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燃えカスの守り人 外伝  作者: K3
燃えカスの守り人 外伝「犬神村事件」

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10/20

金色のお力

月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。

Part 5 ——たまたま

 

 わたくしが、目を閉じた、その時。

 

「しずまれ」

 

 声が、聞こえた。軽い声。ふっと、煙草を吹かすような声。

 

 

 ぱきん。何かが、砕けた。ぐらり、と、世界が揺れた。

 

 目を開けた。

 

  ……?

 

 犬神大明神の口が、開いたまま、止まっていた。赤い目がぱちりと開いたまま、止まっていた。

 

 廃村の四方の赤い目が、すべてぴたりと止まっていた。時間が止まった、ように。風が止まった。地面が静かになった。

 

  ……? 犬神大明神様、止まっていらっしゃる?

 

 そして、社の跡の向こうから、ぷらり、ぷらり、と、人影が歩いてきた。糸目。アロハシャツ。サンダル。煙草を、ぼんやり吹かしている。

 

「いやー、すみません、遅くなりました」

 

  ……。ジオン、様?

 

 ぽかんと口を開けた。

 

  なぜ、慈恩様が、ここに? 異界に? どうやってお入りに?

 

  いえ、それより、犬神大明神様、なぜお止まりに?

 

  慈恩様の「しずまれ」? あれ、なに? え?

 

 慈恩は、ぷらりぷらりと、わたくしの近くまで歩いてきた。

 

「お嬢さん、ご無事、でしたか」

 

「あ……はい」

 

「美咲さん、抱いていらっしゃいますね」

 

「は、はい」

 

「お役目、立派、でしたね」

 

「……」

 

 慈恩が糸目でぼんやりと笑った。そして、わたくしの様子を見て、ふと目を細めた。

 

 セーラー服は、もう跡形もなかった。襟の白いラインも、袖も、裾も、繊維の最後の一筋までほどけて、空気に消えていた。

 

 腰に、ベルトだけが、残っていた。折れた桃木剣の柄が、ぶら下がっている。

 

 大津家の守りは、いま、何ひとつ、身に残っていなかった。

 

  ……。

 

  いま、わたくし、ベルト一本。

 

  千年の、大津家の、お嬢様、としては、あるまじき、お姿。

 

 はっと気が付いて、美咲ちゃんを、ぎゅっと、抱き直した。両腕で、胸の前に、しっかりと。

 

 美咲ちゃんの体を、自分の前に、抱きかかえる。それが、いまのわたくしの、ただひとつの守りだった。

 

  ……美咲さん、ありがとう、ござい、ます。

 

  あなたが、わたくしの、最後の、お守り、ですわ。

 

 頬がかっと熱くなった。耳まで真っ赤になっている、自覚があった。

 

「あー、霊具、溶けちゃってますねー」

 

「……は、はい」

 

 慈恩は糸目のまま、視線をわたくしの顔より上に、合わせていた。

 

  糸目で、見えないことにしてくださっているのだろうか。

 

  いえ、見えていらっしゃるはず。でも、見ないことに、してくださっている。

 

  お嬢様の所作を、守ってくださっている。

 

「大丈夫ですよー、お嬢さん。ぼく、見えてないですからー」

 

「えっ?」

 

  ……ありがとう、ござい、ます。

 

 そして——

 

「ちょっと、ぼく、仕上げを、しますので」

 

「お嬢さん、そのまま、美咲さんを、抱いていてくださいねー」

 

「……は、はい」

 

 慈恩は、ふっとアロハシャツの裾に手をかけた。そして、ぱさり、と脱いだ。

 

「あ、これどうぞ」

 

 わたくしの肩に、ふわりと羽織らせた。袖を通す手伝いまでしてくださった。アロハシャツの裾が、ちょうど、膝のあたりまで届いた。

 

「えっ……」

 

「いやー、お嬢さん、お風邪、ひいちゃいますからねー」

 

 そう、糸目で笑った。

 

  ……。アロハシャツ。慈恩様の。少し汗の匂いと、煙草の匂い。でも、温かい。

 

  守りを、何もかも失ったわたくしを、ふわりと、お包みくださった。

 

  お嬢様としての、お姿、すこし、戻る。

 

  ……ありがとう、ござい、ます。

 

 慈恩は、ふらりと犬神様の前へ歩を進めた。

 

 煙草を吹かしてふっと、息を吐いた。

 

 そして、止まっている犬神大明神の前に立った。両手を合わせる。何かを、つぶやいた。

 

 わたくしには、聞こえなかった。ただ、慈恩の唇が、ゆっくりと動いていた。

 

  ……。何か、お唱えになっている。でも、わたくし、知らないお言葉。

 

  大津家の、どの古文書にも、載っていないお言葉。あれは、なに。

 

 そして、慈恩の周りに、光が立ち上った。青い光。白い光。そして、金色の光。

 

  ! 金色——

 

  わたくし、金色の霊力、初めて見ました。

 

  お父様のお話で、「金色は、浄化の最高位」と、聞いたことがあるだけ。

 

  「お前は、金色は、使えない」「世に、金色を使える者は、ほぼ、いない」と。

 

  お父様、使えるの? いいえ、お父様、「ぼくは、銀色まで」、と、おっしゃっていた。

 

  でも、慈恩様、金色、お使いになっている?

 

  ……金色を使う、ジオン様? 慈恩様は、いったい——

 

 慈恩の周りの金色の光がふわり、と広がった。そして、犬神大明神の体を包んだ。

 

 ぼう、と、金色に光った。

 

『……』

 

 犬神大明神の赤い目が——ゆっくりと、色を変えた。赤から、橙、そして、黄、そして、青。

 

  ! 青になった! 清めの色!

 

 慈恩がふっと、息を吐いた。そして、犬神大明神の顔のひとつに、そっと、手を伸ばした。

 

 人間の顔。女の顔だった。

 

 その顔がふわり、と優しくなった。そして、ぽろり、と、涙を流した。

 

『……あ』

 

 声。

 

『……ありがとう、ござい、ます……』

 

 そして、その顔がふわり、と消えた。

 

  ! 消えた。女の人の顔が消えた。成仏されたの?

 

  いえ、もっと、優しい感じ。「解放」という感じ。

 

 そして、胴体に貼り付いていた人間の顔が、ひとつ、ひとつふわり、と優しくなって、

 

「ありがとう、ござい、ました」

 

「もう、楽になります」

 

 と、つぶやいて、消えていった。

 

  ……四十七人。一九八一年の、四十七人。全員、解放されている。

 

  犬神大明神様のお腹の中から。

 

  なに、あれ。なに、あれ。

 

  わたくし、大津家の、千年の書物の、どこにも、あんなお力、書いていなかった。

 

  「四十七人」一斉に解放する技、大津家にはない。いえ、どの陰陽道にも、ない、はず。

 

  いえ、あったかもしれない。千年前、いえ、もっと前。わたくしの知る陰陽道の開祖のお力。

 

  ……。慈恩様、あなた、いったい、何者?

 

 最後の人間の顔がふわり、と消えた。

 

 そして、犬神大明神の体が、ゆっくりと、縮んでいった。人間の腕が、ひとつ、ひとつふわり、と体に吸い込まれていった。

 

 そして、最後に残ったのは——一匹の犬、だった。

 

 黒い毛。四足。赤い目では、なくなった。優しい、茶色の目。そして、少し痩せていた。

 

  ……。ふつうの犬。「犬神大明神様」、本来のお姿。

 

 慈恩が、その犬の前にしゃがんだ。そして、頭を撫でた。

 

「お疲れさまでしたね」

 

 優しい声。

 

 犬が、慈恩を見上げた。そして、くう、と、鳴いた。ぽとり、と、涙を落とした。

 

「もう、ゆっくりお休みください」

 

「あなたのお役目は、終わりです」

 

「ありがとうございました」

 

 慈恩が、頭を下げた。深く。

 

 犬がふわり、と立ち上がった。そして、慈恩の周りを、一周回った。

 

 しっぽを振った。そして、廃村の家屋の方へ歩いていった。

 

 家屋の戸口で、振り返った。慈恩に、「わん」と、一声鳴いた。そして、戸口の向こうへ消えていった。

 

  ……。成仏されたのか、他界されたのか。でも、お顔が優しかった。

 

  もう、お苦しみになっていらっしゃらない。

 

  「お役目、お疲れさまでした」、という感じ。

 

 慈恩が立ち上がった。ぷらり、ぷらり、と、煙草を吹かしながら、わたくしの近くに戻ってきた。

 

「お嬢さん」

 

「あ、はい」

 

「お疲れさま、でしたねー」

 

「……」

 

 何も言えなかった。

 

  ……慈恩様。いま、なにをなさったの。

 

  犬神大明神様を、お清めになった。犠牲になられた四十七名を解放され。

 

  犬神大明神様、本来のお姿に、お戻りになられ。。成仏なされた。

 

  そして、廃村全体の澱みを、浄化された。一斉に。金色の浄化の力で。

 

  ……。わたくしは、大津家の、千年の、お役目を、背負って参りました。

 

  お父様の「最後の、最後の、護符」、禁じ手、使いました。

 

  お母様の千年の勾玉、使いました。大津家の結界札、使いました。

 

  全て、通用、しませんでした。

 

  でも、慈恩様は!煙草を吹かしながら、お言葉ひとつお唱えになって、すべてお解決になった。

 

  ……。わたくしの十六年の歳月で培った修行とは、何だったの。

 

 慈恩が、わたくしの顔を見た。糸目で、ぼんやり、と。

 

 そして——

 

「お嬢さん、立派、でしたねー」

 

「……え?」

 

「美咲さん、抱いて、ここまでいらっしゃって。ぼく、感動、しました」

 

「……」

 

  いえ、いえ。ジオン様、感動なさった? わたくしの、お役目に?

 

「慈恩様」

 

 声が震えた。

 

「あなた、いったい、何を、なさいましたの?」

 

「え?」

 

 慈恩がぱちりと糸目を開いた。そして、ぷらり、と、煙草を吹かした。

 

「いやー、ちょっとたまたまですよー」

 

「……」

 

  「たまたま」? いま、なさったこと、「たまたま」?

 

  金色のお力、「たまたま」? 四十七人、一斉に成仏、「たまたま」?

 

「ぼく、廃村の裏手からふらりと、入ってきて」

 

「お嬢さん、困っていらっしゃるかなー、と、思って」

 

「ちょっと、声、かけただけです」

 

「……」

 

  「声、かけただけ」。「しずまれ」、という、ひと声で、犬神大明神様がお止まりになった。

 

  「ひと声」を、「声、かけた」と、おっしゃる。

 

「ぼく、なんにも、していませんよー」

 

「お嬢さんが、ここまで連れてきてくださったので、最後、ちょっと、仕上げ、しただけです」

 

「……」

 

  「仕上げ」。四十七人の、一斉解放、を、「仕上げ」と、おっしゃる。

 

 慈恩を見上げた。糸目でぼんやりと見て笑っている。

 

 煙草を、ぷかり、と吹かしている。


サンダル。何の威圧感もない。海にでも来た海水浴客みたいに。

 

  ……。わたくしの物差し、では、測れない。

 

  お父様の物差し、でも、測れない、気がする。

 

  大津家千年の計にも、収まりきらない人。

 

  ……ジオン様、あなたは、いったい——

 

 そして、ふと、わたくしの中で、何かが、繋がった。

 

  ……。あの、おにぎり、と、お水。

 

  美咲さんの、足元に、落ちていた。

 

  丁寧、ではない、お符の、お字。

 

  お力は、本物、なのに、お字は、無造作。

 

  「死なれちゃ困るから、入れておこう」、みたいな、お字。

 

  ……。もしかして、ジオン様、ですか。

 

  お手洗い、と、おっしゃって、消えていらっしゃった、間に。

 

  井戸の上から、落とされた?

 

  美咲さんに、お会いせず、お見せもせず、ただ、お命をつなぐために。

 

  ……。だから、美咲さん、生きていらっしゃった。

 

  三日間、いえ、異界の時間で、もっと長く。

 

  ふつうなら、衰弱で、死んで、いらっしゃるはず。

 

  お腹が空かないように。お喉が渇かないように。お差し入れ。おまじない付き、で。

 

  ……。わたくし、お役目の、捜索、と、思っていた、対象を、

 

  ジオン様、もう、ご飯まで、お渡しに、なっていた。

 

 ジオンは、糸目のまま、煙を吐いていた。何も、おっしゃらない。

 

 その時、ジオンが煙をふっと、吐いた。

 

「お嬢さん、そろそろ、戻りましょうかー」

 

「お母様、ご心配、しているでしょうから、美咲さんを、お返ししないと」

 

「あ……あ、はい」

 

  ……いま、疑問を、お訊ねしてはいけない。

 

  「たまたま」と、おっしゃっているのだから、「たまたま」と、受け取る。

 

  大津家の家の者としては、失礼になってはいけない。

 

  「ありがとう、ござい、ました」と、お礼を申し上げる。それが、礼だと思う。

 

「ジオン様」

 

「はい?」

 

「ありがとう、ござい、ました」

 

 両手を組んで、深く頭を下げた。

 

「ぼくのおかげ、じゃない、ですよー」

 

「お嬢さんが、立派だったから、ですー」

 

「……」

 

「ぼく、何にもしていませんからー」

 

「……いえ、していらっしゃいました」

 

「いやー」

 

 ジオンがぷらり、と、煙草を吹かした。

 

 そして——

 

「お嬢さんは立派でしたよ」

 

 優しい声。

 

「お父様も、お母様も、お喜びになると、思います」

 

「……」

 

 目が、熱くなった。

 

  お父様。お母様。わたくし、千年のお役目、果たせませんでした。

 

  でも、ジオン様が「立派」と、おっしゃってくださいました。

 

  だから、少しは、許していただけますか。少しは。

 

 涙が、ぽたぽた、と、落ちた。

 

 ジオンは、何も言わなかった。ただ、ぼんやり、と、煙草を吹かしていた。

 

 そして——

 

「井戸、戻りましょうか」

 

「あ、はい」

 

 涙を、アロハシャツで拭いた。そして、美咲ちゃんをぎゅっと抱きしめ直して、歩き出した。ジオンの後ろを。

 

Part 6 ——浮上

 

 井戸の底。

 

 美咲ちゃんを抱いたまま、立っていた。ジオンが、井戸の底の中心に立った。

 

「お嬢さん方。ぼくの近くまで来てくださいー」

 

「あ、はい」

 

 ジオンの近くまで歩いた。

 

「ぼくの肩、触ってもらえますかー」

 

「……えっ?」

 

「いやー、肩、触っていただかないと、一緒に上に戻れないんでー」

 

「あ……はい」

 

 そっと、ジオンの肩に手を置いた。

 

  温かい。人の体温。ふつうの人の。

 

 ジオンがふっと、息を吐いた。

 

 そして——

 

「あがれ」


 

 軽い声。

 

 ふわり、と、体が浮いた。びっくりした。美咲ちゃんを、ぎゅっと抱きしめた。

 

  ! 浮いている! わたくし、美咲さん、ジオン様、三人で——井戸の上に向かって、浮いている!

 

  ……。「あがれ」という、ひと声で、三人、浮上できる。

 

  「しずまれ」「あがれ」。ジオン様、お言葉ひとつお唱えになって、なんでもできる。

 

  ……「言霊」?

 

  お父様のお話で、聞いたことがある。「神道の力。そこまでの力はない」、と。

 

  「現代で言霊を使える者はいるが、皆、非力」、と。

 

  ……。でも、ジオン様、お使いになっている。

 

  ……。ジオン様、あなたは、いったい——

 

 ふわり、と、井戸の縁を越えた。社の中に戻った。ふわり、と、足が地面についた。

 

 ジオンが、煙草をぷらり、と、吹かした。

 

「お嬢さん」

 

「あ、はい」

 

「外に、出ましょうかー」

 

「あ……はい」

 

 ジオンがぷらり、ぷらり、と、歩き出した。社の扉の方へ。美咲ちゃんを抱いたまま、その後ろを歩いた。

 

  ……。美咲さんが眠っていらっしゃる。

 

  疲れていらっしゃった。百年、いえ、三日、でも、百年分のお疲れ。

 

  眠っていらっしゃるのは、いいこと、ですわ。

 

 社の扉を越えて、外に出た。

 

 廃村の、午後の光。風がふわり、と吹いてきた。セミが鳴いていた。

 

  ! 時間が、戻った! 廃村の澱みが、消えている! 空気が、軽い!

 

  ……。犬神大明神様、本当にお清めになった。廃村全体が、清められている。

 

 ジオンが、ぷらり、と、歩いていた。煙草を吹かしながら。何もなかったように。

 

  ……。ジオン様、廃村全体をお清めになった、あとで、煙草。

 

  ふつう、疲れて、一服、のはず。でも、ジオン様、疲れていらっしゃらない、ような。

 

  ……。「たまたま」「ちょっと、声、かけただけ」「仕上げ」。

 

  わたくしの千年、とは、何だったの。

 

  ……。いえ、いまは、考えない。


美咲さんをお返しすること。坂東先生にお会いすること。それが、先。

 

エピローグ

 

 社の鳥居をくぐる。ぎい、と、古い木が軋んだ。

 

 廃村の境内に戻った。

 

 そして、ござが、見えた。

 

 ござの中央に——坂東先生が、横たわっていた。

 

 両手を、胸の上に組んで。折れた桃木剣の刃の方を握って。

 

 ぼろぼろのスーツで。

 

 スーツは、もう、まっ黒だった。黒い水で、全身、ぐっしょりと、濡れていた。

 

 襟も、袖も、ズボンも、靴も。水を含んで、重く、ござに、貼り付いていた。

 

  ……坂東、先生。

 

 歩みが、止まった。涙が、ぽろり、と、落ちた。

 

 美咲ちゃんを抱いたままふらりと、ござの近くまで歩いた。そして、坂東先生の横に膝をついた。

 

 そこで、坂東先生のお召し物に、もう一度、目を留めた。

 

 スーツの、襟の縁。すこし、薄くなっていた。

 

  ……?

 

 ぴしっ。

 

 スーツの襟が、空気に解けるように、消えていく。煙のように、ふわりと。

 

  ! 坂東先生のお召し物が、溶けている。黒い水に、浸かっていらっしゃったから。

 

  そのスーツが、いま、溶けている。

 

 スーツの袖が、肘のあたりから、すこし薄くなった。胸元の布が、繊維に分解されて、空気に解けていく。

 

  ……坂東、先生。お召し物まで、お役目を果たして。

 

  一緒に、お役目を終えようと、なさっている。

 

「先生」

 

 声が、震えた。

 

「先生、ただいま帰り、ました。美咲さんを、連れて」

 

「お役目、果たしました。……果たせていない、かも、しれませんが」

 

「……」

 

「先生、立派、でしたわよ。ご最後まで。坂東先生、お務め、果たされました」

 

「お疲れさまでした」

 

 涙が、ぽたぽた、と、坂東先生の頬に落ちた。

 

「先生。先生、ごめんなさい」

 

「わたくし、ひとりで、先生をここに置いて、行って。ごめんなさい」

 

「……」

 

 坂東先生の胸に、そっと、額をつけた。肩が震えていた。

 

 ジオンが、ぷらり、と、近づいてきた。煙草を吹かしていた。そして、わたくしの横にしゃがんだ。

 

「お嬢さん」

 

「……はい」

 

「立派、でしたよ」

 

「坂東先生、きっと、お喜びになります」

 

「……」

 

 ジオンが、煙草をぷらり、と、吹かした。そしてふっと、息を吐いた。

 

 坂東先生の顔を、見た。それから、溶けていくスーツを、見た。

 

  ……。ジオン様、坂東先生のお顔、見ていらっしゃる。お召し物の、溶けている様子も、ご覧になっている。

 

  何かなさろうとしている、のか。いえ、何もなさらない、のか。

 

  ただ、お見送りになっている、のか。

 

  ……わたくしの物差しでは、測れない。

 

 ジオンが、煙草を吸い終わって、もみ消した。

 

 そして、わたくしの肩に、そっと、手を置いた。

 

「お嬢さん」

 

「はい」

 

「お見事、でした」

 

「……」

 

  お見事。わたくしの、千年のお役目、通用しなかった、あのお役目を、「お見事」。

 

  ……いえ、ジオン様、優しいお言葉、くださっている。

 

  わたくしの心を、救おうとしてくださっている。「立派」「お見事」。

 

  ありがとう、ござい、ます。

 

 廃村の、午後の光。風がふわり、と吹いてきた。セミが、鳴いていた。

 

 ござの上。わたくし。美咲ちゃん。坂東先生。ジオン。四人が、そこにいた。

 

 ひとりは、眠っている。ひとりは、亡くなっている。ひとりは、泣いている。ひとりは、煙草を吹かしている。

 

  ……でも、みんな、一緒に。ここに、いる。廃村が清められた、午後の光の中で。

 

 ふらりと立ち上がった。美咲ちゃんを、抱き直した。そして、坂東先生に、最後のご挨拶。

 

「先生」

 

「これから、麓に参ります。美咲さんを、ご家族の元へお返しします」

 

「ご一緒、なさってくださいませ」

 

 ジオンが、ぷらり、と、立ち上がった。

 

「お嬢さん」

 

「はい」

 

「坂東先生は、ぼくがお連れしますよー」

 

 思いがけない申し出だった。

 

「……え?」

 

「グっ。重い、から、お嬢さん、は、ご無理っすよー」

 

「あ……は、はい」

 

「お嬢さんは、美咲さんを、抱いていてくださいー。ぼく、坂東先生、おんぶしますからー」

 

  ……。おんぶ。元軍人の坂東先生をおんぶ。わたくしには、絶対、できない。

 

  でも、ジオン様、「おんぶします」と、おっしゃっている。

 

  糸目の、サンダルの、ふつうのおじさんに見える、ジオン様、が。

 

  ……。「たまたま」。「ちょっと、声、かけただけ」。「仕上げ」。「おんぶ」。

 

  ……わたくし、お訊ねしません。お訊ねしてはいけない、気がする。

 

  大津家のものとして、お礼を申し上げる。ただ、それだけ。

 

「ありがとう、ござい、ます」

 

 深く、頭を下げた。

 

 ジオンがぷらり、と、煙草を吹かした。

 

「いやー、ぼく、なんにも、していませんからー」

 

 そう、おっしゃった。

 

 午後の光。風。セミ。廃村が清められた、その午後。

 

 美咲ちゃんを抱いて、歩き出した。

 

 ジオンが、坂東先生をおんぶして、その後ろを歩いた。煙草をぷらりと吹かしながら。

 

 肩に借りたアロハシャツが、風に、ふわりと揺れた。

 

 大津家の守りは、もう、何も残っていない。

 

 でも、もう、いい。

 

 美咲さんは、お返しできる。坂東先生も、お連れできる。

 

 それだけで、いまは、十分なのですから。

 

 坂東先生も、ジオンの背中で、スーツがすこしずつ解けていった。

 

 胸元の生地がふわりと空気に消える。背中の生地は、ジオンの肩に、まだ貼りついていた。

 

 そして、その下のシャツも、すこしずつ、薄くなっていく。

 

  ……坂東先生も、お召し物まで、溶けていらっしゃる。

 

  お役目を果たし終えて、最後の一枚まで、一緒に、溶けていく。

 

  千年の、わたくしの、お役目は、通用しなかった。

 

  けれど、美咲さんはお返しできる。坂東先生も、お連れできる。

 

  ……わたくしは、千年のどこにいるのだろう。千年のお役目とは、何だったのか。

 

  ……いえ、いまは考えない。一歩、一歩。麓へ。美咲さんのご家族のもとへ。あとで考えればよろしいの。

 

  ……けれど、実力が通用しない世界もあるのだと、知った日。

 

  ……一歩、一歩。

 

 廃村をあとにした。

 

 その後ろを——ジオンが、坂東先生をおんぶして、歩いた。煙草を、ぷらり、と、吹かしながら。

 

「お嬢さん、頑張りますねー」

 

 ぼそり、と、つぶやいた。

 

「いやー、立派、立派」

 

「お父様、お母様も、お喜びになるんじゃないですかね」

 

 そして、坂東先生の肩に、そっと、手を置いた。

 

「坂東さんも」

 

「ご立派」

 

「もう少し、お待ちくださいねー」

 

「麓まで」

 

「ぼくが、お連れしますからー」

 

 そして、廃村の鳥居を、くぐる。外の世界へと。



ここまでお読みくださり、ありがとうございました。



次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


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