花丸
子どもの異変は、いつも「怪異」に見えます。
でも、その原因が本当に怪異なのか、それとも長い年月の中で人から人へ受け継がれてしまった「何か」なのか――。
これは、神宝町にある名もない相談所を訪れた、一人の母親の物語です。
※本作はフィクションです。実在する人物・団体・宗教とは一切関係ありません。
「うちの娘が、夜中に起きて、宿題をやり直すんです」
紹介してくれたママ友は、
「胡散臭いけど、本物」
とだけ言った。
神宝町のはずれにある、レンガ造りのビルの十階。
看板も表札もない部屋に、煙草のにおいとエアコンの低い唸りがこもっていた。
机の向こうにいたのは、思っていたよりずっと若い男だった。
二十代の半ば。
よれたアロハシャツ。
痩せて肌が白い。
目は糸のように細い。
こんな子に三万円も払うのかと、正直、帰りたくなった。
「やり直す」
男が言った。
気のない声なのに芯があった。
「終わった宿題を、もう一回」
「ええ。一度、丸をつけて、寝かせたのに。夜中に起きて、消しゴムで全部消して、はじめからやるんです」
「何回」
「……三回でした。最初は。でも先週から、終わらなくなって」
煙がまっすぐ天井へのぼっていく。
男は目で追いもしない。
「丸は、誰がつけました」
「わたしです。百点だったから、花丸を」
「なるほど」
遮るように言った。
「じゃあ、娘さんは、その花丸を信じてない」
エアコンの唸りが、急にうるさく聞こえた。
「あと、ひとつだけ」
わたしは言い添えた。
「あの机、母の形見なんです。捨てられなくて、娘に使わせて」
男の細い目が、ほんの少しだけ動いた気がした。
「霊とか、視えるんですか」
男は初めてこちらを向き、糸目のまま薄く笑った。
食えない笑い方だった。
「視えます。でも、ぼくの商売はそっちじゃない」
煙草を灰皿に押しつける。
「物に、しみこんだ手つきです」
「手つき」
「人が同じことを同じ場所で何千回もやると、やり方のほうが形になる」
彼はまっすぐわたしを見た。
「机に、座った人の手つきが残るんです。いい手つきも、よくない手つきも」
「よくない」
「直させる手つき、っていうのも、ある」
言い方が事務的すぎて、聞き流しそうになった。
聞き流せなかったのは、そのあと彼がひとことも喋らなかったからだ。
「机、見せてください」
男は立ち上がった。
「先に言います。安くないですよ」
胡散臭い、と思った。
思いながら、わたしはもう頷いていた。
うちは古い団地の三階だ。
母が死んでから、形見の学習机だけを娘の部屋に入れた。
木の天板に、こまかい傷がある。
母が「気が散るから」と、窓に背を向けて置かせた机だ。
部屋に入ると、男は机の前で足を止めた。
「窓に、背を向けてる」
「母が、そう置けって。よそ見をするからって」
「よそ見じゃない」
彼は天板を見て、それきり黙った。
見たくないものを見た、という目だった。
天板の隅が、白くすり減っていた。
誰かが何十年も、同じ場所を消しゴムで擦り続けたみたいに。
「お母さん、ここに座らせてたんですよ。あなたを」
引き出しを開けると、赤ペンが何十本も入っていた。
乾いて、もう書けないものまで、捨てずに。
「お訊きしますけど」
彼は机を見たまま言った。
「この机で百点を取ったこと、ありますか」
背中が冷たくなった。
「……あります。何度も」
喉が渇いた。
「でも母は、百点でも、まだ上があるって。一度も、花丸はくれませんでした」
「でしょうね」
彼は静かに言った。
「この机は、合格を知らない」
机の脚のあたりで、こつ、と小さな音がした。
「呪いとか、たたりとか、そういうのじゃない」
彼は煙草をくわえたが火はつけない。
「お母さんが、何千回も、あなたに『やり直し』をさせた。終わらせなかった。だから机が、それを覚えてる。座った子に、同じことをするんです。何回でも」
「そんな」
「で、半分は、机じゃない」
彼の声が低くなる。
「あなたが娘さんに花丸をつけた。けど、あなた自身が、その花丸を信じてない。百点でもまだ足りないって、心のどこかで思ってる。お母さんに、そう刷り込まれたから」
わたしは、母の赤ペンを思い出した。
何百という、丸にならなかった丸を。
「子どもは、点より、親の顔を見ます」
彼は天板を見下ろした。
「あなたが『まだ足りない』って顔で花丸をつければ、その花丸は嘘になる。机は、その嘘につけこむんです」
「嘘」
「本物の花丸を一度ももらってない人は、つけ方を知らない。あなたのせいじゃない。でも、娘さんに渡るのは、あなたの手からです」
「じゃあ、娘は」
「いまは机に『まだ足りない』って言われてる。あなたが信じてやらないと、机のほうが勝ちます」
また、こつ、と鳴った。
それきり、しんとした。
「先生は」
わたしは、つい訊いた。
「こういうの、よく分かるんですね」
男は、すこし黙った。
「打ち明けたときに、悲しそうな顔をされたことが、あって」
糸目のまま言った。
「あれは、効くんですよ。何年でも」
それ以上は、言わなかった。
「呪いとか、たたりとか、そういうのじゃない」
彼は煙草をくわえたが、火はつけない。
「お母さんが、何千回も、あなたに『やり直し』をさせた。終わらせなかった。だから机が、それを覚えてる。座った子に、同じことをするんです。何回でも」
「そんな」
「で、半分は、机じゃない」
彼の声が低くなる。
「あなたが娘さんに花丸をつけた。けど、あなた自身が、その花丸を信じてない。百点でもまだ足りないって、心のどこかで思ってる。お母さんに、そう刷り込まれたから」
わたしは、母の赤ペンを思い出した。
何百という、丸にならなかった丸を。
「子どもは、点より、親の顔を見ます」
彼は天板を見下ろした。
「あなたが『まだ足りない』って顔で花丸をつければ、その花丸は嘘になる。机は、その嘘につけこむんです」
「嘘」
「本物の花丸を一度ももらってない人は、つけ方を知らない。あなたのせいじゃない。でも、娘さんに渡るのは、あなたの手からです」
「じゃあ、娘は」
「いまは机に『まだ足りない』って言われてる。あなたが信じてやらないと、机のほうが勝ちます」
また、こつ、と鳴った。
それきり、しんとした。
「先生は」
わたしは、つい訊いた。
「こういうの、よく分かるんですね」
男は、すこし黙った。
「打ち明けたときに、悲しそうな顔をされたことが、あって」
糸目のまま言った。
「あれは、効くんですよ。何年でも」
それ以上は、言わなかった。
彼の祓いは、拍子抜けするほど静かだった。
机を、窓のほうへ向けた。
「背を向けさせるから、追い詰められる。外を見させるんです」
引き出しを全部開けて、乾いた赤ペンを、一本残らず出した。
それから、小瓶の粗塩を手のひらに出して、握った。
汗で溶かし、すり減った天板の隅を、一周なぞった。
投げない。
撒かない。
ただ、指でなぞる。
「これで、机の手つきを、いったんぼかします」
彼は言った。
「でも、消えはしない。あなたがまた『まだ足りない』って顔をすれば、戻る」
最後に、無地のカードを一枚、わたしに渡した。
「ここに、娘さんへ。点じゃなく、あなたの言葉で一言」
ペンを持つ手が震えた。
三十年、わたしは誰にも丸をもらったことがない。
だから、つけ方も知らなかった。
わたしは、書いた。
「百点じゃなくても、好きだよ」
書いた瞬間、机の奥で、ことり、と音がした。
すり減った天板の白さが、ほんの少しだけ、薄れて見えた。
「祓ってくれた、ってことですか」
「ぼくは、開けて、撫でて、あなたに書かせただけです」
彼は立ち上がった。
「花丸をつけるのは、あなた。毎日、自分の手で。ぼくがやったから、つくんじゃない」
帰り際、彼は玄関で靴を履きながら、背を向けたまま言った。
「ひとつ。あなたも、自分に花丸をつけてください」
「……わたしに?」
「子どもは、親の点の付け方を覚えるんです。あなたが自分に×をつけ続けると、娘さんも、いつか同じことを」
それだけ言って、戸を開けた。
外の風が、部屋の古い紙のにおいを、すこし押し流した。
ドアが閉まり、煙草のにおいだけが残った。
その夜、娘は机をやり直さなかった。
窓のほうを向いた机で、絵を描いていた。
下手くそな、花の絵だった。
わたしはその隅に、大きな花丸をつけた。
赤ペンで。
手が、震えた。
三十年、誰もわたしにつけてくれなかった丸を、自分の手で。
そして神宝町では、たぶん、あの若い拝み屋が、まだ誰にも花丸をもらえないまま、煙草を吸っているはずだ。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、怪異を倒す話ではなく、人の心や長い年月で積み重なった「手つき」と向き合う物語として書いています。
神宝町には、今日もまた誰かが相談に訪れ、誰かが少しだけ前を向いて帰っていきます。
また次の物語でお会いできれば幸いです。





