廃村に、入る
**第4話 ——廃村に、入る**
【前回までのあらすじ】
ヘリと県警の車で、真琴と坂東先生は犬神村の鳥居の前に到着した。
【今話の見どころ】
廃村への侵入。
朽ちた家屋。
そして——どこかで水が落ちる音。
少し短めの話数ですが、引きが強烈です。
それでは、本編をお楽しみください。
Part 1 ——半分、還りかけた村
午前九時。
県警の黒塗りの車が、林道の終わりで止まった。
ヘリポートから三十分。
途中、人家らしいものは、もう数キロ前から見えなかった。
「ここまでです」
運転手が、静かに告げる。
「これより先は、車では入れません」
「ご苦労様ですわ」
「よろしく頼む」
わたくしと坂東は、後部座席から降りる。
足が地面についた瞬間——
ふっと、空気の質が、変わった。
森の奥から、湿った空気が流れてくる。
夏のはずなのに、肌寒い。
そして、独特の臭い。
腐った草の匂いとも、土の匂いとも違う。
何か、生々しい——獣のような臭い。
「お嬢」
「はい」
「ここからは、お役目です」
「ええ」
深く頷いた。
「参りますわ」
県警の運転手は、車に戻る前にふと振り返った。
「お嬢様」
「はい」
「我々は、ここで待機しております」
「ええ」
「もし、ご無事に戻られなかった時は——」
少し、間が空いた。
「ご家族へ、ご連絡を」
その言葉に、ふっと笑った。
普段の、お嬢様の笑顔ではなかった。
もう少し、深い、静かな笑み。
「ありがとうございます」
「でも、心配ご無用、ですわ」
「わたくしは、必ず、戻りますもの」
その声に、運転手は、深く頭を下げた。
──県警の不対特異班。
──正式名は、教えてくださらない。
──けれど、この方も、わたくしと同じ世界の人。
「行って参ります」
「ご武運を」
車のドアが、静かに閉じる。
エンジンの音が、すぐに遠ざかっていく。
そして、また、静寂。
わたくしと坂東は、林道の奥を見つめた。
道の向こうに、鳥居が立っていた。
朱の色は、もう完全に剥げ落ちている。
木そのものの色。
灰色がかった、古い、古い木の色。
その鳥居の奥が——
森。
ただ、森。
けれど、ふつうの森ではない。
「お嬢」
「はい」
「外周には、自衛隊が——」
「ええ」
「結界発生器を、設置していると」
鳥居の奥の、ただ黒いだけの森へ、目を向ける。
「左様、ですか」
「百メートル先まで」
「……」
「それ以上は、入っていません」
その意味を、静かに受け止めた。
──自衛隊の方々も、ここから先は、入れない。
──いえ、入っても、意味がない。
──犬神大明神の前では、結界も銃も、効きませんもの。
「先生」
「はい」
「行きましょう」
坂東先生は、すぐには、動かなかった。
「お嬢」
「はい」
「最後に、もう一つ」
坂東は、リュックから、小さな御札を取り出した。
「お父上から、預かりました」
「お父様の?」
「ええ」
その御札は、わたくしがいつも持っている結界札とは、別物だった。
紙が、新しい。
墨の香りが、まだ、している。
「今朝、お父上が、書かれたものです」
「昨晩、では?」
「ええ」
「ぎっくり腰のまま、お書きになりました」
あの腰で、筆を執られたのですわ。
「お嬢に、必ずお渡しせよ、と」
その御札を受け取った。
紙の重みが、不思議なほど、重く感じられた。
──お父様。
──腰を痛めていらっしゃるのに。
──こんな、わたくしのために。
「ありがとうございます」
御札を、胸元のセーラー服の内側へそっとしまう。
布の内側に織り込まれた呪と御札の呪が、淡く響き合う気配がした。
「では」
「はい」
二人は、ゆっくりと、鳥居をくぐった。
──ここから先は、もう、別の世界。
──戻る時は、わたくしたち、二人で戻りますもの。
そう心の中で、強く誓った。
「ええ——」
まず、『静けさ』を感じた。
ただ静かなのではない。
音が、死んでいた。
夏山であるはずなのに、蝉が鳴いていない。
鳥もいない。
羽虫の震えるような羽音さえ、どこにもない。
風すら、森の中へ入るのを拒まれているようだった。
ただ、自分たちの足音だけが、湿った土の上で、ぼそ、ぼそ、と鈍く返ってくる。
その音が妙に生々しくて、無意識に呼吸を浅くした。
異界、というほどではない。
そう思う。
けれど、正常な世界でもない。
現実から、半歩だけ外れている。
たった半歩。
だが、その半歩のずれが、人間を戻れなくする。
森は深かった。
枝葉が空を覆い、昼だというのに薄暗い。
湿った空気が肌へ貼りつく。
その湿気の奥に、別の臭いが混じっていた。
獣の臭い。
しかも、生きた獣ではない。
腐った獣の臭いだった。
濡れた毛皮が泥に沈み、腹を裂かれ、内臓が夏の熱で膨らみきったような臭い。
古い血と腐肉が、水に溶けた臭い。
その瞬間。
足が、勝手に止まっていた。
──え。
止まろうとして、止まったのではない。
止まったあとで、自分が止まったことに、気づいた。
膝が、笑っていた。
太腿の裏が、震えていた。
夏なのに、首筋に、冷たいものが伝う。
汗、ではない、何か。
呼吸が浅くなる。
吸っても、吸っても、肺の奥まで届かない。
……分析、ですわ。
そう、自分に言い聞かせた。
恐怖を、認識から外す。
恐怖を、観察対象に、変える。
──臭いの種類は、三つ。
目を閉じた。
閉じた方が、嗅覚が、研ぎ澄まされる。
幼い頃、お父様に教わった。
──ひとつ目、獣の腐臭。
──ふたつ目、古い血の臭い。
──みっつ目——
──人間の、油の臭い。
その三つ目に気づいた瞬間、また膝が、震えた。
──いえ。
──震えても、いいんですの。
──震えながら、考えればよろしいの。
そう、心の中で、自分を立て直す。
──臭いの濃度は、夏の獣の腐臭としては、強すぎますわ。
──風上は、奥。
──つまり、奥に複数の死骸が、ある。
──視認できる範囲には、ない。
──ということは、屋内か、土の下か。
──いえ。
──廃村ですもの。
──屋内の可能性が、高いですわね。
そこまで考えて、目を開けた。
論理が、恐怖を少しだけ、押し返した。
押し返した、けれど——
膝の震えは、止まらなかった。
「お嬢」
坂東の声が、低かった。
それも、いつもよりもう一段、低かった。
「お嬢、立てますか」
立てます、と答えようとした。
声が、出なかった。
ようやく出たのは、息だけだった。
「は、い」
斜め前を歩いていた坂東が、ふと、振り返る。
その顔を見て、背中が、また、ぞくり、と震えた。
坂東先生が——
汗を、かいていた。
額に。
こめかみに。
首筋に。
夏の汗、ではない。
冷たい、別の汗。
その目の奥に、いつもの穏やかさが、ない。
何かを、見極めようとしている目。
戦の経験のある、人の、目。
……分析、ですわ。
また、自分に言い聞かせる。
──坂東先生が、ご緊張なさっている。
──お父様の右腕、と、お館様も仰っていた先生が。
──二十年以上、お父様の元で、修練を積まれた方が。
──ということは、奥に「在る」ものは——
──坂東先生の、力を以ってしても、油断できない格。
そこまで論理を組み立てて、また震えた。
論理が、恐怖を、強化してしまったのだ。
──失敗、ですわ。
膝が、笑う。
逃げたい。
帰りたい。
田中が、待っている。
お父様も、待っている。
──いえ。
奥歯を、噛んだ。
奥歯が、かちん、と鳴った。
幼い頃に、お父様について山のお役目で、何度か嗅いだ臭い。
このくらいでは、お父様は止まらなかった。
止まることは、お父様の役目を、止めること。
──家を、止めること。
止まることは、許されない。
震えながら、進めばよろしいの。
そう、自分に言い聞かせた。
恐怖が消えないなら、恐怖ごと、引きずって行く。
陰陽師の足というのは、もしかしたら、そういうものなのかもしれない。
「先生」
声が、まだ、震えていた。
「奥に、複数、ございますわね」
「ええ」
「人間の、臭いも、致しますわ」
「……お気づきでしたか」
坂東先生の声が、ほんの少し、硬い。
「ええ」
「参りましょう」
「……ええ」
短いやり取り。
坂東は、すぐには、足を出さなかった。
ほんの一瞬、わたくしの顔を、見ていた。
何かを、確かめるように。
そして、ほんの少しだけ、顎を引いた。
濃紺のスーツの背中が、ふたたび、わたくしの前に立つ。
その背中が、いつもよりわずかに、硬かった。
二人は、鳥居の先の細道を進む。
地面にはぬかるんだ黒い水が溜まり、踏むたびに、ぢゅ、と嫌な音を立てた。
その水は妙に冷たい。
夏の山水の冷たさではない。
井戸の底に長年沈んでいたものに触れたような冷たさだった。
森の奥から、ときおり、水音が聞こえる。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
何かが、水の中へ落ちる音。
けれど振り向いても、そこには誰もいない。
見ないようにして歩いた。
しばらく進むと、視界が開けた。
あ。
村だった。
谷間の平地に、崩れた家々が点在している。
八戸。
十戸。
いや、それより少ないかもしれない。
家々は、ほとんど腐っていた。
屋根は崩れ落ち、柱は黒く湿り、壁には蔦が這い回っている。
だが——
おかしい。
二十三年放置された程度の崩れ方ではない。
もっと古い。
もっと長い。
まるで百年、雨に打たれ続けたような朽ち方だった。
木材は黒ずみ、腐った梁には白い菌糸がびっしり絡みついている。
床下には黒い水が溜まり、その水面に油のような膜が揺れていた。
その臭いが、また酷かった。
獣が腐った臭い。
泥水に沈んだ肉の臭い。
長い時間、水の底で膨らみ続けた死体の臭い。
思わず袖口を口元へ寄せた。
臭い。
これ、人の住む場所じゃありませんわ。
「お嬢」
坂東が低く言う。
「家屋の劣化が異常です」
「ええ……」
頷いた。
「異界化が進行しています」
「時間の流れが違う、ということですの?」
「ええ。内部だけ、時間が加速している可能性が高い」
崩れた家々を見つめた。
村そのものが、腐りながら沈んでいる。
世界から切り離され、ゆっくり静かに、別の場所へ落ち続けている。
その時だった。
ちゃぷん。
水音。
振り返った。
家と家の間。
黒い水溜まり。
その水面が、ゆらり、と揺れていた。
何かがいた。
黒い。
低い。
獣のような影。
だが次の瞬間には、もう消えている。
「っ——」
背筋が総毛立った。
「先生」
「ええ」
「今、見えましたわ」
坂東の目が細くなる。
「何を」
「……犬、みたいな」
その瞬間。
村の奥から。
ぐちゅ。
と、何か湿った音がした。
肉を踏み潰したような音。
それに続いて。
ずる、ずる、ずる。
何かを引きずる音。
息を止める。
坂東も動かない。
音だけが近づいてくる。
ずる。
ずる。
水を掻く音。
湿った毛が地面を擦る音。
けれど、何も見えない。
なのに臭いだけが強くなる。
腐臭。
濡れた獣臭。
腐った犬の腹を裂いたような臭い。
胃がきり、と縮んだ。
いる。
絶対、いる。
でも、見えない。
その時。
最初の家屋の戸口の奥で、何か白いものが動いた。
ふわり。
人影のようにも見えた。
濡れた犬の腹のようにも見えた。
「……!」
反射的に結界札を取り出した。
札を戸口へ貼る。
ぱち、と小さな火花のような光が散った。
その瞬間。
家の奥から。
クゥゥゥゥ……
低い唸り声が響いた。
犬だった。
だが、普通の犬の声ではない。
喉の奥が腐り、水に濡れたような、ぶくぶくした声。
まるで肺の中に泥水でも詰まっているみたいな声だった。
首筋を冷たい汗が流れる。
「先生」
「ええ」
「いますわ」
坂東は静かに桃木剣へ手をかけた。
「お嬢。後ろへ」
「いえ」
首を振る。
恐怖で膝が震えている。
それでも、目だけは戸口から逸らさなかった。
「先生より、わたくしのほうが、視えますもの」
──陰陽師の霊視。
──坂東先生は、輪郭まで。
──わたくしは、その奥に、何があるかまで。
──だから、先に見つけたほうが、先に動けますの。
そう、平静を装って、口にした。
声は、まだ少し、震えていた。
坂東の喉が、わずかに動く。
「……お嬢」
「だいじょうぶですわ」
「震えていらっしゃる」
「ええ」
「でも、視えていますもの」
戸口の奥。
暗闇の中。
そこに、いた。
四足。
濡れた毛。
異様に長い前脚。
そして——
人間みたいな白い歯だけが、暗闇の中でぬらりと浮かんでいた。
その口から、黒い水が、ぽたり、ぽたり、と畳へ落ち続けていた。
Part 2 ——畳の、人の形
家の中は、暗かった。
ただ暗いのではない。
湿っていた。
空気そのものが、長いあいだ陽を浴びていないような、冷たく濁った湿気を含んでいる。
床板は水を吸って黒く膨れ、畳は腐り、壁紙は垂れ下がっていた。
どこかで、水が落ちる音がする。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
その音だけが、家の奥から静かに響いていた。
「お嬢」
「……ええ」
上がり框を跨ぎ、家の中へ足を踏み入れる。
その瞬間。
腐臭が、濃くなった。
獣の臭いだった。
濡れた毛皮。
腐った腹。
泥水に沈んだ肉。
しかも新しい臭いではない。
何十年も床下で腐り続けたものが、湿気と一緒に滲み出している臭い。
思わず眉を寄せた。
臭う。
この家、まだ、『いる』。
居間があった。
古いちゃぶ台。
倒れた茶碗。
腐った座布団。
時間だけが、そこで止まっている。
そして。
畳の上に、それはあった。
人の形。
その場で止まった。
黒い染み。
だが、ただの染みではない。
頭の輪郭。
肩。
腕。
背中。
腰。
人間が、仰向けに倒れた形そのままに、畳へ焼き付いていた。
色は黒。
けれど、その中心だけが、赤茶けている。
乾ききった血の色だった。
「……っ」
喉が鳴る。
死体はない。
なのに、『死』だけが残っている。
しかも。
その染みは、妙に濡れて見えた。
二十三年前の血痕のはずなのに。
じわり。
じわり。
まるで今も畳の奥から血が滲み続けているみたいだった。
「先生……」
坂東も、それを見ていた。
「犠牲者でしょう」
低い声だった。
目を逸らせなかった。
ここで、死んだ。
逃げられなかった。
犬に、食われた。
お腹の、お子様も。
いえ——
お子様を、お腹に、抱いたまま。
その想像が、頭に浮かんだ瞬間。
胸の奥が、ぎゅ、と痛んだ。
──お母様。
──お母様も、こんなふうにお亡くなりに、なられたのかしら。
──ご遺体が、戻らなかったお母様。
──沖縄で、お役目の途中で。
涙が、出そうになる。
けれど、それを呑み込んだ。
──いえ。
──いま、泣いてはいけませんわ。
──わたくしは、お役目でここに来ましたもの。
ぶち。
何かが、脳の奥で切れた。
視界が揺れる。
畳の染みが、動いた。
「……え?」
染みが、膨らむ。
黒い平面だったはずのものが、ゆっくり、立体になる。
肉。
赤黒い肉が、畳の奥から押し出される。
筋繊維。
脂。
裂けた皮膚。
肋骨。
人間の形が、畳から這い出てくる。
「っ!!」
後ろへ飛び退いた。
「先生!!」
坂東がわたくしの肩を掴む。
「何が見えました!」
「肉が……!」
喉が震える。
「染みから、肉が出てきましたわ……!」
……いえ、待って。
これは、ただの幻覚ですわ。
犬神大明神の、力の漏れ。
わたくしの心の動揺を、突かれた。
そう、自分に言い聞かせる。
それでも、視界の中の肉は、消えない。
その瞬間。
ぐちゃ。
音がした。
凍りつく。
畳の染みの上。
そこへ。
水が、落ちていた。
ぽたり。
黒い水。
いや。
血と泥が混ざったような、濁った液体。
それが、天井から落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
ゆっくり上を見た。
天井板。
黒く染みている。
その中央が、微かに膨らんでいた。
何かが、いる。
天井裏に。
「……先生」
坂東も気づいていた。
桃木剣へ手が伸びる。
その時。
ぎぃ。
天井裏で、何かが動いた。
ゆっくり。
重たいものが、腹を擦りながら這う音。
ぎ……ぃ。
ぎ……ぃ。
そして。
獣の臭いが、一気に強くなる。
腐った犬。
水死体。
胃袋の中で腐った肉。
その臭いが、わたくしの肺へ流れ込む。
「っ……!」
吐き気が込み上げる。
でも吐けない。
喉が、恐怖で閉じていた。
いる。
真上に、いる。
その瞬間だった。
天井板の隙間から。
黒い水が。
だらり、と垂れた。
頬へ落ちる。
冷たい。
生ぬるい。
獣臭い。
硬直した。
そして。
天井の隙間から。
『目』が覗いた。
犬の目だった。
だが、大きすぎる。
異様に白い。
濁った水の中に浮かんでいるような目。
その奥で、人間みたいな感情だけが、じっとわたくしを見ていた。
「……ッ!!」
息を呑む。
目が、笑った。
次の瞬間。
どん。
天井裏で、何か巨大なものが走った。
家全体が揺れる。
腐った木材が軋む。
坂東が叫ぶ。
「伏せてください!」
その瞬間。
ばきぃっ!!
天井板が、落ちた。
黒い水が降る。
腐臭が爆発する。
そして——
四足の何かが、天井裏から落ちてきた。
濡れている。
毛が抜け落ちている。
皮膚が裂けている。
なのに。
その顔だけが。
人間の顔みたいに、笑っていた。
家屋の奥。
襖が、半分、外れていた。
その隙間から、冷たい空気が、滲み出ている。
——いえ、空気では、ない。
——湿った、何か、ですわ。
ぽた。
ぽた。
どこかで、水が落ちる音がした。
……。
——お父様、お母様。
——わたくし、行きます、わ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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