不在着信
「安すぎる部屋」には、理由があります。
けれど、本当に残るのは霊ではなく、人が残してしまった記録なのかもしれません。
その部屋は、安すぎた。
駅から十二分、一階の角、1K。
家賃は相場の半分。
告知事項あり、と書かれた紙を、内見のとき不動産屋が早口で読んだ。
おれは聞き流した。
金がなかった。
理由は、それだけだ。
越してきた夜、ドアが三回、叩かれた。
覗き穴に目を当てた。
誰の姿もない。
廊下の蛍光灯が、じじ、と鳴っていた。
携帯が鳴ったのは、その時だった。
メールの着信音。
知らないアドレスだった。
差出人:タケ
はじめまして。柏木さんですよね。いい部屋、見つかってよかった。
即日で三万。現金手渡し。荷物を受け取るだけ。やりませんか。
iモードの出会い系サイトの「高収入・即日」の書き込みに、おれが携帯から返信したのは、三日前。
奨学金の引き落としは明後日で、口座の残高は四桁だった。
おれは、
「やります」
と返した。
そのとき、押し入れの奥で、ことり、と音がした。
気のせいだ、と思った。
仕事は簡単だった。
指定の喫茶店で、年寄りから封筒を受け取る。
中身は見ない。
別の男に渡す。
それで三万円。
一回やると、すぐ次のメールが来た。
差出人:タケ
柏木さん、筋がいい。明日も動ける?
宛先:タケ
きのうの、あれ、なんだったんですか
差出人:タケ
知らないほうがいい。柏木さんのためです。
宛先:タケ
もう、やめます
差出人:タケ
応募のとき、免許証、送ってくれましたよね。実家のお母さん、まだあそこに住んでますよね。
封筒を受け取るとき、その年寄りが、何度も頭を下げた。
ありがとうございます、ありがとうございます、と。
手が、震えていた。
あとで知った。
オレオレ詐欺、というらしい。
テレビで、毎日やっていた。
その夜から、ドアの音が増えた。
三回、間をおいて、また三回。
覗き穴の向こうに、人影はない。
なのに、内側のドアノブが、ゆっくり回ることがあった。
おれは荷物をまとめた。
逃げようと思った。
段ボールに服を詰めて、ガムテープに手をかけて、やめた。
逃げても、行き先は実家しかない。
だからほどいた。
服を、また戻した。
次の日も、まとめて、ほどいた。
押し入れの奥に、前の住人の物が、ひとつ残っていた。
空の段ボール。
底に、ボールペンで、正の字。
何画あるのか、数えようとして、やめた。
差出人:タケ
次、いつ動ける?
差出人:タケ
次、いつ動ける?
差出人:タケ
次、いつ動ける?
同じ文面が、三通。
受信時刻は、どれも午前三時十二分。
おれは毎晩、その時刻に目が覚めるようになっていた。
ある朝、送信済みフォルダに、打った覚えのないメールがあった。
宛先:タケ
わかりました。やります。
送信は、午前三時十二分。
おれの指は、動いていない。
ドアが鳴った。
今度は外からじゃなかった。
押し入れの方から、三回。
おれはもう、外に出ていなかった。
コンビニにも、大学にも。
ただ荷物をまとめて、ほどいて。
助けて、と打とうとした。
指が震えて、送れなかった。
下書きに、入れたまま。
十二月なのに、部屋が寒い。
息が白い。
おれは、押し入れの戸に、手をかけて——
……という履歴を、わたしは読んでいた。
越してきた部屋の押し入れ。
奥に、古い携帯電話が落ちていた。
電池は切れていたけれど、差し込み口が、わたしの充電器と同じ型だった。
つないで、電源を入れた。
ロックはかかっていなかった。
受信フォルダ。
送信フォルダ。
メモ帳に、長い文章。
柏木、という名前。
わたしは、引き込まれるように最後まで読んだ。
最後のメールの日付を見て、指が止まった。
八月十二日。
今は、十二月だ。
四か月前。
不動産屋が内見のとき、早口で言っていた。
前の入居者の方がお部屋で亡くなって、それでお安く、と。
柏木さん。
このメモの人。
わたしが「おれ」と思って読んでいた声は、もう、死んでいた。
手のなかで、古い携帯が鳴った。
メールの着信音。
差出人:タケ
はじめまして。新しい方ですよね。いい部屋、見つかってよかった。即日で三万。やりませんか。
わたしの名前を、知っていた。
越してきたばかりの、この住所も。
ドアが、三回、鳴った。
覗き穴は、無人だった。
チャイムが鳴ったのは、その直後だった。
ドアを開けると、痩せて肌の白い男が立っていた。
よれたアロハシャツ。
十二月なのに。
糸みたいに細い目。
煙草のにおい。
思っていたより、ずっと若い。
「拝み屋です」
男は静かに言った。
「柏木さんに、呼ばれまして。……間に合ったかどうかは、微妙ですけど」
「柏木さんは、もう、亡くなって——」
「ええ。知ってます」
男は靴を脱いで、上がった。
無駄のない動きだった。
「大家は、お祓いも告知もしないで、この部屋を、また貸した。安くね。だから柏木さんは、自分で、ぼくを呼ぶしかなかったんです」
「その携帯、読みましたね」
男は、わたしの手元を見た。
糸目のまま。
「ぜんぶ?」
「……はい」
「なるほど」
男は押し入れのほうへ、目をやった。
「先に言っておきます。これは、お祓いの案件じゃない。霊が悪さをしてるわけじゃないんです」
「でも、メールが」
「居着いてるのは、霊じゃない。そのやりとりのほうです」
男は押し入れを見た。
「金に困った若いのを、プリペイドの携帯で呼ぶ。抜けられなくして、死なせる。あとには、記録だけが残るんです」
「記録、だけ……」
「それが、次の店子を待つ。読んだ人間を、次の柏木さんにするために」
男はわたしを見た。
糸目が、すこし開いた。
底のない、黒い目だった。
「あなた、さっき、名前を呼ばれたでしょう」
背筋が、冷たくなった。
「断ち方は、簡単です。これは、あなたの未来じゃない。柏木さんの過去だ。
あなたが『おれ』だと思って読んだ。
それだけで、こいつは、しめた、と思ってる。混ぜないでください」
男は古い携帯を受け取り、下書きフォルダを開いた。
送れなかった一行が、残っていた。
「助けて」。
「これが、ぼくを呼んだ声です」
男は言った。
「四か月かけて、やっと、ここまで届いた」
そして男は、それを声に出して読んだ。
「『助けて』。——はい。聞きました、柏木さん。よく、がんばった。お疲れさまでした」
押し入れの方で、ことり、と音がした。
荷物をまとめる音は、もう、しなかった。
「明日の朝いちばんで、警察へ行ってください。それから、不動産屋です。できれば、まともなところへ」
男は玄関で靴を履いた。
「この部屋は出る。今日のうちにです」
「荷物はほどかないでください。まとめたまま持ち出す。残すものも、作らない」
その言い方には、相談ではなく決定事項の響きがあった。
「先生は、その携帯……」
男は古びた携帯電話を拾い上げ、慣れた手つきで、ポケットへ滑り込ませた。
「ぼくが預かります」
そう言ってから、少し肩をすくめる。
「電源を切っても鳴るし、捨てても戻ってくる。出ないでおくと、こいつ、暇でしょうがないんでね」
冗談めかした口調だったが、目だけは笑っていなかった。
男は、すこし笑った。
食えない男だった。
けれど、その横顔には、まだ二十代らしい若さが残っていた。
帰っていく背中を、わたしは見送った。
エレベーターの扉が閉まる、その直前だった。
男のポケットの中で、携帯が震えた。
着信。
暗い画面に浮かび上がる名前は、
——タケ。
男は一瞥しただけで、応答しなかった。
扉が閉まる。
金属の箱が降りていく音のあとも、呼び出し音だけが廊下に残った。
まるで、誰かが向こう側から、諦めずに扉を叩き続けているみたいに。
やがて音は途切れた。
あとには、不在着信が一件だけ残っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
神宝町では今日もまた、誰かの「助けて」が、静かに誰かへ届いています。





