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神宝町怪異相談 ~働く人の怪異をほどく、神宝町の拝み屋~  作者: K3/KASANE
しまい湯

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第一話 見に行っただけです


 わたしは見立て屋という仕事をしている。


 畳んだ宿や店や工場に入って、建物と設備が今どうなっているかを見て、紙に書いて渡す。


 直しはしない。


 片づけもしない。


 見て、書くだけだ。


 だから引き受けるときは、必ず先に同じことを言う。


 触る前に、呼んでください。


 順番が逆になると、たいていのものは高くつく。


 抜いた釘は、元には戻らない。


 その日、わたしは板を一枚も外さなかった。


 外さないまま、触った。


 十一月の半ばに、秩父の近くの山道を車で上がった。


 霧沢温泉という古い湯の町で、坂の両側に宿が四つ残っている。


 うち三つは看板を下ろしていた。


 道の端に、濡れた落ち葉が寄っていた。


 楓月荘は、坂を登りきった先にあった。


 鉄筋の四階建てで、正面に看板の跡がある。


 文字は外されていて、ボルトの穴だけが横一列に並んでいた。


 書類によれば昭和四十八年の増築、客室は四十二。


 廃業は二〇〇二年。


 団体を入れるために建てた大箱だ。


 玄関の前に、女の人が待っていた。


 宇野タキさん、六十七。


 この宿の持ち主で、畳むまで女将をしていた人だという。


 厚手の上着の上から、鍵の束を握っていた。


 「早川と申します。新開見立事務所の者です」


 タキさんは束から一本を選んで、玄関の錠に差した。


 錠は固かった。


 二度、三度と手首をひねって、ようやく戸が横に滑った。


 「ありがとうございます。助かります」


 わたしは頭を下げた。


 鍵を開けてくれる人がいなければ、この仕事は外に立っているだけで終わる。


 だから礼は先に言うことにしている。


 まず館内を見せてもらった。


 露天は埋めてあった。


 石だけ残して土を入れ、砂利をまいてある。


 大浴場は水が抜けて乾いていた。


 タイルの目地が白く粉を吹いて、排水口の底に虫の殻が溜まっている。


 旧館は、渡り廊下の先にあった。


 木造の低い建屋で、増築のときに壊さずに残した部分だという。


 突き当たりに、内湯の入口があった。


 入口の外側に、板が打ってあった。


 五枚。


 横に渡して、太い釘で留めてある。


 釘の頭は錆びていた。


 「これは、どうしてですか」


 「使わないので」とタキさんは言った。


 それだけだった。


 わたしは板の枚数と釘の本数を書いた。


 板は外さなかった。


 外すのはわたしの仕事ではない。


 開ける必要があるなら開錠屋を呼んで、立ち会って、記録を取る。


 それが順番だ。


 代わりに、脇の壁に手を当てた。


 温かかった。


 板壁も、下の土台も、指の腹にぬるい熱を返してきた。


 十一月の山で、電気の止まった建物で、そこだけが人の肌ほどの温度をしていた。


 わたしは手を離して、広間へ戻った。


 折りたたみの椅子を二つ借りて、膝の上で野帳を開いた。


 廃業のいきさつから聞いた。


 団体の予約が三年続けて減ったせいで、最後の年は四十二の部屋のうち十も開けていない。


 板前は隣の県の宿へ移り、仲居は近くの工場や店に入った。


 電気は畳んだ年の十二月に止めた。


 水道は基本料金だけ残してある。


 掃除に要るからだ。


 タキさんはよく喋る人だった。


 相づちだけ打って、書き取っていた。


 聞いていると分かると、人は自分から順番に並べていく。


 並べ終わったあとに残るものが、たいてい大事だ。


 旧館の湯は落としてあるんですね、とわたしは訊いた。


 「電気は止めました」とタキさんは言った。


 それから廊下の柱時計の話になり、看板の文字を外した業者の話になった。


 温泉宿の持ち主が一時間近く喋って、湯の話だけが一度も出てこなかった。


 わたしは裏へ回った。


 機械室の扉を開けて、源泉の元栓を見た。


 バルブは閉まっている。


 ハンドルに封印のテープが巻いてあって、油性の字で日付が書いてあった。


 二年前だ。


 テープは切れていない。


 配管を握って、指の背で叩いた。


 乾いた音がした。


 中に何も入っていない音だ。


 上と下と、曲がりのところと、三か所を叩いた。


 廊下へ戻って、もう一度板を見た。


 いちばん下の一枚が、片側だけ緩んでいた。


 釘が半分抜けて、板と柱のあいだに手の入るほどの隙間ができている。


 その隙間から、湯気が出ていた。


 細い筋になってまっすぐ上がり、廊下の冷えた空気に触れて消えていた。


 わたしはしばらく、それを見ていた。


 懐中電灯を出して、隙間に光を入れた。


 顔を寄せた。


 中に湯が満ちていた。


 石の湯船の縁ぎりぎりまで、面が上がっている。


 光を動かすと、湯気の下でその面がゆっくり揺れた。


 洗い場に伏せた桶の底まで、濡れて光っていた。


 背中が冷えたのは、そのときだ。


 わたしは鞄から温度計を出した。


 差せる長さのものを一本、いつも入れてある。


 隙間から腕を差し入れて、先を湯に沈めた。


 柄を握った手は、湯の上にあった。


 板は外していない。


 四一・二。


 もう一度沈めて、同じだった。


 野帳に時刻と数字を書いた。


 一五時一〇分。


 道具箱に柄杓と手桶がある。


 水回りを見る仕事では、わりに使う。


 わたしは柄杓を隙間から入れて湯を汲み、手桶へ移した。


 それを提げて外へ回り、旧館の縁側の端に置いた。


 北向きで日は当たらず、風はほとんどなかった。


 同じ湯を、同じ時刻に汲んである。


 あとで書くときに、そのほうが困らない。


 玄関の脇に、緑の公衆電話が一台残っていた。


 携帯は坂の途中から圏外になる。


 受話器を上げると、線は生きていた。


 設備屋に電話をした。


 二年前に元栓を閉めた業者の番号は、書類の裏にあった。


 「あの元栓は、うちが閉めました」と相手は言った。


 「わたしが自分で回して、テープを巻きました」


 「では、なぜ温かいんですか」


 相手は答えなかった。


 受話器の向こうで、事務所のラジオが長いあいだ鳴っていた。


 それから今日は行けません、とだけ言って、電話は切れた。


 縁側へ回った。


 桶の湯は、湯気を上げていなかった。


 指を入れる前に温度計を沈めた。


 二六・〇。


 廊下へ戻って、もう一度、隙間から測った。


 温度計は湯の中で浮く。


 目盛りが落ち着くまで、押さえていないといけない。


 わたしは指を添えた。


 指の先が、湯に入った。


 四一・二。


 野帳に二行書いた。


 一五時一〇分/湯船 四一・二/桶 四一・二


 一五時四〇分/湯船 四一・二/桶 二六・〇 ※直接検温済


 ※直接検温済、と後ろに添えた。


 人の記録を読む仕事をしていると、自分の記録にも同じ厳しさを求めるようになる。


 省いたことは、あとで必ず自分に返ってくる。


 もう一度、公衆電話へ行った。


 事務所は誰も出なかった。


 留守番電話に切り替わってから、わたしは短く吹き込んだ。


 「早川です。霧沢の楓月荘に来ています。明日、開錠屋を呼びます。板は外していません。中の湯が、落ちていません」


 受話器を置いた。


 山は日が落ちるのが早い。


 四時を回ると、坂の下の色から先に沈んでいく。


 明日また来ます、とタキさんに伝えた。


 タキさんは錠に鍵を差したまま、はい、と言った。


 それ以上は何も言わなかった。


 道具をまとめて、車へ運んだ。


 懐中電灯と巻尺、温度計と野帳。


 積むものはいつも同じで、積む順番も決めてある。


 助手席に野帳を置いて、エンジンをかけた。


 そこで、桶を思い出した。


 縁側に置いたままだった。


 置き忘れは、いちばんつまらない失敗だ。


 誰の物か分からない桶が一つ残っているだけで、次に来た者の記録は濁る。


 わたしは車を降りた。


 桶はそのままあった。


 持ち上げると、ただの水になっていた。


 庭にまいてもよかった。


 ただ、その湯は宿のもので、わたしのものではない。


 汲んだのなら戻す。


 それだけの話だ。


 廊下へ戻って、隙間に桶の口を当てた。


 傾けると、湯船の面に落ちて、細かい音がした。


 最後の少しが縁に残ったので、桶を横にして振った。


 そのとき、手首から先が隙間の内側に入った。


 湯の面に、指が触れた。


 わたしは桶を空にして、手を拭いた。


 湯は、まだ温かかった。

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