第二話 開けます
おれの仕事は、開けることだ。
錠でも、蓋でも、釘で打ちつけた板でもいい。
頼まれれば開ける。
中に何が入っていても開ける。
だから作業の前に、決まった文句を言うことになっている。
開けます。
ただし、閉じ込められている物の責任は負いません。
前半は声が出る。
後半になると、どういうわけか声が細くなる。
四月に堂島開錠へ入って八か月目で、おれはまだこの文句を自分の口の形にできていなかった。
その日の朝、社長の堂島は金融機関の仕事で出ていた。
支店の金庫が開かなくなったとかで、五時前に出ていったらしい。
事務所の机に、書き置きが一枚あった。
霧沢、楓月荘、宇野様、十時。
板五枚。
ひとりで行け。
依頼をよこしたのは見立て屋の事務所だった。
所長は新開という人で、電話の口ぶりがずっと早かった。
うちの者が三日前からその宿で連絡が取れない、捜索願を出した、板の内側を確かめたいので開けてほしい、と。
山へ上がる道は濡れていた。
三日、雨だったのだという。
楓月荘の玄関の前に、白い軽のバンが停めてあった。
フロントガラスに落ち葉が貼りついている。
ワイパーの根元に水が溜まって、そこだけ黒くなっていた。
窓の外から中が見えた。
後部座席に道具箱、たたんだ着替え、コンビニの袋。
袋の口はきちんと結んであった。
車の横に、二人が立っていた。
制服の駐在さんと、年配の女の人だ。
「宇野です」と女の人は言った。
「ここの持ち主です」
おれは名刺を出した。
堂島開錠、郷原慎吾。
二十三の名刺には、まだ肩書きの行がない。
渡り廊下の先まで案内された。
低い木の建屋の突き当たりに、板が横へ五枚打ってある。
釘は太くて、頭が錆びていた。
今日明日の仕事ではない。
いちばん下の一枚だけ、片側の釘が浮いていた。
板と柱のあいだに、手の入るほどの隙間があいている。
そこから湯気が上がっていた。
糸ほどの細さで、廊下の高さまで届く前に消えた。
「これは、いつ打ったものですか」
「宿の者が打ちました。ずいぶん前です。使いませんので、そのままにしてあります」
「湯は落としてあるんですね」
宇野さんは、おれの顔を見た。
それだけだった。
返事は来なかった。
駐在さんが腕時計に目をやったので、おれは訊いたことを引っこめた。
工具袋からバールと釘抜きを出して、床に並べた。
手袋をはめた。
それから言った。
「開けます。ただし、閉じ込められている物の——」
そこで舌がもつれた。
閉じ込められている、で一度切れて、責任は負いません、が自分でも聞こえないくらいの音になった。
「早くしてくれ」と駐在さんが言った。
おれは手袋をはめ直した。
釘は素直に出てこなかった。
錆びて木を噛んでいる。
一本目に十五分かかって、額が湿った。
上の板から順に外して、床へ立てかけていった。
四枚目を抜いたところで、手袋の指先が濡れた。
板の内側が濡れていた。
五枚目に手をかけると、木がわずかに撓んで、上の縁に隙間ができた。
顔に、湯気が来た。
冬の朝に銭湯の暖簾をくぐったときの、あの熱だった。
おれは板を持ったまま半歩下がった。
駐在さんが後ろで、おい、と言った。
板を全部外した。
中は湯だった。
石の湯船に、縁の際まで満ちている。
上がった湯気が天井の梁に当たって、また下りてくる。
窓は閉じている。
戸も閉じている。
この建物に電気は来ていない。
湯船の縁に、道具が並べてあった。
懐中電灯、巻尺、長い温度計、黒い野帳。
四つとも縁に沿ってまっすぐ、間隔まで揃えて置いてある。
片づけた並べ方ではなかった。
これから使う人が置いた並べ方だった。
脱衣所へ回った。
籠は空だった。
着ていた物も、履いていた物もなかった。
人はどこにもいなかった。
昼前に設備屋が来た。
二年前に元栓を閉めた業者だという。
五十くらいの男で、機械室から戻ると地面にしゃがみ、濡れた土に指で図を描いた。
「旧館の元栓は、二重なんですよ」
男は二本の線を引いて、そのあいだに丸を二つ入れた。
「一次側と二次側。うちが回してテープを巻いたのは、二次側です。一次側は増築のときの図面に載っていない。地下で生きてたんでしょう。どこかで抜けて、旧館の湯だけ回っていた。そういう話です」
「三年、誰も気づかずにですか」
「板が打ってありましたから」
駐在さんは、それで納まった顔をした。
手帳に何か書いて、ボールペンの尻で膝を叩いた。
理屈は通っていた。
おれの耳にも、ちゃんと通って聞こえた。
午後に新開見立事務所の所長が来た。
新開さんは車を降りるなり宇野さんに頭を下げ、それから駐在さんと長いこと話した。
おれは玄関の框に腰かけて、聞くともなく聞いていた。
見立ての仕事は去年から減っている。
早川という人は春に所長へ金の相談をしている。
額のところで所長は一度口ごもった。
奥さんには話していないらしい。
「そういうことも、あるんですよ」と駐在さんが言った。
「よくあるんです、車を置いていくの。荷物ごと置いて、電車で行く。半年経って、まるで別の県で見つかる」
宇野さんが小さく息を吐いた。
安心した人の吐き方だった。
おれも、そのとき納得していた。
湯は配管の話で、人は本人の都合の話だ。
そう並べれば、朝からの出来事はきれいに片づく。
片づいたのだから、おれは板を積んで帰ればよかった。
帰りぎわに、縁の野帳を取った。
人に渡す物なら中は見ないほうがいいのだろうが、おれはめくった。
最後の頁に、二行だけあった。
一五時一〇分/湯船 四一・二/桶 四一・二
一五時四〇分/湯船 四一・二/桶 二六・〇 ※直接検温済
細くて、まっすぐな字だった。
数字の意味は分かる。
汲み出したほうは冷めて、湯船のほうは冷めていない。
分からなかったのは、後ろに添えられた五文字だ。
直接検温済。
何を、直接、測ったのか。
全員が説明を終えて帰り支度を始めている場所に、その五文字だけが残っていた。
坂を下りて、電波の立つところで車を停め、社長にかけた。
板五枚、外しました。
中は湯です。
満ちていて、温かいです。
人はいませんでした。
堂島はしばらく黙ってから言った。
「おまえ、触ったか」
「触ってません」
「湯にもか」
「野帳を持っただけです。湯には入れてません」
「じゃあいい」
それだけだった。
なぜ訊いたのかは言わなかった。
この業界の年寄りは、肝心なところを教えない。
教える代わりに、次にどうするかだけを寄こす。
「助手席に名簿があるだろう。怪異相談の欄を見ろ」
物入れに、二つ折りの名簿が入っていた。
怪異対応登録事業者名簿。
県ごとに欄が分かれていて、うちのような開錠屋も端のほうに載っている。
怪異相談の欄は、その頁に一行しかなかった。
屋号はなく、名前と番号だけだった。
おれは番号を押した。
四回で出た。
「堂島開錠の郷原と申します。名簿を見てかけました」
「怪異相談の慈恩です」
風の音がした。
屋根の下にいない人の声だった。
おれは順に言った。
板を五枚外したこと。
元栓が二重だったこと。
中の湯が満ちて温かいこと。
人がいないこと。
野帳の二行と、後ろの五文字。
相手はどれにも相づちを打たなかった。
全部言い終わってから、声が返ってきた。
「明日、そちらへ行きます」
低い声だった。
若いのか、そうでないのか、判じられない声だった。
「それまで誰も入れないでください。湯には触らないように、と伝えてください。理由は、行ってから話します」
「あの、それは——」
「朝のうちに着きます」
電話は切れた。
携帯を耳から離した。
坂の下から先に、空の色が抜けはじめていた。
誰も入れるな、と言われた。
湯には触るな、とも。
触ったかと社長にも訊かれた。
おれは触っていない。
触っていないはずだった。
そう思ってから、おれは自分の手を見た。
おれは、まだ手袋を外していなかった。





