表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人 外伝  作者: K3
燃えカスの守り人 外伝「犬神村事件」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/16

ヘリで愛媛へ

**第3話 ——ヘリで愛媛へ**


【前回までのあらすじ】

お役目を授かった真琴は、監督役の坂東先生と共に出発する。


【今話の見どころ】

政府ヘリでの京都→愛媛・移動編。

大津家千年の歴史と、これから向かう廃村への期待。


それでは、本編をお楽しみください。

Part 1 ——夜明け前の京都

 

 午前四時半。

 

 静寂を震わせるように、目覚まし時計が小さく鳴った。

 

 わたくしは、ゆっくりと瞼を開く。

 

 まだ夢の名残が身体の奥に沈んでいた。

 

 しばらくは布団の中で、ただ天井を見つめていた。

 

 カーテンの隙間から、淡い藍色の光が差し込んでいる。

 

 夜明け前の京都だった。

 

 街は、まだ眠っている。

 

 蝉の声はなく、遠くで虫の音だけが細く続いていた。

 

 夏の朝独特の、張りつめた静けさが、世界を薄く包んでいる。

 

  起きますわ。

 

 そう小さく胸の中で呟き、布団を抜け出した。

 

 冷えた畳が足裏に触れる。

 

 そのひやりとした感触に、ようやく意識が朝へと引き戻されていく。

 

 クローゼットから、セーラー服を取り出す。

 

 ふだんの、女学院の制服。

 

  のように、見える。

 

 けれど、ただの制服でないことは、わたくしが一番よく知っている。

 

  現代の、装束。

 

 セーラーのリボンに、指をかける。

 

 布を結ぶ指先は、不思議なほど迷いがなかった。

 

 その所作には、幼い頃から身体に刻まれていたような自然さがある。

 

  お母様も、こうしてこの制服に袖を通していらしたのかしら。

 

 ふと、そんな思いが胸をよぎる。

 

 母の記憶はほとんどない。

 

 けれど、この布に袖を通すたび、自分の中に眠る何かが静かに目を覚ます気がした。

 

 血が、覚えているのだ。

 

 千年続く家系の血。

 

 祈りと呪を受け継いできた者たちの記憶。

 

 鏡の中の自分を見つめた。

 

 そこに映っているのは、女学院のお嬢様ではなかった。

 

 大津家の名を背負う、陰陽師の娘。

 

  わたくしは、わたくし。

 

 昨夜、自分に言い聞かせた言葉を、もう一度胸の奥で繰り返す。

 

 けれど今朝の自分は、少しだけ、会ったこともない母に似ている気がした。

 

 リュックを背負う。

 

 昨夜のうちに、すべて、この中へ収めてある。

 

  参りましょう。

 

 玄関へ向かうと、田中はすでに起きていた。

 

「お嬢さま、おにぎりをお作りしましたわ」

 

 差し出された包みから、ほのかな温もりが伝わってくる。

 

「あら、田中。ありがとうございますわ」

 

「道中、お気をつけて」

 

 その声に、ふと田中の顔を見つめた。

 

 目の下には薄い隈がある。

 

  寝ていらっしゃらなかったのね。

 

「田中」

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

 田中は少しだけ目を細め、静かに微笑んだ。

 

「いえ、お役目ですから」

 

 その笑顔の奥には、隠しきれない心配が淡く滲んでいた。

 

 二十年、大津家に仕えてきた田中。

 

 母が最後に家を出た朝も、きっとこうして見送ったのだろう。

 

 戻らなかった人を、長い時間、待ちながら。

 

  わたくしは、戻る。

 

 そう、心の中で強く誓った。

 

  田中を、もう長く待たせたりしない。

 

「行って参りますわ」

 

「お気をつけて」

 

 玄関を出ると、門の前にすでに車が停まっていた。

 

 黒塗りのセダン。

 

 ナンバーは、見たことのない番号。

 

 運転席には、無表情の中年男性。

 

「真琴様、お迎えに参りました」

 

 短い、けれど隙のない挨拶。

 

  お父様の、ご手配ですわね。

 

──いえ、お父様だけでは、ない。

 

 その車の佇まいには、ふつうのハイヤーでは出せない空気があった。

 

 国の、匂い。

 

  政府手配、ですわね。

 

 静かに後部座席へ乗り込んだ。

 

 座席の革は、ひんやりと、上質だった。

 

 すでに坂東が、隣に座っていた。

 

 濃紺のスーツ姿。

 

 一見、出張に向かう会社員。

 

 けれど坂東のスーツも、市販の仕立てではない。

 

 大津家の依頼で、京都の老舗の仕立て屋が手がけたもの。

 

 布には、護りの陰陽道。

 

 裏地には、結界の符号。

 

  いつだったか、お父様に教わったことを、ふと思い出す。

 

 陰陽師の装束は、時代とともに変わってきたのだと。

 

 平安の頃は、浄衣。

 

 陰陽師の正装。

 

 戦国の頃は、地侍や足軽の衣装に紛れた。

 

 刀を帯び、人混みに溶けた。

 

 江戸の頃は、着物に袴。

 

 武士の装束をまとった。

 

 明治、大正は、袴。

 

 時には、軍服。

 

 文明開化の中で、姿を変えながら。

 

 そして現代——

 

 セーラー服。

 

 スーツ。

 

 時代に合わせて、見た目は変わっていく。

 

 けれど、布の内側に織り込まれた呪は、変わらない。

 

 千年、ずっと。

 

  大津家の、知恵、ですわね。

 

「お嬢」

 

 坂東の低い声が、思考を引き戻した。

 

「お早うございます」

 

「お早うございますわ、坂東先生」

 

「ヘリポートまで、ご移動です」

 

「ヘリ……ですの?」

 

 思わず坂東を見上げた。

 

 坂東は、短く頷く。

 

「お父上が、政府に要請されました」

 

「政府……」

 

「自衛隊と警察にも、秘密裏に協力を依頼されたとのことです」

 

 その言葉に、息を呑んだ。

 

  お父様。

 

  そこまで、お動きに……。

 

「先生」

 

「はい」

 

「今回の案件、そんなに……」

 

「ええ」

 

 坂東は、目だけで頷いた。

 

「お嬢が、お考えになっている以上に、です」

 

 その一言が、車内の空気を、わずかに重くした。

 

  ……どこの省庁、ですのかしら。

 

 ふと、その疑問を胸の内で転がした。

 

 警察と自衛隊が、秘密裏に動く。

 

 それはつまり——

 

 ふつうの省庁では、ない。

 

  たぶん、ですけれど。

 

  お父様がお話しになった先は——内閣のお筋、ですわね。

 

 そう、考えるしかなかった。

 

 陰陽道や霊事案を扱う、内閣直属の窓口がある——

 

 そんな話を、お父様からいつだったか、ちらりと聞いた覚えがあった。

 

 正式名称は、教えてくださらなかったけれど。

 

  頭文字、なんでしたかしら。

 

  ……たしか、Tではじまる、お役所。

 

 それ以上は深く考えないことにした。

 

 知らないでよいことは、知らない方がよい。

 

 それが、大津家の娘として身につけてきた、いちばん古い作法だった。

 

 車は、夜明け前の京都の街を、静かに走り出した。

 

 街灯の光が、車窓を流れていく。

 

 人の姿はない。

 

 蝉の声もない。

 

 ただ、エンジンの低い唸りと、タイヤがアスファルトを撫でる音だけが闇に溶けていた。

 

  お父様。

 

  ちゃんと、勤めますわ。

 

 胸の中で、そっと呟く。

 

Part 2 ——京都ヘリポート

 

 午前五時四十分。

 

 車は、京都市内の郊外にある小さなヘリポートに着いた。

 

 民間チャーターの拠点。

 

 朝の静けさの中で、ヘリポートの白いライトだけが、淡く輝いていた。

 

「お降りください」

 

 運転手の声に、わたくしと坂東は外へ出る。

 

 夏とはいえ、夜明け前の空気は、まだ薄く冷えていた。

 

 東の空が、わずかに白み始めている。

 

 ヘリポートの中央——

 

 一機の白いヘリコプターが、静かに待機していた。

 

 胴体は、すっと細長い。

 

 尾部のローターは、ダクトに収められている。

 

 見慣れたヘリコプターとは、明らかに違うシルエット。

 

「お嬢」

 

 坂東の声が、静かに続く。

 

「あれが、EC130です」

 

「EC130……」

 

 その名前を口の中で、小さく転がした。

 

 聞いたことが、あるような、ないような、不思議な響きだった。

 

──たしか、お父様の書斎にヘリコプターのお写真集が、ございましたわね。

 

──あの中で、お父様が、お話しになっていらした気が……。

 

 けれど、名前まで覚えていない。

 

 ヘリコプターのお話には、お嬢様としては、あまり興味を持っていなかった。

 

「お嬢、ご存知で?」

 

「いえ」

 

 正直に、首を横に振った。

 

「お写真で、見たことがあるかしら、という程度ですわ」

 

「左様で」

 

 坂東は、ふっと小さく笑った。

 

「ユーロコプター社の、観光ヘリです」

 

「ゆーろこぷたー……」

 

「フランスとドイツの、合弁会社」

 

「左様、ですか」

 

 その機体を見つめた。

 

 朝の薄明かりの中で、機体の白い塗装が、淡く光っている。

 

 機体には、小さく「観光遊覧」とだけ書かれていた。

 

  観光、遊覧。

 

  ……表向きの、お顔ですのね。

 

「先生。これは、本当に観光ヘリですの?」

 

「表向きは、です」

 

 坂東は穏やかに答えた。

 

「実際は、政府が手配したチャーター機」

 

「ええ」

 

「パイロットは、現役の——」

 

 坂東は、少しだけ、声を低くした。

 

「自衛隊の、退魔の方々です」

 

「退魔の……」

 

「正式には、別の名前で呼ばれていますけれど」

 

「……なるほど」

 

「お父上が、直接、ご依頼されました」

 

 その言葉に、息を呑んだ。

 

──現役。

 

──現役の、自衛隊の方々。

 

──民間機を装って、わたくしたちを、お送りくださる。

 

──それは、つまり——

 

「先生」

 

「ええ」

 

「これは、相当の、案件ですのね」

 

「ええ」

 

 坂東は、ひとつ、頷いた。

 

「EC130は、世界で最も静かな観光ヘリと、言われています」

 

「静か……」

 

「ええ」

 

 ヘリポートの隅で、点検を終えた操縦士が、こちらへ歩いてくる。

 

 短く刈り上げた髪。

 

 引き締まった身体。

 

 民間機のパイロットの服装をまとっているけれど、その立ち姿には、軍人の気配がはっきりと滲んでいた。

 

 ふたりの姿を認めた瞬間。

 

 操縦士の背筋が、ふっともう一段、伸びた。

 

 歩み寄ってくる足音は、地面を擦らない。

 

 訓練の行き届いた、静かな歩み。

 

 それでいて——

 

 ヘリポートのライトに照らされた横顔に、淡い汗が滲んでいた。

 

 ふつうの仕事の時には、出ない種類の汗だった。

 

「お嬢様、坂東様」

 

 声が、ほんの少し、固い。

 

 機長は、ふたりに向かって深く頭を下げた。

 

 その角度が、礼儀の範囲を、わずかに超えていた。

 

「本日、機長を務めます、三等陸佐の藤堂です」

 

「八時頃の着陸を、予定しております」

 

「藤堂様。お世話に、なりますわ」

 

 淑女らしく、軽くお辞儀をした。

 

「よろしく頼む」

 

 坂東の声は短く、けれど藤堂を労う温度が、ほんのわずかに含まれていた。

 

 わたくしは、ふと、たずねた。

 

「藤堂様。このヘリは、そんなに、静かなのですの?」

 

 その瞬間。

 

 藤堂三佐の目が、ほんの少しだけ、輝いた。

 

「はい。EC130の、尾部ローターを、ご覧ください」

 

 藤堂三佐が、機体の尾部を指し示す。

 

「フェネストロンと呼ばれる、ダクト形式でして」

 

 その指の先を追う。

 

 尾部に、剥き出しのプロペラが、ない。

 

 代わりに、円い枠の中に、ローターが収まっていた。

 

「剥き出しのプロペラがない分、騒音を、ぐっと抑えられます」

 

「なるほど」

 

「ICAOの制限値より、六デシベルも低い。観光ヘリで、この数字は、まず出ません」

 

「米国のグランドキャニオンでも、飛行を許される、唯一の——」

 

「藤堂三佐」

 

 坂東の声が、短く、割って入った。

 

 藤堂三佐の口が、ぴたりと止まる。

 

「……失礼、いたしました」

 

 ふっと、その頬が、赤くなった。

 

  あら。

 

  ……この方、ご自分のヘリが、お好きなのですわね。

 

 ぴんと張りつめていた藤堂三佐の気配が、ほんの少しだけ、ゆるんで見えた。

 

 坂東が、ふっと、口の端で笑う。

 

「機体のご自慢は、また今度に」

 

「は。申し訳、ありません」

 

 それでも坂東は、その目を、機体へ向けた。

 

「ですが——今回は、その静粛性こそが、お役目に必要なのです」

 

 その言葉に、息を呑む。

 

  霊脈に、影響しないように。

 

  犬神大明神を、刺激しないように。

 

  ……政府が、ここまで、考えて。

 

「お父様が、この機体を……」

 

「ええ」

 

 坂東は、機体を見つめたまま、頷いた。

 

「お父上の、お人脈です」

 

「……」

 

  軍の方……ですわね。

 

  政府の、お手配。

 

  ……これは、ふつうの依頼では、ないのですわ。

 

  あの方も、内容までは、ご存知ない。

 

  ただ、「国の重要なお役目」と、上から命じられただけ。

 

  それでも、あれだけの緊張を、なさっていらっしゃる。

 

  ……つまり、それだけのお役目、ということ。

 

 ふたりは、機体へ歩み寄る。

 

 リュックを背中から下ろした。

 

「お持ちしましょうか」

 

「いえ」

 

 静かに首を振った。

 

「これは、わたくしのお役目ですもの」

 

 坂東は、ほんの少しだけ微笑む。

 

「……了解しました」

 

 その短いやり取りに、わたくしの胸の中が、ほんの少しだけ温かくなった。

 

 機体のドアが、静かに開く。

 

 キャビンは、思ったよりも、広かった。

 

 革張りの座席が、ぐるりと配置されている。

 

 窓は、大きい。

 

 ガラス越しに、外の景色が、すっと近くに見える。

 

「失礼いたしますわ」

 

 進行方向に向かって右側の窓際に座った。

 

 坂東は、その向かいに。

 

 シートベルトを締める。

 

 機体の中に、ふんわりとした静寂が満ちている。

 

 ヘリコプターの中とは、思えなかった。

 

  まるで、応接間の、お椅子のよう。

 

「お嬢様、坂東様」

 

「ヘッドセットの、ご着用を、お願いいたします」

 

 藤堂三佐の声が、機内の小さなスピーカーから流れた。

 

 民間機の機内アナウンス、ではない。

 

 軍人の、報告の声。

 

 座席のそばに、白いヘッドセットが用意されている。

 

 それを耳に当てた。

 

 ふっと——

 

 外の音が、遠くなる。

 

 機内の小さなノイズだけが、耳元で囁くように響いた。

 

「離陸いたします」

 

 短い、しかし冷静な声。

 

──ぐぅん。

 

 機体が、静かに浮き上がった。

 

 驚くほど、揺れが少ない。

 

 思わず窓の外を見た。

 

 ヘリポートの照明が、ゆっくりと、下へ流れていく。

 

──浮いている。

 

  わたくし、空に……。

 

 胸の奥で、小さな鼓動がひとつ、跳ねた。

 

 機体は、夜明け前の京都の街を、すっと滑るように空へ昇っていった。

 

Part 3 ——空からの日の出

 

 午前五時五十五分。

 

 EC130は、京都の街の上空を、静かに飛んでいた。

 

 予想していたよりも、ずっと静かだった。

 

 機体の中では、エンジンの低い唸りは聞こえる。

 

 けれどそれは、あの耳をつんざくようなヘリコプターの騒音とは、まるで違っていた。

 

 まるで、深い水の底で、遠くから聞こえてくる音のようだった。

 

  ほんとうに、静か、ですわね。

 

 窓の外を見つめていた。

 

 眼下に、京都の街が広がっている。

 

 千年の都が、まだ眠りの中にあった。

 

 碁盤の目のように整った道路。

 

 その間を、点々と、街灯の光が並んでいる。

 

 東の空が、わずかに白み始めていた。

 

 藍と紫が混ざり合った、夜と朝の境目の色。

 

 その淡い光の中で、京都の街が、ぼんやりと浮かび上がっている。

 

  お父様。

 

  ちゃんと、空から、見ていますわ。

 

 胸の中でそっと呟いた。

 

「お嬢」

 

 ヘッドセット越しに、坂東の声が届いた。

 

「はい?」

 

「お母様は——」

 

 少しだけ、間が空いた。

 

「ヘリには、お乗りになったことが、ございました」

 

「ええっ?」

 

 思わず坂東を見た。

 

 坂東は、静かに微笑んでいる。

 

「お嬢が、まだ二、三歳の頃かと」

 

「お母様が……」

 

「ええ」

 

「そんな前から、お父様は政府と?」

 

「いえ」

 

 坂東は、首を横に振る。

 

「それは、政府ではなく——」

 

 少し、考えるように言葉を選ぶ。

 

「米軍の、ヘリでした」

 

「米軍……?」

 

「お母様は、沖縄のお役目でした」

 

「沖縄……」

 

「ええ」

 

 坂東は、少しだけ目を細める。

 

「お嬢は、お母様が空に上がるのを、お見送りされていた」

 

「……」

 

「『お母様、ばいばいー』、と」

 

 その言葉が、胸の奥に、すとんと落ちた。

 

  お母様。

 

  わたくし、空に上がるお母様を、見送っていたのですわね。

 

「先生」

 

「はい」

 

「わたくし、今、お母様の歩いてきた道を辿っているのですわね」

 

「……ええ」

 

「そう、思います」

 

 坂東は、ゆっくりと頷いた。

 

 その目には、長い年月を見つめてきた者だけが持つ、静かな光が宿っていた。

 

 もう一度、窓の外を見た。

 

 東の空が、さらに白んでいる。

 

 地平線が、わずかに金色に染まり始めていた。

 

──そして。

 

 ふっと、機体の影が変わった。

 

 太陽が、地平線の縁から、顔を出した瞬間だった。

 

「あ……」

 

 思わず息を止めた。

 

 光が、雲の縁を、淡く金色に染めていく。

 

 機体の窓が、その光を映して、ほのかに輝いた。

 

 眼下に広がる西日本の山々が、淡い金の毛布をかぶせられたように、輝いている。

 

 その向こうに——

 

 瀬戸内海が、見えた。

 

 無数の島々が、銀の鏡のような海に、点々と浮かんでいる。

 

 光が、海面を渡っていく。

 

 世界が、目覚めていく。

 

  ……綺麗。

 

  なんて、綺麗。

 

 しばらく言葉を失ったまま、その光景を見つめていた。

 

 胸の奥に、何かが満ちていく。

 

 それは、たぶん——

 

 朝、という、世界の始まり。

 

 そして、自分が今その光景の一部になっているのだという、不思議な感覚。

 

「お嬢」

 

「はい」

 

「お母様も、同じ光景を、ご覧になっていたかもしれません」

 

「……」

 

「沖縄へ向かう、朝の機内で」

 

 瞬きをした。

 

 ほんの少しだけ、目の奥が熱くなる。

 

  お母様。

 

  見ていらっしゃるのかしら。

 

  わたくしのこと。

 

  今、ここに、いること。

 

 機体は、瀬戸内海の上空を、すっと滑るように進んでいた。

 

 光が、機内に差し込んでくる。

 

 座席の革に、淡い金の影が、ゆっくりと滑っていった。

 

「先生」

 

「はい」

 

「わたくし、必ず、戻りますわ」

 

「ええ」

 

「お父様も、田中も、皆お待ちですもの」

 

「……ええ」

 

 坂東は、ただ、頷いた。

 

 それ以上の言葉は、必要なかった。

 

 機体は、四国へ向かって、静かに飛び続けていた。

 

Part 4 ——石鎚山系・場外離着陸場

 

 午前八時。

 

 EC130は、ゆるやかに高度を下げ始めた。

 

 眼下に、四国の山々が広がっている。

 

 京都の山とは、違う。

 

 千年の都を守護する、静かな神々の山ではない。

 

 もっと生々しい。

 

 濃い緑。

 

 獣の匂いがしそうな、深い森。

 

 人ではない何かが、古くから棲み続けているような気配。

 

 その奥に——

 

 石鎚山。

 

 四国の霊峰が、朝の光の中で、静かに聳えていた。

 

  すごい。

 

  京都の山々とは、全く違いますわ。

 

 窓に額を寄せるように、その山を見つめた。

 

「お嬢」

 

「はい」

 

「あれが、石鎚山です」

 

「ええ」

 

「四国の、霊脈の核」

 

 坂東の言葉に、ゆっくりと頷いた。

 

「肌で、感じますわ」

 

 ヘッドセット越しに、機長の声が届いた。

 

「まもなく、着陸地点に進入します」

 

「了解いたしましたわ」

 

「了解した」

 

 機体は、山の中腹あたり、林道のそばにすっと近づいていった。

 

 そこには——

 

 小さく整地された、平らな空き地があった。

 

 ヘリが一機、ぎりぎり着陸できる広さ。

 

 森に囲まれた、目立たない場所。

 

  場外離着陸場……ですのね。

 

「ヘリポートではない場所に、降りられますの?」

 

「ええ」

 

 坂東は穏やかに答える。

 

「許可された区域であれば、可能です」

 

「政府の手配ですわね」

 

「ええ」

 

「これも、秘密裏の、ということで」

 

「左様、ですか」

 

 機体が、ゆっくりと、地面に近づいていく。

 

──ぐぅん。

 

 ローターが舞い上げる風が、周囲の草を波立たせる。

 

 それでも機体は、思ったよりも静かに着陸した。

 

 森の鳥たちが、わずかに飛び立つ程度の振動だった。

 

「着陸、完了しました」

 

 機長の声。

 

 機体のエンジンが、ゆっくりとアイドリングに落ちる。

 

 ドアが、静かに開いた。

 

 外の空気が、すっと、機内に流れ込んでくる。

 

──ぴり、と。

 

 肌が、一瞬、引き締まった。

 

  あら。

 

  ……空気が、違いますわ。

 

「お嬢」

 

「はい」

 

「着きました」

 

「はい」

 

 静かに立ち上がる。

 

 ヘッドセットを外し、座席に置いた。

 

 ドアの前へ、足を進める。

 

 機体の外、林道に——

 

 一台の、黒塗りの車が停まっていた。

 

 ナンバーは、地元のもの。

 

 けれど、運転席に立つ男性の佇まいには、ただの民間人とは違うものがあった。

 

「真琴様、坂東様」

 

 落ち着いた、低い声。

 

「県警の者です。ご案内いたします」

 

「ご苦労様ですわ」

 

「よろしく頼む」

 

 短い挨拶。

 

 それ以上の言葉は、お互い、必要としなかった。

 

  県警、と仰っていますけれど。

 

  土地の、駐在さんでは、ありませんわね。

 

 その男性の腰のあたりに、ちらりと目をやる。

 

 ベルトに、見たことのない小さな金属製の機器が留まっていた。

 

——御札のような何か。

 

——そして、計測器のような銀色の小箱。

 

  ……ふつうの警察の方の装備、ではありませんわ。

 

 たぶん、警視庁の——

 

 いや、各地の県警にも、似た部署があるらしい。

 

「説明がつかない事件」を扱う、裏の課。

 

 呼び方は、伏されている。

 

 ただ、現場では「不対(ふたい)」と短く呼ばれているのだと、お父様がいつだったか、教えてくださった。

 

──不対特異班。

 

 正式な名前は、教えてくださらなかった。

 

 知らないでよいことは、知らない方がよい。

 

 それも、また、大津家の娘の作法。

 

 わたくしと坂東は、ゆっくりとヘリから降りる。

 

 足が地面についた瞬間——

 

 ふっと、空気の重さが、肌に伝わってきた。

 

 それは、京都とも、瀬戸内海の上空とも、まったく違う重さだった。

 

 霊脈の、底にあるような。

 

 人ではないものたちが、長く息づいてきたような。

 

  ここが、四国。

 

  ……石鎚山系の、奥。

 

 深く息を吸う。

 

 肺の奥まで、湿った緑の匂いが、染み込んできた。

 

「では、参りましょう」

 

 県警の男性が、丁寧に車のドアを開けた。

 

 わたくしと坂東は、後部座席に乗り込む。

 

 ヘリの方を、最後にもう一度、振り返った。

 

 EC130の機長が、機体のそばで、静かに敬礼をしていた。

 

 軍人の、敬礼。

 

──輸送任務、ここまで。

 

──以後、お任せいたします。

 

──ご武運を。

 

 そう、言われたような気がした。

 

 わたくしも、小さく、頭を下げる。

 

「ありがとうございました」

 

 声には、出さなかった。

 

 けれど藤堂三佐の目が、ほんの少しだけ優しく細められたのが見えた。

 

 車のドアが、静かに閉じる。

 

 エンジンがかかる。

 

 黒塗りの車は、林道を、ゆっくりと走り出した。

 

 森の奥へ、奥へ。

 

 光が、木々の隙間から、差し込んでくる。

 

 その光が、車内に、淡い斑点を作っていた。

 

「お嬢」

 

「はい」

 

「あと、三十分ほどです」

 

「ええ」

 

「犬神村まで」

 

「……ええ」

 

 窓の外を見つめていた。

 

 森が、深くなっていく。

 

 道は、細くなっていく。

 

 道の両脇を覆う木々は、濃密だった。

 

 枝葉は、まるで車を呑み込もうとする生き物のように垂れ下がっている。

 

 獣の匂い。

 

 土の湿り。

 

 名も知らぬものたちの気配。

 

 それらが、車の中まで少しずつ滲んでくる。

 

  異界の入口、ですわね。

 

 胸の中で、そっと呟く。

 

 そして、リュックの中の結界札を、軽く手のひらで包んだ。

 

 紙の感触が、すこしだけ、温かかった。

 

──お父様の、手の温度。

 

 その温度に、わたくしの覚悟が、もう一段深くなる。

 

  兄様も、弟たちも、まだ未熟。

 

  今は、わたくしが、走るしかありませんの。

 

  お母様も、見ていてくださいませ。

 

 胸の中で、静かに、そう呟いた。

 

 車は、深い森の中を犬神村へ向かって進んでいった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。



次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


Nolaノベル

黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】


最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637


感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ