金色のお力
月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
Part 5 ——たまたま
わたくしが、目を閉じた、その時。
「しずまれ」
声が、聞こえた。軽い声。ふっと、煙草を吹かすような声。
!
ぱきん。何かが、砕けた。ぐらり、と、世界が揺れた。
目を開けた。
……?
犬神大明神の口が、開いたまま、止まっていた。赤い目がぱちりと開いたまま、止まっていた。
廃村の四方の赤い目が、すべてぴたりと止まっていた。時間が止まった、ように。風が止まった。地面が静かになった。
……? 犬神大明神様、止まっていらっしゃる?
そして、社の跡の向こうから、ぷらり、ぷらり、と、人影が歩いてきた。糸目。アロハシャツ。サンダル。煙草を、ぼんやり吹かしている。
「いやー、すみません、遅くなりました」
……。ジオン、様?
ぽかんと口を開けた。
なぜ、慈恩様が、ここに? 異界に? どうやってお入りに?
いえ、それより、犬神大明神様、なぜお止まりに?
慈恩様の「しずまれ」? あれ、なに? え?
慈恩は、ぷらりぷらりと、わたくしの近くまで歩いてきた。
「お嬢さん、ご無事、でしたか」
「あ……はい」
「美咲さん、抱いていらっしゃいますね」
「は、はい」
「お役目、立派、でしたね」
「……」
慈恩が糸目でぼんやりと笑った。そして、わたくしの様子を見て、ふと目を細めた。
セーラー服は、もう跡形もなかった。襟の白いラインも、袖も、裾も、繊維の最後の一筋までほどけて、空気に消えていた。
腰に、ベルトだけが、残っていた。折れた桃木剣の柄が、ぶら下がっている。
大津家の守りは、いま、何ひとつ、身に残っていなかった。
……。
いま、わたくし、ベルト一本。
千年の、大津家の、お嬢様、としては、あるまじき、お姿。
はっと気が付いて、美咲ちゃんを、ぎゅっと、抱き直した。両腕で、胸の前に、しっかりと。
美咲ちゃんの体を、自分の前に、抱きかかえる。それが、いまのわたくしの、ただひとつの守りだった。
……美咲さん、ありがとう、ござい、ます。
あなたが、わたくしの、最後の、お守り、ですわ。
頬がかっと熱くなった。耳まで真っ赤になっている、自覚があった。
「あー、霊具、溶けちゃってますねー」
「……は、はい」
慈恩は糸目のまま、視線をわたくしの顔より上に、合わせていた。
糸目で、見えないことにしてくださっているのだろうか。
いえ、見えていらっしゃるはず。でも、見ないことに、してくださっている。
お嬢様の所作を、守ってくださっている。
「大丈夫ですよー、お嬢さん。ぼく、見えてないですからー」
「えっ?」
……ありがとう、ござい、ます。
そして——
「ちょっと、ぼく、仕上げを、しますので」
「お嬢さん、そのまま、美咲さんを、抱いていてくださいねー」
「……は、はい」
慈恩は、ふっとアロハシャツの裾に手をかけた。そして、ぱさり、と脱いだ。
「あ、これどうぞ」
わたくしの肩に、ふわりと羽織らせた。袖を通す手伝いまでしてくださった。アロハシャツの裾が、ちょうど、膝のあたりまで届いた。
「えっ……」
「いやー、お嬢さん、お風邪、ひいちゃいますからねー」
そう、糸目で笑った。
……。アロハシャツ。慈恩様の。少し汗の匂いと、煙草の匂い。でも、温かい。
守りを、何もかも失ったわたくしを、ふわりと、お包みくださった。
お嬢様としての、お姿、すこし、戻る。
……ありがとう、ござい、ます。
慈恩は、ふらりと犬神様の前へ歩を進めた。
煙草を吹かしてふっと、息を吐いた。
そして、止まっている犬神大明神の前に立った。両手を合わせる。何かを、つぶやいた。
わたくしには、聞こえなかった。ただ、慈恩の唇が、ゆっくりと動いていた。
……。何か、お唱えになっている。でも、わたくし、知らないお言葉。
大津家の、どの古文書にも、載っていないお言葉。あれは、なに。
そして、慈恩の周りに、光が立ち上った。青い光。白い光。そして、金色の光。
! 金色——
わたくし、金色の霊力、初めて見ました。
お父様のお話で、「金色は、浄化の最高位」と、聞いたことがあるだけ。
「お前は、金色は、使えない」「世に、金色を使える者は、ほぼ、いない」と。
お父様、使えるの? いいえ、お父様、「ぼくは、銀色まで」、と、おっしゃっていた。
でも、慈恩様、金色、お使いになっている?
……金色を使う、ジオン様? 慈恩様は、いったい——
慈恩の周りの金色の光がふわり、と広がった。そして、犬神大明神の体を包んだ。
ぼう、と、金色に光った。
『……』
犬神大明神の赤い目が——ゆっくりと、色を変えた。赤から、橙、そして、黄、そして、青。
! 青になった! 清めの色!
慈恩がふっと、息を吐いた。そして、犬神大明神の顔のひとつに、そっと、手を伸ばした。
人間の顔。女の顔だった。
その顔がふわり、と優しくなった。そして、ぽろり、と、涙を流した。
『……あ』
声。
『……ありがとう、ござい、ます……』
そして、その顔がふわり、と消えた。
! 消えた。女の人の顔が消えた。成仏されたの?
いえ、もっと、優しい感じ。「解放」という感じ。
そして、胴体に貼り付いていた人間の顔が、ひとつ、ひとつふわり、と優しくなって、
「ありがとう、ござい、ました」
「もう、楽になります」
と、つぶやいて、消えていった。
……四十七人。一九八一年の、四十七人。全員、解放されている。
犬神大明神様のお腹の中から。
なに、あれ。なに、あれ。
わたくし、大津家の、千年の書物の、どこにも、あんなお力、書いていなかった。
「四十七人」一斉に解放する技、大津家にはない。いえ、どの陰陽道にも、ない、はず。
いえ、あったかもしれない。千年前、いえ、もっと前。わたくしの知る陰陽道の開祖のお力。
……。慈恩様、あなた、いったい、何者?
最後の人間の顔がふわり、と消えた。
そして、犬神大明神の体が、ゆっくりと、縮んでいった。人間の腕が、ひとつ、ひとつふわり、と体に吸い込まれていった。
そして、最後に残ったのは——一匹の犬、だった。
黒い毛。四足。赤い目では、なくなった。優しい、茶色の目。そして、少し痩せていた。
……。ふつうの犬。「犬神大明神様」、本来のお姿。
慈恩が、その犬の前にしゃがんだ。そして、頭を撫でた。
「お疲れさまでしたね」
優しい声。
犬が、慈恩を見上げた。そして、くう、と、鳴いた。ぽとり、と、涙を落とした。
「もう、ゆっくりお休みください」
「あなたのお役目は、終わりです」
「ありがとうございました」
慈恩が、頭を下げた。深く。
犬がふわり、と立ち上がった。そして、慈恩の周りを、一周回った。
しっぽを振った。そして、廃村の家屋の方へ歩いていった。
家屋の戸口で、振り返った。慈恩に、「わん」と、一声鳴いた。そして、戸口の向こうへ消えていった。
……。成仏されたのか、他界されたのか。でも、お顔が優しかった。
もう、お苦しみになっていらっしゃらない。
「お役目、お疲れさまでした」、という感じ。
慈恩が立ち上がった。ぷらり、ぷらり、と、煙草を吹かしながら、わたくしの近くに戻ってきた。
「お嬢さん」
「あ、はい」
「お疲れさま、でしたねー」
「……」
何も言えなかった。
……慈恩様。いま、なにをなさったの。
犬神大明神様を、お清めになった。犠牲になられた四十七名を解放され。
犬神大明神様、本来のお姿に、お戻りになられ。。成仏なされた。
そして、廃村全体の澱みを、浄化された。一斉に。金色の浄化の力で。
……。わたくしは、大津家の、千年の、お役目を、背負って参りました。
お父様の「最後の、最後の、護符」、禁じ手、使いました。
お母様の千年の勾玉、使いました。大津家の結界札、使いました。
全て、通用、しませんでした。
でも、慈恩様は!煙草を吹かしながら、お言葉ひとつお唱えになって、すべてお解決になった。
……。わたくしの十六年の歳月で培った修行とは、何だったの。
慈恩が、わたくしの顔を見た。糸目で、ぼんやり、と。
そして——
「お嬢さん、立派、でしたねー」
「……え?」
「美咲さん、抱いて、ここまでいらっしゃって。ぼく、感動、しました」
「……」
いえ、いえ。ジオン様、感動なさった? わたくしの、お役目に?
「慈恩様」
声が震えた。
「あなた、いったい、何を、なさいましたの?」
「え?」
慈恩がぱちりと糸目を開いた。そして、ぷらり、と、煙草を吹かした。
「いやー、ちょっとたまたまですよー」
「……」
「たまたま」? いま、なさったこと、「たまたま」?
金色のお力、「たまたま」? 四十七人、一斉に成仏、「たまたま」?
「ぼく、廃村の裏手からふらりと、入ってきて」
「お嬢さん、困っていらっしゃるかなー、と、思って」
「ちょっと、声、かけただけです」
「……」
「声、かけただけ」。「しずまれ」、という、ひと声で、犬神大明神様がお止まりになった。
「ひと声」を、「声、かけた」と、おっしゃる。
「ぼく、なんにも、していませんよー」
「お嬢さんが、ここまで連れてきてくださったので、最後、ちょっと、仕上げ、しただけです」
「……」
「仕上げ」。四十七人の、一斉解放、を、「仕上げ」と、おっしゃる。
慈恩を見上げた。糸目でぼんやりと見て笑っている。
煙草を、ぷかり、と吹かしている。
サンダル。何の威圧感もない。海にでも来た海水浴客みたいに。
……。わたくしの物差し、では、測れない。
お父様の物差し、でも、測れない、気がする。
大津家千年の計にも、収まりきらない人。
……ジオン様、あなたは、いったい——
そして、ふと、わたくしの中で、何かが、繋がった。
……。あの、おにぎり、と、お水。
美咲さんの、足元に、落ちていた。
丁寧、ではない、お符の、お字。
お力は、本物、なのに、お字は、無造作。
「死なれちゃ困るから、入れておこう」、みたいな、お字。
……。もしかして、ジオン様、ですか。
お手洗い、と、おっしゃって、消えていらっしゃった、間に。
井戸の上から、落とされた?
美咲さんに、お会いせず、お見せもせず、ただ、お命をつなぐために。
……。だから、美咲さん、生きていらっしゃった。
三日間、いえ、異界の時間で、もっと長く。
ふつうなら、衰弱で、死んで、いらっしゃるはず。
お腹が空かないように。お喉が渇かないように。お差し入れ。おまじない付き、で。
……。わたくし、お役目の、捜索、と、思っていた、対象を、
ジオン様、もう、ご飯まで、お渡しに、なっていた。
ジオンは、糸目のまま、煙を吐いていた。何も、おっしゃらない。
その時、ジオンが煙をふっと、吐いた。
「お嬢さん、そろそろ、戻りましょうかー」
「お母様、ご心配、しているでしょうから、美咲さんを、お返ししないと」
「あ……あ、はい」
……いま、疑問を、お訊ねしてはいけない。
「たまたま」と、おっしゃっているのだから、「たまたま」と、受け取る。
大津家の家の者としては、失礼になってはいけない。
「ありがとう、ござい、ました」と、お礼を申し上げる。それが、礼だと思う。
「ジオン様」
「はい?」
「ありがとう、ござい、ました」
両手を組んで、深く頭を下げた。
「ぼくのおかげ、じゃない、ですよー」
「お嬢さんが、立派だったから、ですー」
「……」
「ぼく、何にもしていませんからー」
「……いえ、していらっしゃいました」
「いやー」
ジオンがぷらり、と、煙草を吹かした。
そして——
「お嬢さんは立派でしたよ」
優しい声。
「お父様も、お母様も、お喜びになると、思います」
「……」
目が、熱くなった。
お父様。お母様。わたくし、千年のお役目、果たせませんでした。
でも、ジオン様が「立派」と、おっしゃってくださいました。
だから、少しは、許していただけますか。少しは。
涙が、ぽたぽた、と、落ちた。
ジオンは、何も言わなかった。ただ、ぼんやり、と、煙草を吹かしていた。
そして——
「井戸、戻りましょうか」
「あ、はい」
涙を、アロハシャツで拭いた。そして、美咲ちゃんをぎゅっと抱きしめ直して、歩き出した。ジオンの後ろを。
Part 6 ——浮上
井戸の底。
美咲ちゃんを抱いたまま、立っていた。ジオンが、井戸の底の中心に立った。
「お嬢さん方。ぼくの近くまで来てくださいー」
「あ、はい」
ジオンの近くまで歩いた。
「ぼくの肩、触ってもらえますかー」
「……えっ?」
「いやー、肩、触っていただかないと、一緒に上に戻れないんでー」
「あ……はい」
そっと、ジオンの肩に手を置いた。
温かい。人の体温。ふつうの人の。
ジオンがふっと、息を吐いた。
そして——
「あがれ」
!
軽い声。
ふわり、と、体が浮いた。びっくりした。美咲ちゃんを、ぎゅっと抱きしめた。
! 浮いている! わたくし、美咲さん、ジオン様、三人で——井戸の上に向かって、浮いている!
……。「あがれ」という、ひと声で、三人、浮上できる。
「しずまれ」「あがれ」。ジオン様、お言葉ひとつお唱えになって、なんでもできる。
……「言霊」?
お父様のお話で、聞いたことがある。「神道の力。そこまでの力はない」、と。
「現代で言霊を使える者はいるが、皆、非力」、と。
……。でも、ジオン様、お使いになっている。
……。ジオン様、あなたは、いったい——
ふわり、と、井戸の縁を越えた。社の中に戻った。ふわり、と、足が地面についた。
ジオンが、煙草をぷらり、と、吹かした。
「お嬢さん」
「あ、はい」
「外に、出ましょうかー」
「あ……はい」
ジオンがぷらり、ぷらり、と、歩き出した。社の扉の方へ。美咲ちゃんを抱いたまま、その後ろを歩いた。
……。美咲さんが眠っていらっしゃる。
疲れていらっしゃった。百年、いえ、三日、でも、百年分のお疲れ。
眠っていらっしゃるのは、いいこと、ですわ。
社の扉を越えて、外に出た。
廃村の、午後の光。風がふわり、と吹いてきた。セミが鳴いていた。
! 時間が、戻った! 廃村の澱みが、消えている! 空気が、軽い!
……。犬神大明神様、本当にお清めになった。廃村全体が、清められている。
ジオンが、ぷらり、と、歩いていた。煙草を吹かしながら。何もなかったように。
……。ジオン様、廃村全体をお清めになった、あとで、煙草。
ふつう、疲れて、一服、のはず。でも、ジオン様、疲れていらっしゃらない、ような。
……。「たまたま」「ちょっと、声、かけただけ」「仕上げ」。
わたくしの千年、とは、何だったの。
……。いえ、いまは、考えない。
美咲さんをお返しすること。坂東先生にお会いすること。それが、先。
エピローグ
社の鳥居をくぐる。ぎい、と、古い木が軋んだ。
廃村の境内に戻った。
そして、ござが、見えた。
ござの中央に——坂東先生が、横たわっていた。
両手を、胸の上に組んで。折れた桃木剣の刃の方を握って。
ぼろぼろのスーツで。
スーツは、もう、まっ黒だった。黒い水で、全身、ぐっしょりと、濡れていた。
襟も、袖も、ズボンも、靴も。水を含んで、重く、ござに、貼り付いていた。
……坂東、先生。
歩みが、止まった。涙が、ぽろり、と、落ちた。
美咲ちゃんを抱いたままふらりと、ござの近くまで歩いた。そして、坂東先生の横に膝をついた。
そこで、坂東先生のお召し物に、もう一度、目を留めた。
スーツの、襟の縁。すこし、薄くなっていた。
……?
ぴしっ。
スーツの襟が、空気に解けるように、消えていく。煙のように、ふわりと。
! 坂東先生のお召し物が、溶けている。黒い水に、浸かっていらっしゃったから。
そのスーツが、いま、溶けている。
スーツの袖が、肘のあたりから、すこし薄くなった。胸元の布が、繊維に分解されて、空気に解けていく。
……坂東、先生。お召し物まで、お役目を果たして。
一緒に、お役目を終えようと、なさっている。
「先生」
声が、震えた。
「先生、ただいま帰り、ました。美咲さんを、連れて」
「お役目、果たしました。……果たせていない、かも、しれませんが」
「……」
「先生、立派、でしたわよ。ご最後まで。坂東先生、お務め、果たされました」
「お疲れさまでした」
涙が、ぽたぽた、と、坂東先生の頬に落ちた。
「先生。先生、ごめんなさい」
「わたくし、ひとりで、先生をここに置いて、行って。ごめんなさい」
「……」
坂東先生の胸に、そっと、額をつけた。肩が震えていた。
ジオンが、ぷらり、と、近づいてきた。煙草を吹かしていた。そして、わたくしの横にしゃがんだ。
「お嬢さん」
「……はい」
「立派、でしたよ」
「坂東先生、きっと、お喜びになります」
「……」
ジオンが、煙草をぷらり、と、吹かした。そしてふっと、息を吐いた。
坂東先生の顔を、見た。それから、溶けていくスーツを、見た。
……。ジオン様、坂東先生のお顔、見ていらっしゃる。お召し物の、溶けている様子も、ご覧になっている。
何かなさろうとしている、のか。いえ、何もなさらない、のか。
ただ、お見送りになっている、のか。
……わたくしの物差しでは、測れない。
ジオンが、煙草を吸い終わって、もみ消した。
そして、わたくしの肩に、そっと、手を置いた。
「お嬢さん」
「はい」
「お見事、でした」
「……」
お見事。わたくしの、千年のお役目、通用しなかった、あのお役目を、「お見事」。
……いえ、ジオン様、優しいお言葉、くださっている。
わたくしの心を、救おうとしてくださっている。「立派」「お見事」。
ありがとう、ござい、ます。
廃村の、午後の光。風がふわり、と吹いてきた。セミが、鳴いていた。
ござの上。わたくし。美咲ちゃん。坂東先生。ジオン。四人が、そこにいた。
ひとりは、眠っている。ひとりは、亡くなっている。ひとりは、泣いている。ひとりは、煙草を吹かしている。
……でも、みんな、一緒に。ここに、いる。廃村が清められた、午後の光の中で。
ふらりと立ち上がった。美咲ちゃんを、抱き直した。そして、坂東先生に、最後のご挨拶。
「先生」
「これから、麓に参ります。美咲さんを、ご家族の元へお返しします」
「ご一緒、なさってくださいませ」
ジオンが、ぷらり、と、立ち上がった。
「お嬢さん」
「はい」
「坂東先生は、ぼくがお連れしますよー」
思いがけない申し出だった。
「……え?」
「グっ。重い、から、お嬢さん、は、ご無理っすよー」
「あ……は、はい」
「お嬢さんは、美咲さんを、抱いていてくださいー。ぼく、坂東先生、おんぶしますからー」
……。おんぶ。元軍人の坂東先生をおんぶ。わたくしには、絶対、できない。
でも、ジオン様、「おんぶします」と、おっしゃっている。
糸目の、サンダルの、ふつうのおじさんに見える、ジオン様、が。
……。「たまたま」。「ちょっと、声、かけただけ」。「仕上げ」。「おんぶ」。
……わたくし、お訊ねしません。お訊ねしてはいけない、気がする。
大津家のものとして、お礼を申し上げる。ただ、それだけ。
「ありがとう、ござい、ます」
深く、頭を下げた。
ジオンがぷらり、と、煙草を吹かした。
「いやー、ぼく、なんにも、していませんからー」
そう、おっしゃった。
午後の光。風。セミ。廃村が清められた、その午後。
美咲ちゃんを抱いて、歩き出した。
ジオンが、坂東先生をおんぶして、その後ろを歩いた。煙草をぷらりと吹かしながら。
肩に借りたアロハシャツが、風に、ふわりと揺れた。
大津家の守りは、もう、何も残っていない。
でも、もう、いい。
美咲さんは、お返しできる。坂東先生も、お連れできる。
それだけで、いまは、十分なのですから。
坂東先生も、ジオンの背中で、スーツがすこしずつ解けていった。
胸元の生地がふわりと空気に消える。背中の生地は、ジオンの肩に、まだ貼りついていた。
そして、その下のシャツも、すこしずつ、薄くなっていく。
……坂東先生も、お召し物まで、溶けていらっしゃる。
お役目を果たし終えて、最後の一枚まで、一緒に、溶けていく。
千年の、わたくしの、お役目は、通用しなかった。
けれど、美咲さんはお返しできる。坂東先生も、お連れできる。
……わたくしは、千年のどこにいるのだろう。千年のお役目とは、何だったのか。
……いえ、いまは考えない。一歩、一歩。麓へ。美咲さんのご家族のもとへ。あとで考えればよろしいの。
……けれど、実力が通用しない世界もあるのだと、知った日。
……一歩、一歩。
廃村をあとにした。
その後ろを——ジオンが、坂東先生をおんぶして、歩いた。煙草を、ぷらり、と、吹かしながら。
「お嬢さん、頑張りますねー」
ぼそり、と、つぶやいた。
「いやー、立派、立派」
「お父様、お母様も、お喜びになるんじゃないですかね」
そして、坂東先生の肩に、そっと、手を置いた。
「坂東さんも」
「ご立派」
「もう少し、お待ちくださいねー」
「麓まで」
「ぼくが、お連れしますからー」
そして、廃村の鳥居を、くぐる。外の世界へと。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
Nolaノベル
黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】
最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中
https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637
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