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神宝町怪異相談 ~働く人専門の拝み屋は、怪異の奥にある事情を読む~  作者: KASANE
神宝町怪異相談

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返される弁当箱

懐かしいのに、苦しい。


 母の四十九日を過ぎた朝から、空にしたはずの弁当箱が、毎朝わたしへ返されるようになった。


 夜のうちに洗って、空にして、伏せておいたはずの箱に、料理が詰まっている。


 いつも同じ、茶色い弁当だ。


 唐揚げ。卵焼き。きんぴら。梅干しの沈んだ、白い飯。母が、わたしに作っていたのと、寸分たがわない。


 蓋を開けるたび、台所に母の手が戻ってきたような気がした。


 けれど、箸をつける気には、なれなかった。


 食べたら、認めてしまう気がした。母がまだここにいることも、わたしがまだ母に縛られていることも。


 冷蔵庫の奥に、ひとつ、ふたつと、溜まっていった。


 ラップをかけても、匂いは消えなかった。醤油と油と、少し焦げた卵の匂い。子どものころ、学校の昼休みに蓋を開けたときの匂いだった。


 懐かしいのに、苦しかった。


  ◆◇


 母を、七年、家で看た。


 だんだん、母はわたしの名前を忘れた。夜中に起きた。同じことを、何度も訊いた。わたしは、何度目かに、怒鳴った。声を、荒らげた。


 母は、そのたびに怯えた顔をした。


 その顔を見ると、わたしはすぐ後悔した。後悔するのに、次の日にはまた同じ声を出した。


 優しく、できなかった。最後まで、一度も。


 母を嫌いだったわけではない。


 嫌いになれたら、まだ楽だったのかもしれない。好きだった。大事だった。だからこそ、逃げられなかった。逃げられないまま、少しずつ削れていった。


 母が息を引き取ったとき、わたしは、ほっとした。


 そのことを、いちばん、許せずにいる。


  ◆◇


 名刺は、地域包括支援センターの、机の上にあった。


 誰のものとも書いていない。ただ「慈恩」と、電話番号だけ。


 神宝町の、古い路地の奥だった。糸目の、痩せた男が、細い線香を一本立ててから、こちらを見た。三十を、少し過ぎたくらいか。


「なるほど」


 わたしが弁当箱を差し出すと、彼はそう言って、蓋を、そっと開けた。


 唐揚げも、卵焼きも、朝見たときのままだった。冷えているのに、崩れていない。誰かが丁寧に詰めた弁当は、食べられるのを待つ形をしていた。


「よく、できた弁当ですね。作り慣れた人の手だ」


 母です、と言った。もう、いないんですけど。


「ええ。いますよ」と慈恩は言った。「ただ、あなたを、縛りに来たんじゃない」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ逆立った。


 縛っていたのは、母ではない。

 わたしが勝手に、母の椅子のそばから動けなくなっているだけだ。


 そう言われたような気がした。


  ◆◇


「河合さん。お母さんが亡くなってから、あなた、自分のごはんを、作りましたか」


 言葉に、詰まった。


 作っていなかった。


 母の三度の食事を、七年、作りつづけた手が、母が消えた途端、動かなくなった。


 朝は菓子パンをかじった。昼は買ってきた総菜を、台所で立ったまま、口に押しこんだ。夜は食べない日もあった。


 誰かに食べさせるためなら、米を研げた。味噌汁も作れた。卵焼きの火加減も、煮物の味も、見なくてもわかった。


 けれど、自分ひとりのためになると、何をどれだけ作ればいいのか、わからなかった。


「この弁当はね」と慈恩は、茶色い卵焼きを指した。「お母さんの、置き手紙みたいなものです」


 責めて、いるんでしょうか。


 優しくできなかった、わたしを。怒鳴ったわたしを。息を引き取ったとき、ほっとしたわたしを。


 慈恩は、首を横に振った。糸目を、細く開いた。


「逆です。――もう、わたしのぶんはいいから。あんたのぶんを、作りなさい。そう言ってる」


 そう言われた瞬間、わたしは弁当箱から目をそらした。


 母は、最後のころ、わたしの名前も忘れていた。

 それなのに、わたしが食べていないことだけは、まだ覚えているのか。


 そんな都合のいいことを、信じたかった。


 信じたくなかった。


  ◆◇


「祓いますか」と慈恩は訊いた。


 わたしは答えられなかった。


 祓えば終わる。終われば、母はもう弁当を作らない。冷蔵庫に溜まることもない。朝、蓋を開けて息を止めることもない。


 それなのに、終わらせていいのかが、わからなかった。


 わたしが答える前に、彼は箸を、こちらへ差し出した。


「その前に。食べてあげたら、どうです。せっかく、詰めてくれたんだ」


 冷えた弁当を、一口、口に入れた。


 しょっぱかった。


 母の味付けは、いつも少し、濃い。血圧のことで、何度も喧嘩した、あの味だった。


「お母さん、薄味にしてって言ったでしょう」


 そう言いかけて、声にならなかった。


 涙が、止まらなかった。


 唐揚げも、きんぴらも、白い飯も、しょっぱい味のまま、飲みこんだ。


 食べるたびに、昔の台所が戻ってきた。弁当箱を包む母の手。寝坊したわたしを叱る声。運動会の日だけ少し大きかった唐揚げ。高校生になって、こんな茶色い弁当いやだと文句を言った朝。


 どれも、もう返せない言葉だった。


 最後の一口を、のみ下した、そのときだった。


 台所の隅の、いつも母が座っていた椅子の気配が、ふっと、軽くなった。


 線香の煙が、まっすぐ、天井へ立ちのぼった。


  ◆◇


「行きましたね」と慈恩は言った。責めるでも、労うでもなく。


 わたしは、まだ、と言いかけた。


 まだ、償っていない。あんなに、ひどいことを。何度も怒鳴ったことも、母の寝息を疎ましく思った夜も、朝が来なければいいと願った日も。


 何も、返せていない。


 慈恩は、灰を、ポケットの灰皿に落とした。


「河合さん。親孝行って、親と一緒に死ぬことじゃないですよ」


 線香が、燃え尽きて、白い灰になった。


 わたしは空になった弁当箱を、両手で持った。


 それはもう、母の重さではなかった。

 わたしが持って帰る、ただの箱だった。


  ◆◇


 翌朝、弁当箱は、空だった。


 伏せた箱は、ただの、空の箱だった。


 わたしは、しばらくそれを見ていた。寂しい、と思った。ほっとした、とも思った。


 どちらも本当だった。


 わたしは、卵を、ひとつ割った。


 だし巻きにするには、少ない。誰かのぶんも、と考えかけて、やめた。


 自分の、ひとりぶんの卵焼きを、焼いた。


 少し、焦げた。味は、母のより、うんと薄い。


 物足りなかった。けれど、悪くなかった。


 母の味ではない。

 母を忘れた味でもない。


 これは、わたしのための味だ。


 生きて、明日も食べていく、わたしのための。

肉親が死ぬと悲しいよね。


神宝町では今日もまた、誰かの「終わらせたい」が、小さく前へ進んでいます。

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