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神宝町怪異相談 ~働く人の怪異をほどく、神宝町の拝み屋~  作者: K3/KASANE
汗が、出ない

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前編 三番の前


 三番の前に立った日は、汗が一滴も出ない。


 揚げ場には、フライヤーが三台並んでいる。奥から一番、二番、三番だ。三番だけが壁際で、排気のフードがいちばん遠い。夏になると、そこだけ室温が四十度を越える。壁にかけた温度計は八月のあいだ、四十二から一度も下りなかった。


 白衣は厚手で、下に長袖を着る。帽子とマスクと手袋をつけて、白い長靴を履く。夏でも肌はどこにも出せない。おれたちは、その格好で油の前に立つ。


 その中で、おれの体だけが乾いていた。


 おれは大瀬食品の神宝工場で、コンビニに出す弁当のおかずを揚げている。朝の六時に入って、三時に上がる。持ち場はから揚げとコロッケと、季節で変わる一品だ。


 揚がったものをバットに並べて、番重に積んで、隣のラインへ流す。から揚げは、多い日で二万個を越える。手は止められない。ラインの向こうで、盛り付けの人たちが待っている。


 番重は一枚が重い。腰は前の仕事で一度やっている。高校を出てから建材屋の配送を四年、それで辞めた。ここに入って三年目で、契約社員で、半年ごとの更新だ。


 積みながら、九月のはじめの面談のことを考える。更新の話は、その日まで誰も何も言わない。実家は隣の市で、母親が一人でいる。仕送りというほどではないが、毎月いくらか送っている。面談の月は、口の中がずっと苦い。


 三番はいちばん熱いので、みんな嫌がる。黒岩さんが朝に配置の紙を貼るとき、三番の欄にはたいてい、おれの名前が入っていた。去年の夏に誰かが辞めて、穴が空いて、そのときいちばん新しかったおれが入った。年が変わってからは、その欄はおれだけになった。文句を言ったことはない。言えば、次の紙にどう書かれるか分からなかった。


 最初に気づいたのは、白衣の背中だった。


 二番に立った日は、休憩に上がるころには背中が濡れて、脱ぐと体から湯気が立つ。三番の日は、その白衣が乾いたまま脱げた。帽子の内側も乾いている。手袋を外しても、指の腹がしわにならない。


 喉は渇いた。渇きだけは、ほかの日よりひどかった。作業場に飲み物は持ち込めない。決まりだ。飲めるのは休憩室に上がってからで、そこまでは水を一口も飲めない。


 乾くというのは、思っていたより気持ちの悪いことだった。口の中が粘って、舌が上あごから離れにくくなる。目のふちが張って、まばたきの音が自分に聞こえる。耳の奥で、細い音がずっと鳴っている。体の表面だけが、油の熱をそのまま溜めていく。


 休憩室でそれを言ったら、二番の若いのに笑われた。いいっすね、汗かかない体質、洗濯が楽で、と言われた。おれも笑った。笑うしかなかった。


 家に帰ると、決まって頭が痛くなった。飲んでも汗にならない。腹の中に溜まっていく感じだけがあった。


 八月の十九日に、視界が白くなった。


 揚がったものをバットへ移していて、急に、目の前の白が広がった。膝から力が抜けて、フライヤーの縁に手をついた。手袋ごしでも、あれは熱かったはずだ。おれはそれを覚えていない。


 黒岩さんが肩を掴んで、休憩室へ押し込んだ。麦茶を二杯飲んで、塩の飴を舐めた。三十分で戻れた。


「暑気あたりだ」と黒岩さんは言った。「慣れる」


 その日のことは、班のなかで一日で終わった。夏はよくある。去年は盛り付けのパートさんが二人、救急車で運ばれている。休憩室には塩の飴の缶が置いてあって、それが工場の対策のすべてだった。


 医者にも行った。若い先生は、軽い脱水でしょう、と言った。水を飲んで、塩を舐めて、と。汗が出ないことについては、そういう人もいます、で終わった。


 拝み屋の話をしてきたのは、盛り付けのパートの人だった。三番の話をしたら、そういうのを見る人が町にいる、と言われた。


 駅から歩いて、レンガの古いビルの一階の戸を叩いた。中は昼でも薄暗くて、細い線香の煙がまっすぐ上がっていた。出てきたのは思ったより若い男で、アロハシャツを着ていた。目が糸みたいに細い。


「佐藤です」と男は言った。「話を、聞きます」


 おれは、三番の前では汗が出ない、と言った。言ってから、自分でばかばかしくなった。


 その人は笑わなかった。ノートも出さなかった。


「いつからですか」


「今年の夏からです」


「その場所に立った日だけですか」


「たぶん」


「あなたのほかに、そこへ立つ人はいますか」


 おれは、いない、と答えた。答えてから、それがどういうことなのか、初めて自分で聞いた気がした。


「その揚げ場を、見せてください」


 次の日、慈恩さんは黒いスーツで来た。


 見学ということにして、白衣を着せ、帽子をかぶらせた。五分で額から汗が落ちた。十分でシャツが背中に貼りついた。おれの隣で、この人はただの人間の速さで濡れていった。


「フードが遠いですね」


 慈恩さんは三番の上を見上げた。それから壁の温度計と、油の面と、おれの長靴の口まで見た。


「四十二度で、長袖で、水が飲めない。それだけで、汗は出なくなります」


「じゃあ、暑さですか」


「暑さです」慈恩さんは言った。「ぜんぶ、暑さで説明がつきます」


「ほかの日は、どうですか」


「二番の日は出ます。休みの日も出ます。三番の日だけです」


「去年の夏は」


 おれは考えた。去年も三番に入っていた。去年は、たしかに汗をかいた。背中が濡れて、休憩室で白衣を脱ぐと湯気が立った。


「去年は、出てました」


「では、今年からです」


 慈恩さんは、四月からの配置の紙を見せてもらって、指で上から下までたどった。


「三番の欄だけ、一人ぶんしか書いてありませんね」


 ほかの欄は、日によって名前が入れ替わる。三番だけが、四月から同じ字で同じ名前だった。


 慈恩さんは紙を返した。


 それから黒岩さんに、一つだけ訊いた。


「去年と今年で、この場所で変わったことはありますか」


 黒岩さんは、機械は変えていない、油も粉も同じだ、と答えた。それから思い出したように付け足した。


「人は減ったな。去年の暮れに二人辞めた」


 その二人は、三番にも入っていた人だった。おれが固定になったのは、そのあとだ。


 慈恩さんは礼を言って、それ以上は訊かなかった。


 休憩に上がってから、慈恩さんは小さな瓶を出した。中に粗い塩が入っていた。


「これを、あなたの汗で溶かします」


 おれは手のひらに塩を受けた。しばらく握っていた。


 塩は、粒のままだった。


 慈恩さんは、おれの手のひらをしばらく見ていた。油の熱で赤くなっているのに、乾いている手だった。それから塩を瓶に戻した。蓋を締める音がやけに大きかった。それについては、何も言わなかった。


 その週、工場はフードを掃除した。三番の横に扇風機が一台入った。業者が来て、半日で終わった。おれの相談が上がったからではない。二番の若いのが休憩室で倒れかけたからだ。


 効果はあった。その若いのは扇風機の前で笑いながら顔を拭いていたし、黒岩さんは首のタオルを何度も絞っていた。みんな、汗をかいていた。


 金曜、おれは二番から入った。


 二時間で、背中まで濡れた。額の汗が、マスクの端へ流れた。


 昼前、黒岩さんに言われて三番へ回った。


 一歩ぶんだった。


 フライヤーの縁を回り込んで、三番の前に立つ。


 五分もしないうちに、額が乾いた。


 首筋も、乾いた。


 喉だけが、急に渇いた。


 休憩を挟んで二番へ戻った。


 十分後、また額から汗が落ちた。


 携帯が鳴ったのは、その夜だ。


「更衣室に、古い箱がありますね」と慈恩さんは言った。


「……ノートの箱ですか」


「明日、あれを開けます」慈恩さんは言った。「あなたの前にあそこへ立っていた人を、探します」


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