真琴・京都の女学院
**第2話 ——お嬢様と監督役**
【前回までのあらすじ】
神宝町のジオンのもとに、議員の孫娘が行方不明という依頼が舞い込んだ。
【今話の見どころ】
舞台は京都・大津家。
千年続く陰陽師の家系のお嬢様、真琴(★17歳)。
彼女のもとにも、極秘の依頼が——。
それでは、本編をお楽しみください。
Part 1 ——京都の女学院
京都の夏は、湿気をまとった絹のようだ。肌にまとわりつき、けれど、どこか上品に。
東京の夏とは、まるで違う。あちらの夏は、街じゅうの熱がぶつかり合い、膨れ上がり、暴れる。けれど、ここの夏は静かだった。四方を山に囲まれた盆地の底で、熱と湿気だけが逃げ場を失ったまま、街にわだかまっている。千年の都そのものが、じっと汗をかいている——そんな夏だ。
暑いですわね。まったく、暑いですわ。
わたくしは胸の内でそう呟きながら、女学院の門をくぐった。
二〇〇四年、八月初旬。夏休みの、特別補習。教科は、英語と、古文。そのどちらも得意だった。
本日も、わたくしの完勝ですわね。ふふん。
心の中で、そっと胸を張る。けれど、表情には出さない。
「大津さん、ごきげんよう」
「大津さま、さようなら」
すれ違う生徒たちが、軽く頭を下げていく。
「ごきげんよう」
わたくしもまた、涼しい顔で会釈を返した。
そんなことをくるくると考えながら、駅へ向かう。午後三時の京都は、まだ陽炎の底にあった。蝉の声が、街のあちこちで焼けつくように鳴いている。
駅前から、市バスに乗った。家までは、二十分ほど。窓の外を、京都の街並みがゆっくりと流れていく。
家が近づくにつれ、空気が変わっていくのがわかった。肌に触れる気配が、すこしずつ、澄んでいく。
お父様の結界。
大津家は、京都の北にある古い屋敷だった。代々続く、陰陽師の家系である。
Part 2 ——大津家のお父様
「ただいま、戻りましたわ」
玄関で、そっと靴を脱いだ。
「お嬢さま、お帰りなさいませ」
奥から、お手伝いの田中が姿を見せる。
「田中、ただいま」
「お疲れさまでございます。お茶、いかがですか?」
「ありがとう。いただきますわ」
リビングには寄らず、自室へ向かおうとする。その途中、書斎の前を通りかかった時だった。
「うっ……痛、い……」
低いうめき声が、聞こえた。足が、止まる。
お父様? あら。お父様、どうされたのかしら。
襖を、そっと開ける。そこにいたのは——
「お、お、お……」
四つん這いになった、父だった。座椅子の前で、ぴくりとも動けずにいる。
「お、お父様……?」
「真琴か……すまん。動けん」
「動けん、とは……?」
「ぎっくり腰だ」
「……えっ?」
……お父様が、四つん這いで。
なんとも、締まりませんわね。
「朝、書類を取ろうとしてな。ガクッと来た」
「ガクッと……」
「ぎっくり腰の、ガクッと、だ」
ガクッと、を、二度も。
……大津家、千年の当主が。
「左様ですか……」
「真琴」
「はい?」
「ヨーロッパでは、これを『魔女の一撃』と、呼ぶらしいぞ」
「……まあ、お父様」
「ドイツ語で、ヘクセンシュス、と、いう」
一瞬だけ絶句した。
「お医者様は、お呼びになりましたの?」
「呼んだ。二、三日は安静にしろ、と」
「左様ですか」
「うむ」
苦しそうに息を吐いたあと、父はわたくしを見上げた。
「真琴」
「はい?」
「お前に、任務を、与える」
え。任務。……任務、ですって?
「座れ」
「は、はい」
父の隣へ、静かに腰を下ろした。
「依頼が来た」
低い声だった。
「依頼ですの?」
「ああ。政府筋だ」
「場所は、愛媛」
「愛媛……」
お父様の声に、いつもの張りがない。
……政府筋。ただ事では、ありませんわね。
「石鎚山系の廃村だ」
「行方不明者が出ている」
「……どなたですの?」
「議員の娘だ。久能という男の」
議員の、娘。
政が、絡んでおりますのね。
「左様ですか」
「久能 美咲、十六歳」
「美咲、さん」
「それだけではない」
父の声が、すこし低くなる。
「暴走族二人。惨殺」
喉が、小さく鳴った。
「……左様、ですか」
父が、わたくしを見る。
「真琴」
「はい」
「お前、行ってくれ」
沈黙。蝉の声だけが、遠くで鳴いていた。
「本当は、わしが行くつもりだった」
父は苦笑する。
「だが、この有様だ」
「兄は戦力外。弟たちはまだ子供」
「……はい」
「だから、お前しかおらん」
「わかりました、お父様」
静かに頷いた。
「行って参りますわ」
「すまんな、真琴」
「いえ。家のお役目ですもの」
父が、小さく目を細める。
「ただ、お父様」
「ん?」
「わたくし、まだ修行中の身ですのよ?」
「ああ」
「大丈夫、なのですか?」
「大丈夫だ」
父は、即答した。
「お前なら」
根拠、ありませんわよね? お父様、その自信、どこから来ますの?
「それから、もう一つ」
「はい?」
「お前、一人ではない」
「……え?」
「坂東をつける」
瞬きをした。
坂東先生。
その名前だけで、すこし安心する。
「あの方が、来てくださるのですか?」
「ああ。外で待っている」
外。待たせてますの? お父様、それは失礼ですわ。
「お呼びして参りますわ」
「頼む」
立ち上がり、玄関へ向かった。そして、扉を開ける。
夕暮れの熱気が、むっと流れ込んできた。その中に、一人の男が立っている。
「お嬢」
低い声だった。濃紺のスーツ。短く刈った髪。鋭い眼差し。四十代後半の男は、夏の夕闇の中に、岩のように立っていた。
坂東先生。
「お久しぶりですわ」
「お久しぶりです、お嬢」
Part 3 ——坂東英次
書斎へ入ると、坂東は父の前に、音もなく正座した。
「先生。ぎっくり腰と、伺いました」
「うむ……すまんな、坂東」
「いえ。どうか、ご自愛ください」
「依頼の件、ですが」
「ああ。真琴には、話した」
「左様で」
坂東がちらりと、わたくしを見る。その視線だけで、意味は十分だった。小さく頷く。坂東もまた、わずかに頷き返した。
「先生。現地は、愛媛の犬神村と伺いましたが」
「ああ」
「事前情報を、いただけますか」
父が書棚へ手を伸ばす。そして。
「あいたた……」
途中で止まった。ぎっくり腰だった。
「お父様。わたくしがお取りいたしますわ」
「う、うむ……すまん」
書棚から、分厚いファイルを取り出した。机に置くと、坂東が静かにそれを開く。
中には、大量の資料。新聞記事の切り抜き。古い地図。白黒写真。家系図。
「犬神村、ですか」
坂東が低く呟く。
「ご存知ですの?」
「ええ。陰陽師の世界では、有名です」
「一九八一年。一夜で、集落が消えた」
「表向きは、野犬の群れによる襲撃」
野犬、ですって。
……どうだか。
「……表向き、ですのね」
「ええ」
「実際は、守護神の暴走、です」
守護神が、祟り神に。
……守るはずのものを、守れなかったから。
「犬神大明神」
「元は、村の守護神でした」
「それが、祟り神化を?」
「一九八一年の事件で、村を守れなかった。その自責で、ですな」
黙って、資料を見つめた。
「以来、廃村に留まり続けている」
「近づく者を?」
「呪い殺します」
「出発は、明朝です」
坂東が言う。
「午前五時、京都駅」
「五時……」
「新幹線で岡山。そこから、特急しおかぜで松山」
「松山から、レンタカーで犬神村へ」
「移動だけで、六、七時間ほどになります」
六、七時間。遠いですわね。
……知らない山へ、わたくし、ひとりで。
いえ。坂東先生が、いてくださるわ。
「そして、もう一つ」
「はい?」
「現地に、他の人間が入る可能性は?」
「政府筋の話だが」
「はい」
「『他にも手は打っている』、らしい」
他にも、手を。
……わたくしの、ほかに。
「詳細は?」
「言わなかった」
「左様で」
「だが、もし現地で誰かと遭遇したら、慎重に接しろ」
「はい」
「そちらが、本命かもしれん」
本命。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
「では先生。明朝、お嬢をお迎えに参ります」
「頼む」
坂東が立ち上がる。
「坂東先生」
「はい」
「明日、よろしくお願いしますわ」
「こちらこそ」
「午前五時に、お迎えへ」
「……覚悟、しますわ」
わずかに、坂東の口元が緩んだ。
「ありがとうございます」
そして彼は、夕暮れの外へと出ていった。
Part 4 ——夜の書斎
その夜。自室で、明日の支度をしている。
明日は、女学院のセーラー服。ただし——ふだんのものではない。大津家に代々伝わる、特別なセーラー服。見た目は、ただの制服。けれど、その布の中には、何代にもわたる呪が織り込まれていた。
護符。桃木剣。勾玉。式盤。九字法具。そして、清めの香。
畳の上へ一つずつ並べるたび、部屋の空気が、すこしずつ張り詰めていく。
準備、整いましたわね。
小さく息を吐いた。リュックへ道具を収めていく。父から預かった結界札も、丁寧に包んで入れた。その札だけは、どこか温かい。父の手の温度が、まだ残っているみたいに。
支度を終えると、ふたたび書斎へ向かった。父は座椅子の前で、相変わらず動けないまま、ぐったりしている。
「お父様、まだ起きてらっしゃるの?」
「うむ……なんだか、寝付けん」
「ぎっくり腰、痛みますの?」
「ああ。それもある」
父は、小さく笑った。
「だが、お前のことが心配でな」
その言葉に、すこしだけ目を伏せた。
お父様。
「大丈夫ですわ」
父の隣へ座る。
「家のお役目ですもの」
「……うむ」
静かな返事だった。
「真琴」
「はい?」
「お前、母のことは覚えておるか」
「……少しだけ」
幼い頃の記憶しかない。柔らかい手。優しい声。髪を撫でる、ほのかな匂い。その程度だ。
「お前の母も、こうして依頼へ向かっていた」
「わたくしくらいの頃ですの?」
「ああ。お前が生まれて間もない頃まで、な」
「そして、ある日——戻ってこなかった」
黙った。
「お前の母は、すごい人だった」
「ええ」
「お前は、母によく似ている」
「……ほんとうに?」
「ああ」
父は、ゆっくり頷く。
「目が、似ている」
「お前の母もな、お前と同じくらいの年に、初めて依頼へ向かった」
父は、すこし笑った。
「その時、母は言った」
「『家のお役目ですもの』、と」
息を止めた。
「……同じ、ですわね」
「ああ。同じだ」
「お父様」
「ん?」
「わたくし、明日、行って参ります」
「ああ」
「必ず、戻りますわ」
父は、しばらく何も言わなかった。夜の静けさが、ふたりの間を満たしていく。
「……頼む」
低く、絞り出すような声だった。
「お父様」
「ん?」
「ぎっくり腰、お大事になさってくださいませ」
父は、思わず苦笑した。
「……すまん」
そっと父の肩へ触れた。大津家当主。千年続く家の長。けれど同時に、ぎっくり腰で動けない、ただのお父様でもある。
帰る頃には、治っていてくださいませね。
すこしだけ笑った。そして立ち上がり、書斎を後にする。
廊下は、静かだった。夜の屋敷を、結界の淡い光が幾重にも包んでいる。
大津家。その重みは、まだ完全には分かりませんわ。
けれど。
今は、わたくしが、走るしかありませんの。
ちゃんと、戻る。「家のお役目ですもの」。
胸の中で、静かに繰り返す。
自室へ戻り、布団を敷く。明朝五時、出発。
早起き、ですわね……。
小さく笑った。
布団へ入り、目を閉じる。外では、京都の夏の虫たちが鳴いていた。遠く。古い都の夜が、静かに息をしている。
明日。わたくし、行きますわ。大津真琴として。お母様の、娘として。
闇の中で、そっと息を吐く。その呟きとともに、静かな眠りへと落ちていく。
◆◇
夢を、見た。
暗い山の中。廃村らしき気配。煙草の煙が、まっすぐ立ち上っていた。
アロハシャツの男が、こちらに背を向けて立っている。
——あなたは、いったい、誰ですの。
問いかけた瞬間——男が、振り返った。
顔を見た瞬間。
目が覚めた。
心臓が、強く、鳴っていた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
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