったのは——
わたくしが、五歳の、とき。
その時のお父様の、お顔。
涙を、こらえていらした。
それを、覚えている。
──だから。
──この方の、お気持ちが、わかる気がする。
──子を、守れなかった方。
──ご遺体も、戻らない方。
──たった、おひとりで、二十三年。
胸の奥が、ぎゅう、と縛られた。
これは、犬神大明神の幻覚かもしれない。
霊力の、漏れかもしれない。
呪具の作用かもしれない。
それでも、目の前のこの方の、悲しみだけは——
本物の気がした。
「——ッ!!」
その瞬間。
社の奥で。
どん。
何か巨大なものが、立ち上がった。
床板が、悲鳴のように軋む。
空気が、ぎちり、と歪む。
──結界札が、震えた。
──坂東先生の、最強の七陣が。
──震えた。
指先から、感覚が消えた。
冷たい、というのとは違う。
血が、引いていない。
引く時間すら、与えられなかった。
──体が、止まる。
──呼吸も、止まる。
──思考も、止まる。
ただ、心臓だけが。
どく、どく、どく、と。
胸の中で、暴れた。
──分析、ですわ。
そう、自分に言い聞かせようとした。
声に、ならなかった。
口の中が、乾いていた。
舌が、上顎に、貼りついていた。
次の瞬間。
山中から。
遠吠え。
ウォォォォォォォォォォォン!!!
ひとつじゃない。
百。
千。
山全体が、犬の声で鳴いた。
──犬神大明神の、お眷属。
──全部、お怒り。
声、ではない。
音、でもない。
それは、空気そのものが、震えていた。
肋骨の内側を、その振動が、撫でていく。
体の中の、水分が、逆立つ。
──……これ。
──これが。
──「神」の、本気。
──「祟り神」の、ご本気。
そう、推理が、まとまった。
まとまる前に、すでに体が、知っていた。
社の奥。
闇の中で。
何か巨大な影が、ゆっくり動く。
四足。
いや。
途中から、人間の腕が何本も生えている。
濡れている。
毛が、抜け落ちている。
その胴体の途中に。
人間の顔が、何個も埋まっていた。
泣いている顔。
笑っている顔。
助けを求める顔。
──1981年の、村人。
──皆様、犬神大明神に、吸い込まれて。
──神様の、お体の一部に、なってしまわれた。
その全部が。
わたくしを見た。
ひとつの目ではない。
何十、何百もの、目。
ひとつの瞳孔が、ひとつの命だった、ことを示していた。
その全部が。
同時に、口を開いた。
『ミツケタ』
──新しい、贄を。
その声は、頭蓋の内側で、直接響いた。
耳を、通っていなかった。
──……、これは、声ですらない、ですわ。
──意思が、直接わたくしの脳に、流れ込んできている。
──距離、関係なし。
──遮蔽物、関係なし。
──結界札も、無意味、ということ。
──つまり——
──こちらは、もう、視られている。
──視られた瞬間に、終わる、種類の存在。
──そう、いう、格。
膝の力が、消えた。
立っていられない、というのとは違う。
立つ、という行為が、頭から消えた。
倒れる、という行為さえ、思いつかなかった。
ただ、その場で、固まった。
固まった、まま、視た。
結界札が。
ばちん!!
火花を散らした。
──保ちません。
──坂東先生のお力では、抑えきれない格。
──格が、違いすぎますわ。
──「視られた瞬間に、終わる」、ということ。
──わたくしも。
──坂東先生も。
「伏せてください!!」
坂東の声が、結界札の火花の中で、響いた。
その声で、ようやく体が動いた。
膝が、勝手に、地面へ折れる。
倒れた、というより、折りたたまれた。
その瞬間。
社の奥から。
黒い水が、津波みたいに溢れた。
水の中に、何百もの、人の顔。
何百もの、犬の顔。
何百もの、目。
全部が、こちらを、見ていた。
津波が、頭の上を、越えていく。
冷たい。
獣臭い。
腐臭。
血。
呼吸が、できない。
口を開けば、水が、入る。
開けなくても、皮膚から、染みてくる気がした。
──ああ。
──わたくし、ここで、死にますのね。
その理解は、不思議と静かに、来た。
恐怖が、限界を超えた、と思う。
超えた先には、もう震えも震えない、平坦な底があった。
──お父様。
──お母様。
──兄様、弟たち。
──田中。
──ごめんなさい。
──わたくし、お役目を、果たせず——
──ここで——
その瞬間。
ふっと、空が、震えた気がした。
津波の、向こう、遥か上空。
何かが、滞空している、気配。
──遠く、上空。
──呪式ドローン《ホオリ》。
──別班の方々が、観測しておられる。
その気配を感じた瞬間、奇妙な気持ちになった。
絶望、ではない。
孤独、でも、ない。
ただ、冷静な、ひとつの認識だった。
──視ておられる。
──でも、それは、ただ「視ている」だけ。
──助けには、来ない。
──来られない。
──犬神大明神の、ご本気の前では、皆様無力。
──そのために、装備の限界が、ある。
──そのために、弾薬の限界も、ある。
──そのために、人間の限界が、ある。
──ということは——
──ここに、いま、立てるのは。
──ここで、いま、動けるのは。
──……わたくし、しか、いない。
その推理が、頭の中で、まとまった瞬間。
不思議なことに、震えが、止まった。
止まった、というより——
震えに、意味が、なくなった。
震えても、震えなくても、
立っても、倒れても、
どちらにせよ。
「わたくし」しか、いない。
ここで、動ける者は。
──兄様も、弟たちも、まだ未熟。
──お父様も、ぎっくり腰。
──お母様は、いない。
──だから、わたくし。
──わたくしが。
ゆっくり両手を、地面についた。
そして、ゆっくり、立ち上がった。
倒されていた膝が、震えながら、伸びた。
足が、地面を、捉える。
頭が、上がる。
その時に、ようやく、わかった。
──お父様も、こうして、立たれたのね。
──若手陰陽師の、お役目の現場で。
──失神し、嘔吐し、失禁して——
──それでも、立ち上がられた。
──こういう、ことなのね。
桃木剣の柄を、ぎゅ、と握る。
桃の木が、淡く、温かかった。
胸元のお父様の御札が、淡く温かく、光った。
──お父様の、お祈り。
──御札の紙の繊維の一本ずつに、染み込んでいる、お父様の心。
──今朝、ぎっくり腰のまま書いてくださった、お祈り。
──「娘を、護れ」、と。
──「娘を、生きて帰せ」、と。
──そう書いてくださった、お父様の心。
涙が、滲んだ。
でも、ぼたぼた、とはこぼれなかった。
涙の代わりに、奥歯を、ぎゅ、と、噛んだ。
「坂東先生」
「お嬢、いけません——」
「いえ」
わたくしの声が、いつもよりずっと低かった。
「いけません、ではないんですの」
「これは、わたくしの、お役目ですもの」
その声には、十七歳の少女ではない、何かもっと古いものが、混じっていた。
──家を継ぐ、ということ。
──こういうことなのですわね、お父様。
そして、津波のような黒い水へ踏み出した。
膝は、まだ、震えていた。
それでも、足は、前へと出た。
陰陽師の足というのは、もしかしたら、こういうものなのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
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