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燃えカスの守り人 外伝  作者: K3
燃えカスの守り人 外伝「犬神村事件」

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1/20

第1話 ——神宝町の依頼人

「燃えカスの守り人」外伝・開幕です。

神宝町に拠点を構える「気づかせ屋」、佐藤士恩(ジオン)

普段は煙草を吹かし、糸目で笑うふつうのおじさんに見える彼が、

2004年の夏、京都の千年の陰陽師の家系と交錯する——

本編とは別軸の独立した外伝です。

本編を読んでいなくても、こちらから入っていただけます。

それでは、本編をお楽しみください。

 夕方の神宝町には、もうお盆前の空気が漂っていた。

 

 夏はまだ終わっていない。

 

 けれど、空の青だけが、ほんの少し深くなっている。

 

 二〇〇四年、八月初旬。

 

 去年と同じ夏。

 

 けれど、去年とは、違う。

 

 わたしは、慈恩・オフィスの応接ソファに、足を組んで座っていた。

 

 開いたノートを、ぼんやり眺める。

 

 数学の問題集。

 

 「二次方程式の解の公式」。

 

 うーん、めんどくさい。

 

 マジで、めんどくさい。

 

 なんで夏休みに、こんなのやらないといけないんだろう。

 

 いや、宿題だから、なんだけど。

 

 ……いや、ガチで、なんで?

 

 頭の中でぐるぐる考えながら、ペンを、くるくる回した。

 

 ふと、奥の部屋へ目を向ける。

 

 ジャラーン、と小さくコードが鳴った。

 

 翔太さんだ。

 

 慈恩の事務所の奥に住み始めて、もう一年になる。

 

 ギターを練習している音だ。

 

 でも、去年とはまるで違う。

 

 あ、また新しい曲。

 

 去年の夏の翔太さんは、「歌なんてやめる」と、二十回くらい口にしていた人だった。

 

 今の翔太さんは、もう違う。

 

 来年の春には、カナダへ行くらしい。

 

 朝日海さん——「先輩」と呼びながら慈恩さんに懐いている若い社長——が、全部手配したのだと聞いた。

 

 「Tide Records」。

 

 『潮』という意味の、新しいレーベル。

 

 そこから翔太さんは、世界へ出ていく。

 

 一年で、こんなに変わるんだ。

 

 ホント、マジで、ヤバい。

 

 いや、ヤバいって、いい意味で。

 

 うん、いい意味で。

 

 わたしは、そう思った。

 

 そして、カウンターの向こうへ、視線を移す。

 

 慈恩さんは、いつものように、椅子に沈み込んでいた。

 

 本を読んでいる。

 

 細い糸目。

 

 柔らかい口元。

 

 カウンターの隅には、アースクエイクのグラス。

 

 氷が、カラン、と鳴る。

 

 慈恩さん、相変わらず。

 

 一年たっても、なーんにも変わってない。

 

 ……いや、待って。

 

 ホントに、なーんにも、変わってない?

 

 ……うん、変わってない。

 

 マジで、変わってない。

 

 去年の夏、初めて出会った時と、まるで同じ姿勢。

 

 同じ糸目。

 

 同じグラス。

 

 でも、わたしは知っている。

 

 その糸目の奥に、本気の光が隠れていることを。

 

 去年の夏、楽器屋のおじさんに向けた、人を殺せそうな目。

 

 そして、本気で誰かを信じる時の、優しい目。

 

 全部、ちゃんとそこにある。

 

 慈恩さんは、ぐったりしているように見えて、いつだって、ここにいる。

 

 変わらないんだ。

 

 変わるのは、わたしと翔太さんのほう。

 

 慈恩さんは、ずっと、ここにいる。

 

 そう思うと、わたしは、少しだけ笑ってしまった。

 

 その時、慈恩が、本のページを、めくる。

 

『……ちーちゃん、少し大人びたな』

 

 慈恩は、

 

 わたしは、それを、知らない。

 

「ちーちゃん、宿題、進んでますか?」

 

 本から目を上げないまま、慈恩が言う。

 

「あー……ぼちぼち」

 

「はい、はい」

 

「慈恩さんも、本、進んでます?」

 

 慈恩さんは、ページから目を上げない。

 

「あー、まあ、ね」

 

「なに読んでるの?」

 

「あー、まあ、ね」

 

 ……出た。

 

 煙に巻かれた。

 

 ガチで、いつもの。

 

 わたしは、また笑う。

 

 去年の夏、初めて会った時は、この「あー、まあ、ね」がよく分からなかった。

 

 でも今は分かる。

 

 「あー、まあ、ね」=「答えたくないけど、ちーちゃん相手だから、怒られたくない」。

 

 たぶん。

 

 いや、絶対。

 

 うん、絶対。

 

 そんなことを思いながら、再びノートへ目を戻す。

 

 二次方程式の解の公式。

 

 x = (-b ± √(b² - 4ac)) / 2a。

 

 マジで、誰が考えたんだろう、こんなの。

 

 いや、たぶんガウスとか、そういう人。

 

 うん、ガウスだ。

 

 ……ガウス、だっけ?

 

 奥の部屋から、またジャラーンとコードが鳴った。

 

 夕方の神宝町。

 

 二度目の夏。

 

 平和だなぁ。

 

 そう思った、その瞬間。

 

 事務所の黒電話が、鳴った。

 

Part 2 ——電話

 

 ジリリリリ。

 

 古い黒電話の、低い音。

 

 わたしは、ペンを止めた。

 

 慈恩さんも、本から顔を上げる。

 

 奥の部屋のギターの音も、止まった。

 

 事務所の空気が、一瞬で、変わる。

 

 あれ?

 

 なんか、空気、変わった?

 

 ……気のせい?

 

 いや、絶対、変わった。

 

 慈恩さんは、本を、静かに閉じた。

 

 立ち上がりもせず、長い腕を伸ばして、受話器を取る。

 

「あー、慈恩・オフィスでーす」

 

 いつもの、間延びした声。

 

 でも、わたしは、見ていた。

 

 糸目の奥が、ほんの少しだけ、動いたことを。

 

 ……あ。

 

 知ってる相手だ。

 

 慈恩さんが、こう、ちょっとだけ目を開く時。

 

 マジで、知ってる人の時、なんだよね。

 

「あー、はい、お久しぶりです」

 

「はい、はい」

 

「お元気そうで」

 

 わたしは、ペンを置いた。

 

 こんな話し方をする相手は、限られている。

 

 しかも、少しだけ、丁寧だ。

 

 ……あ。

 

 お祖父ちゃんだ。

 

 このビルのオーナー。

 

 慈恩さんの大家。

 

 そして——慈恩さんに、わたしの命を、救ってもらった人。

 

 十二歳の頃、わたしは、慈恩さんに、出会った。

 

 何があったのか、細かいことは、覚えていない。

 

 けれど祖父は、酒を飲むたびに、口にする。

 

「孫の命の恩人だ」

 

「家賃を全部免除しても足りん」

 

 そう言っていた。

 

 そんな孫煩悩からの、電話だ。

 

「はい、はい」

 

「あ、それは、ご無事で何より」

 

「えっ?」

 

 慈恩さんの声が、少し、変わった。

 

「それは……」

 

 言葉を、切る。

 

 わたしは、思わず息を、止める。

 

 え。

 

 慈恩さんの「えっ?

 

 」、初めて聞いた、かも。

 

 いや、初めてじゃない、けど。

 

 ……いや、初めて、かも。

 

 ガチで、初めて、かも。

 

「いつですー?」

 

「……はい」

 

「人数、教えてもらえますー?」

 

「……はい」

 

 慈恩さんの相槌が、だんだん、短くなる。

 

「はい、はい」

 

「現地、誰か入ってますー?」

 

 あ。

 

 わたしは、思った。

 

 ヤバい話だ。

 

 マジで、ヤバい話だ。

 

「人数」って、言った。

 

「現地」って、言った。

 

 ……これ、ヤバい話、確定。

 

 奥の部屋から、翔太さんが、そっと顔を出す。

 

 目が、合った。

 

『……これ、ヤバいやつだろ』

 

 翔太さんは、そう、思っていた。

 

 同じ顔を、していた。

 

 あ。

 

 翔太さんも、ヤバいって、思ってる。

 

 ガチで、思ってる。

 

 無言で、頷き合う。

 

「あー、まあ、ね」

 

 慈恩さんが、長く、息を吐いた。

 

「ちょっと、考えさせてください」

 

 受話器が、置かれる。

 

 事務所は、静まり返る。

 

 しばらくして、慈恩さんが、ぽつりと言う。

 

「あー、めんどくさいですねー」

 

 出た。

 

 わたしは、心の中で、呟く。

 

 慈恩さんの「めんどくさい」には、二種類ある。

 

 本当に、面倒な時。

 

 そして、本当に、ヤバい時。

 

 今のは——後者、だった。

 

 うん、後者。

 

 マジで、後者。

 

 ガチで、後者。

 

 ……これ、夏、終わるかも。

 

 その時、慈恩が、もう一度、息を吐く。

 

『……人が死んでる』

 

 わたしは、それを、知らない。

 

Part 3 ——いらぬ

 

「翔太さん、ちょっと外、出ますー?」

 

 慈恩さんが、奥の部屋へ向かって、声をかけた。

 

 翔太さんは、頷く。

 

「あ、はい」

 

「ちーちゃんも、よかったら宿題、別の部屋でー」

 

「うん」

 

 わたしは、ペンを、ノートに、はさんだ。

 

 あ。

 

 これ、わたしたちに、聞かれたくない話だ。

 

 たぶん、お祖父ちゃんが、もう一回来る。

 

 直接。

 

 だから、二人とも、外してってことなんだ。

 

 ……うん、絶対そう。

 

 そう、察した。

 

 翔太さんは、ギターをケースにしまい、立ち上がる。

 

 わたしも、ノートを抱えて、腰を上げる。

 

 翔太さん、外で何するんだろう。

 

 あの人、最近、慈恩さんに、いろいろ任されてるもんね。

 

 わたしは、別の部屋で、宿題、か。

 

 ……まあ、夏休みの宿題、たまってるし。

 

 その時。

 

 ——ポーン。

 

 事務所の入口で、来店を告げる、軽い電子音が、鳴った。

 

 慈恩・オフィスは、いま、ビルの一階。

 

 ふらりと来る相談者も、いる。

 

「あ、お客さんかな」

 

 翔太さんが、ぼそ、と、言った。

 

 ギターケースを、また、置く。

 

「すみません、俺、こっち手伝います」

 

「あー、悪いねー」

 

 慈恩さんが、軽く、手を上げる。

 

 翔太さんは、入口の方へ、向かった。

 

 わたしは、ノートを抱えたまま、立ち尽くした。

 

 あ。

 

 翔太さん、お客さん対応か。

 

 わたし、ひとりで別の部屋。

 

 ……まあ、いつものことだけど。

 

 でも。

 

 ちょっとだけ、つまんない。

 

 ふと、慈恩さんを、見る。

 

 慈恩さんは、椅子に沈んだまま、糸目で、こちらを見ていた。

 

 その目の奥が、わたしの気持ちに気づいているように、見えた。

 

 あ。

 

 慈恩さん、気づいてる。

 

 マジで、気づいてる。

 

 ガチで、気づいてる。

 

『……ま、物騒な話、聞かせたかねぇしなー』

 

『……ま、巻き込みたくねぇんだよなー、二人とも』

 

 わたしは、ノートを、抱え直した。

 

 そして、

 

「慈恩さん」

 

「はい?」

 

「わたし、外、行かない」

 

「え?」

 

「翔太さんも」

 

「え?」

 

 翔太さんが、わたしを、見る。

 

 わたしは、目だけで、合図した。

 

 ね、行かないでしょ?

 

 翔太さんは、ふっと、笑った。

 

 その目に、迷いはなかった。

 

「あー、慈恩さん」

 

「はい?」

 

「俺も、外、行かないです」

 

「えっ」

 

 慈恩さんが、珍しく、戸惑った声を、出す。

 

「えっと……あの、お話、別に聞かせたくないわけじゃ、ないんですけど」

 

「うん」

 

「面倒、かけたくないっていうかー」

 

「慈恩さん」

 

 わたしは、まっすぐ、慈恩さんを、見た。

 

「お祖父ちゃんの話なら、わたし、聞きたい」

 

「えっ」

 

「お祖父ちゃんが、慈恩さんに、何を頼んだのか、知りたい」

 

 慈恩さんは、すぐには、答えなかった。

 

「あー、まあ、ね」

 

「翔太さんも、ね」

 

「はい。俺も、聞きたいです」

 

「えっと」

 

 慈恩さんが、少しだけ、糸目を、開く。

 

 しばらく考えてから、おじいちゃんの真似をして、

 

「いらぬ」

 

 と、言った。

 

「えっ?」

 

「『気を遣わなくていいですー』って、意味ですー」

 

「うん」

 

「ぼく、こういう話に、人を、巻き込みたくないんです」

 

「うん」

 

 慈恩さんの声が、少しだけ、柔らかくなる。

 

「だから、ちーちゃんもお兄さんも、外行ってきてくださーい」

 

「いらぬ」

 

 わたしが、その言葉を、そのまま、返す。

 

「えっ?」

 

「『気を遣わなくていいですー』って、意味です」

 

 慈恩さんが、ぱちりと、瞬きを、する。

 

「ちーちゃん」

 

「うん」

 

「ぼく、めんどくさいの嫌いって、知ってますよねー」

 

「知ってる」

 

「で、ぼく、めんどくさい話を人に聞かせたくないって、もう千回くらい言ってますー」

 

「知ってる」

 

 慈恩さんは、ほんとに、めんどくさそうだった。

 

「だから、ね」

 

「うん」

 

「だから、聞かせて」

 

 わたしは、笑った。

 

「慈恩さんが『めんどくさい』って言う時って、ヤバい時でしょ? それ、わたし、知ってる」

 

「うっ」

 

「ヤバい時に、慈恩さんを一人にしないって、わたし決めてるの」

 

「うっ」

 

「お祖父ちゃんの話なら、なおさら」

 

 慈恩さんは、しばらく、わたしを、見ていた。

 

 それから、ふっと、ため息を、つく。

 

『……敵わねぇな、この子には』

 

「ちーちゃんは、ほんと、頑固でー」

 

「慈恩さんに、似たんですよ」

 

「うっ」

 

「お兄さんも、頑固で」

 

 翔太さんが、笑う。

 

「慈恩さんに、似たんですよ、俺も」

 

「うっ」

 

 慈恩さんは、糸目のまま、両手を、軽く上げる。

 

「分かりました。ぼくの、負けですー」

 

「えへへ」

 

「ちーちゃんも、お兄さんも、座ってねー」

 

「はい」

 

「はい」

 

 わたしは、ノートをソファに戻す。

 

 翔太さんも、ギターケースを置いて、椅子を引いた。

 

 事務所に、また、三人。

 

 でも、空気は、さっきまでとは、違っていた。

 

 わたしたちは、慈恩さんを、一人にしない。

 

 慈恩さんに、世界へ出してもらった、わたしたちが。

 

 今度は、わたしたちが、支える番。

 

 わたしと翔太さん、二人で。

 

Part 4 ——(はじめ)の来訪

 

 それから一時間後。

 

 事務所のガラス扉が、コン、コン、とノックされた。

 

「あー、開いてますー」

 

 慈恩が、いつもの調子で答える。

 

 ドアが、ゆっくり開いた。

 

 入ってきたのは、白髪の品のある老人。

 

 七十四歳。

 

 紺色のサマージャケット。

 

 きちんと結ばれたネクタイ。

 

 お祖父ちゃん。

 

 わたしは、立ち上がった。

 

「お、来て——あ、いや」

 

 老人は、何か言いかけて、口をつぐむ。

 

「ちーちゃん、来てたか」

 

「うん。夏休みだから」

 

「そうか、そうか」

 

 老人は、ふっと、笑った。

 

 そして、慈恩へ、深く頭を下げる。

 

「慈恩君、すまんね、急に」

 

「あー、いえいえ。お元気そうで」

 

「腰がちょっと、痛いがな」

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫、大丈夫。ところで」

 

「慈恩君、こちらは?」

 

 老人が、翔太さんを見る。

 

「あー、こちら三浦翔太。ぼくが預かってる若手の歌手さんです」

 

「はじめまして、三浦翔太です」

 

 翔太さんが、深く、頭を下げた。

 

 老人は、しばらく、翔太さんを見つめていた。

 

 やがて、ふっと、目を細める。

 

「君、目が、いいな」

 

「えっ?」

 

「地獄から戻ってきた、目だ」

 

 翔太さんが、息を、止めた。

 

『……この人、見えてる』

 

『……この人は、いろいろな人を、見てきたんだ』

 

 あ。

 

 お祖父ちゃん、人の奥が見える人だ。

 

 マジで、見える人だ。

 

 わたしは、思う。

 

 祖父には、霊感がある。

 

 でも、人前では、絶対に、それを、口にしない。

 

 ただ、たまに、こうして、漏れる。

 

「慈恩君が地獄から連れ戻したんだな」

 

「あー、いえ、ぼくは何も」

 

「いやいや。慈恩君が戻したから、この若いのがこうして立ってる」

 

「あー、まあ、ね」

 

 老人はもう一度、翔太さんへ軽く頭を下げる。

 

「君、いい歌を歌うんだろう」

 

「えっ」

 

「慈恩君が手放さず、預かってるってことは、そういう若者だってことだ」

 

「……」

 

「頑張りなさい」

 

「はい」

 

 翔太さんは、ぐっと、頭を下げた。

 

 その目には、少しだけ、涙が、浮かんでいた。

 

 あ、翔太さん、感動してる。

 

 マジで、感動してる。

 

 お祖父ちゃん、慈恩さんと、同じだ。

 

 人を、見抜く人。

 

 わたしは、少し、誇らしかった。

 

「で、慈恩君」

 

 老人は、慈恩へ、向き直る。

 

「電話で話した件なんだが」

 

「はい」

 

「直接来た方が早いと思ってな」

 

「ええ?」

 

「ええ」

 

 慈恩が、ふっと、息を、吐いた。

 

「すまんが、座らせてくれ。腰が痛い」

 

「あー、どうぞどうぞ」

 

 老人は、ソファに、腰を、下ろした。

 

 しばらく、目を瞑って黙っている。

 

 それから、ふっと、息を、吐く。

 

「ときに、慈恩君」

 

「はい」

 

「君に、頼みたい事がある」

 

「はい」

 

 老人の声が、ふいに、低くなった。

 

「儂の同級生に、久能、っていう男がおってな」

 

「はい」

 

「いま、与党の議員をやっとる」

 

 わたしは、ノートのことを、すっかり忘れて、聞き入っていた。

 

「議員さん、ですか」

 

「ああ。あいつの孫娘——いや、晩年にできた愛娘なんだが」

 

「はい」

 

「美咲、っていう。十六歳だ」

 

「美咲ちゃん」

 

「そうだ」

 

 老人は、そこで一度、言葉を切って、低い声で、言った。

 

「行方不明だ」

 

 事務所が、しんと、静まる。

 

 ……えっ。

 

 行方不明?

 

 ……マジで?

 

「いつから、ですか」

 

「三日前」

 

「場所は」

 

「愛媛、石鎚山系の、廃村」

 

 廃村、という響きが、耳の奥に、ざらりと、残った。

 

「廃村」

 

「犬神村、っていう」

 

「犬神」

 

 慈恩が、糸目を、ふっと、開いた。

 

『……あの犬神大明神か』

 

 あ、慈恩さん、知ってる。

 

 マジで、知ってる目だ。

 

 老人は、続けた。

 

「美咲は、彼氏と暴走族の仲間と四人で、肝試しに行ったらしい」

 

「はい」

 

「……で、戻ってきたのは、三人。美咲は、戻らなかった」

 

「!」

 

 思わず、声が出た。

 

 えっ。

 

 美咲ちゃん、行方不明?

 

 ……ガチで?

 

 老人は、ちらりと、わたしを見た。

 

「怖い話をして、すまんな、ちーちゃん」

 

「……大丈夫」

 

「戻ってきた、十七歳の彼氏——隼、っていうんだが」

 

「はい」

 

「血まみれだった、らしい」

 

 血、って。

 

 わたしは、膝の上で、手を、握った。

 

「美咲ちゃんは、その時、どこに」

 

「廃村のどこか、らしい」

 

 慈恩さんは、何も言わずに、聞いている。

 

「遺体は」

 

「ない」

 

「……ないんですか」

 

「ああ」

 

 慈恩は、目を、閉じた。

 

 しばらく、沈黙が、流れる。

 

『……死体がない、ってことは、異界か……最悪……』

 

「久能さん、警察、呼んでないんですか」

 

「呼んだ。だが、警察は現地に入れない」

 

「入れない」

 

「正確には、入って出てきた。だが、何も見つからない」

 

 慈恩が、糸目で、ふっと、頷く。

 

「地元の消防団も、青年団も、同じだ」

 

「……」

 

「神社の宮司にも頼んだが、駄目だった」

 

「……」

 

 老人は、低く、続けた。

 

「久能のやつ、『他にも手は打ってる』と言っていた」

 

「はい」

 

「だが、それが上手くいくかどうかは、分からん」

 

 老人の声に、疲れが、滲んでいた。

 

「はい」

 

「だから、儂にも頭を下げてきた」

 

「ああ」

 

「で、ぼくに声がかかった、と」

 

「そういうことだ」

 

 老人は、深く、頭を下げる。

 

「慈恩君、頼む」

 

 事務所が、また、静まる。

 

 慈恩は、目を、閉じる。

 

 しばらく、黙っていた。

 

 それから、ふっと、目を、開いた。

 

 ——糸目では、ない。

 

 本気の目。

 

『……はじめさんの頼み、断れねぇしな』

 

 慈恩は、

 

 わたしは、それを、知らない。

 

 しかし、感じていた。

 

 あ。

 

 慈恩さん、もう決めてる。

 

「はじめさん」

 

「ああ」

 

「行きます」

 

「すまん」

 

「いえ」

 

 慈恩は、ふっと笑い、いつもの糸目に戻った。

 

「確認、いくつか」

 

「ああ」

 

「さっき、久能さんが『他にも手を打ってる』っておっしゃってましたよねー」

 

「ああ」

 

「あれ、たぶん、政府筋ですよねー」

 

 老人は、ふっと、目を、開く。

 

「お前さん、何か、知ってるのか」

 

「いえいえ、何もー」

 

 慈恩は、糸目で、ふっと、笑った。

 

「ただ、こういう案件、政府が動くなら、ぼくの前に、誰か入ってるはずです」

 

「ふむ」

 

「もし、ぼくの前に入ってる人がまだ現地にいたら、連携します」

 

「分かった」

 

「いなかったら、いなかったで、ぼく一人で、片付けますー」

 

 ぼく一人で、と慈恩さんは、こともなげに、言った。

 

「分かった」

 

「で、もう一つ、よろしいでしょうか」

 

「ああ」

 

「久能さんに、こうお伝えください」

 

「ああ」

 

 慈恩さんは、指を、一本、立てた。

 

「警察を、もう一度入れていただきたい、と」

 

「警察? もう、入ったぞ」

 

「ぼくが行く時に、現場が保全されている方が、ありがたいんですよ」

 

 間延びした声のまま、でも、中身は、ひどく的確だった。

 

「ああ」

 

「捜査ではなく、保全のみで、結構です」

 

「分かった、伝えよう」

 

「で、もう一つ、お願いがあります」

 

「ん?」

 

 老人が、ちょっと、首を、傾げる。

 

「その彼氏くん、現地にもう一度、来させてくれません?」

 

「彼氏? あいつ、もうこりごりって本人は言ってるらしいが」

 

「無理にとは言いませんが、彼の話、お聞かせいただきたいんです」

 

「分かった、それも久能に伝えよう」

 

 慈恩さんは、もう、段取りを、組み始めている。

 

「あ、はじめさん」

 

「ん?」

 

「彼氏くんのお名前、お教えいただけますか」

 

「ああ、すまん、言い忘れた。隼っていう十七歳らしい」

 

「隼くん、ですねー」

 

「ありがとうございます」

 

 老人は、深く、息を、吐いた。

 

「いつ、出る?」

 

「あー、明日の午後、ですかねー」

 

「ありがとう、慈恩君」

 

「いえいえ」

 

 老人は、ゆっくりと、立ち上がる。

 

「腰が痛いから、もう帰る」

 

「あー、お気をつけて」

 

「ちーちゃん」

 

「うん」

 

「夏休み、楽しめよ」

 

「うん」

 

 老人は、わたしの頭を、ふっと、撫でた。

 

『……この子だけは、巻き込むなよ、慈恩君』

 

 ただ、撫でられた頭が、少しだけ、温かかった。

 

 老人は、翔太さんにも、もう一度、頭を、下げる。

 

「君も、頑張れよ」

 

「はい」

 

 そして、出ていった。

 

 事務所に、再び、三人。

 

 わたしは、慈恩を、見た。

 

 糸目の奥が、また、開いている。

 

 本気の目。

 

「慈恩さん」

 

「はい?」

 

「行くんだよね、愛媛」

 

「ええ」

 

「危ないよね」

 

 慈恩さんは、否定、しなかった。

 

「あー、まあ、ね」

 

「わたし、ついて行く」

 

「えっ?」

 

 翔太さんも、わたしを、見た。

 

「ちーちゃん、これは……」

 

「慈恩さん」

 

「はい」

 

「お祖父ちゃんの、頼み、なんだから」

 

「うん」

 

「孫の、わたしも、関係あるの」

 

 わたしは、引かなかった。

 

「うん」

 

「だから、ついて行く」

 

 慈恩が、ふっと、糸目を、開いた。

 

 そして、おじいちゃんの真似をして、

 

「いらぬ」

 

 と、はっきり、言った。

 

「これは、いらぬ、です」

 

「えええ」

 

「ちーちゃん、まだ十四歳です」

 

「うん」

 

「で、たぶん、惨殺現場、見ますよ。怖いお化けも、出ます」

 

 惨殺現場。

 

 お化け。

 

 それでも、足は、引っ込まなかった。

 

「……うん」

 

「それ、見てもいい?」

 

「……うん」

 

 慈恩が、ふっと、ため息を、つく。

 

「お祖父ちゃんの依頼なんですよ、これは」

 

「うん」

 

「ぼくが、ちーちゃんを守る義務、あるんです」

 

 守る義務、なんて言われると、弱い。

 

「うん」

 

「危ない場所に連れて行ったら、お祖父ちゃんに、ぼく殺されちゃいまーす」

 

「あ」

 

「ね」

 

 わたしは、口を、つぐんだ。

 

 たしかに。

 

 お祖父ちゃん、わたしを危ない目に合わせる人、嫌いだ。

 

「だから、ちーちゃん、神宝町で待ってて、もらえますか」

 

「……うん」

 

「お兄さんも」

 

「俺も?」

 

「はい、お兄さんも神宝町でお留守番、お願いしますね」

 

「……」

 

 翔太さんは、ぐっと、唇を噛んだ。

 

『……慈恩さん、一人で行かせたくない』

 

 わたしは、それを、知らない。

 

 しかし、感じていた。

 

 あ。

 

 翔太さん、行きたい、って思ってる。

 

 でも、ついて行ったら、邪魔にしかならないって、分かってる。

 

「お兄さん」

 

「……はい」

 

「気持ちは、嬉しいです」

 

「……はい」

 

「でも、ね」

 

「分かってます」

 

 翔太さんが、ふっと、息を、吐いた。

 

「足手まといにしか、ならないことくらい」

 

「あー、まあ、ね」

 

「だから、行かない、です」

 

「すみません」

 

「いえ」

 

 翔太さんは、首を、横に、振る。

 

「慈恩さん」

 

「はい?」

 

「絶対、無事に、帰ってきてください」

 

「はい」

 

「絶対です」

 

 慈恩は、糸目で、ふっと、笑った。

 

「分かってます」

 

「お兄さん、ちーちゃん」

 

「はい」

 

「うん」

 

「ぼく、めんどくさいの、嫌いなんで」

 

「うん」

 

 慈恩さんは、いつもの、糸目に戻っていた。

 

「ちゃっちゃと片付けて、帰ってきます」

 

 わたしは、ぐっと、頷いた。

 

 翔太さんも、頷いた。

 

 事務所に、夕暮れの光が、静かに傾く。

 

 窓から差す橙色が、慈恩さんの横顔を、淡く撫でる。

 

 夏は、まだ、息をしている。

 

 けれど、慈恩さんは、明日、行く。

 

 愛媛の、忘れられた廃村へ。

 

 夏は、終わらない。

 

 けれど、夏の奥で——

 

 慈恩さんは、何かを、終わらせに行く。

 

 本気で、終わらせに。

 

 わたしは、それを、感じた。

 

 胸の奥で、ひとつ、光が揺れた。

 

 慈恩さん。

 

 絶対に、帰ってきて。

 

 わたしたちの、町に。

 

  ◆◇

 

 翌朝。

 

 翔太さんが、わたしの隣に、腰を下ろす。

 

「ちーちゃん」

 

「うん」

 

 翔太さんは、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、ゆっくりと、訊いた。

 

「慈恩さんさ、帰ってきたとして」

 

「うん」

 

「前の慈恩さんと、同じ慈恩さんだと思うか」

 

 わたしは、答えられなかった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。



次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


Nolaノベル

黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】


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