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神宝町怪異相談 ~働く人の怪異をほどく、神宝町の拝み屋~  作者: K3/KASANE
一分、早い

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後編 届くまでの一分

電気を切れば、音は止まるはず


 佐々木さんは渋い顔をしたが、点検ですと言うと、それで直るのかと二度訊いてから承知した。


 昼のうちに北三丁目の制御盤の扉を開けてブレーカーを落とし、鍵をかけた。


 夕方、おれは南一丁目の交差点に立った。


 慈恩さんは北三丁目に残っている。


 同じ手順で腕時計を合わせ、ストップウォッチを握った。


 三日前にここで測ったときは、五時ちょうどだった。


 四時五十九分〇秒。


 頭の上で鳴りはじめた。


 おれは親指を止めたまま、しばらく数字を見ていた。


 誤差はない。


 北の方角からは何も聞こえない。


 手帳の日付の下に、二つ目の数字を書いた。


 軽トラで北三丁目へ戻ると、慈恩さんが道の端に立っていた。


 「こっちは黙ってました」


 「移りました」


 おれは運転席の窓に肘を置いた。


 喉の奥が乾いていた。


 「機械に憑いてるんなら、電気を切れば黙るはずですよね」


 「そうですよ」


 慈恩さんは煙草をポケット灰皿へ落とした。


 「鳴っているのは、いまの機械じゃありません。この町が五時と呼んできた時刻です」


 意味は分からなかった。


 それでも、腕の毛が立った。


 「時刻に、憑くんですか」


 「憑くというより、決まりごとですよ。塩は、物に置くものです。時刻には置けません」


 慈恩さんは道を歩きだした。


 歩きながら、調べるのはあなたの仕事だと言った。


 ぼくが読んでも字が読めるだけです、と。


 その夜、店で台帳を繰った。


 十二年、異常なしが続いている。


 この十二年、機械は一度も口答えをしなかった。


 何かが起きたのは、春に四つとも新しくしてからだ。


 次の日、公民館へ行った。


 郷土資料は書棚二つぶんしかない。


 おれは埃の匂いのする紙をめくった。


 寺の鐘は戦争のときに持っていかれていた。


 梵鐘も半鐘も、供出の日に台車で運ばれる写真が一枚だけ残っている。


 三ツ輪製作所が敷地の角にサイレンの櫓を立てたのは、それから十二年あとだった。


 十二年。


 この町には、五時を鳴らす物が一つも無かった。


 それでも人は五時に手を止めていた。


 写真の裏に貼られた聞き書きに、田んぼの人が土手へ上がる時刻はみな同じだった、と書いてある。


 鳴らす物が無くても、町の五時はあった。


 その足で町内会の倉庫を開けた。


 会計書類の段ボールの底に、紐で綴じた薄い帳面が三冊あった。


 当番帳だ。


 撞く者の名と日付が並んでいて、二冊目の途中から親父の字になる。


 うちの台帳の最初の一年と同じ、几帳面な小さい字だった。


 最初の頁に、当番の心得が七行書いてある。


 四行目にこうあった。


 ——四時五十九分に撞く。


 理由は書いていない。


 おれは帳面を膝に置いたまま、倉庫の床に座り込んだ。


 なぜ一分早く撞くのか、七行のどこにも説明がない。


 当番はみな知っていて、書く必要がなかったのだ。


 夕方、めっき屋へ行った。


 沖田さんは槽の縁で目盛りを見ていた。


 おれは帳面の頁を開いて見せた。


 「四時五十九分でした。昔から一分早いんです」


 「早かないよ」


 沖田さんは手を止めずに言った。


 「音が北の端まで届くのに、それくらいかかる。着いたときが五時だ。おれのガキの時分は、みんなそれで畑を上がった」


 おれは土間に立ったまま動けなかった。


 鐘は一分早く撞かれ、一分かけて渡ってきて、着いたところで五時になった。


 それは間違いでも故障でもない。


 町の取り決めだ。


 沖田さんが気にしていない理由も、そこで分かった。


 この人にとっては、鳴っているほうが正しい五時なのだ。


 おれは春に、その人の頭の上で新しいスピーカーの向きを直した。


 その足でレンガビルの一階に上がった。


 線香が一本立っていて、前と同じ細さだった。


 おれは畳の上で、誰にも言っていないことを言った。


 「一分を消したのは、おれです」


 工場が閉まった年、おれは家業に戻って有線放送の設定をやり直した。


 設定表の欄に、おれは十七時〇〇分と書いた。


 正しい時刻に直したつもりだった。


 親父の当番帳は倉庫にあったが、おれは一度も開かなかった。


 「親父は何も言いませんでした。翌年の春に死にました」


 握った拳の中で、爪が掌に当たった。


 慈恩さんは何も言わなかった。


 灰皿の縁を指の腹で拭って、そのまま黙っていた。


 鳴らす物が無かった十二年と、おれが一分を消してからの十二年が、頭の中で同じ長さに並んだ。


 次の日の夕方、四時前に北三丁目へ行った。


 ブレーカーは前の日に戻してある。


 慈恩さんは道の端に立っているだけで、何もしなかった。


 まず制御盤の扉を開けた。


 それから当番帳を開いて、盤の上の平らなところへ置いた。


 四行目が上を向いている。


 小瓶の粗塩を手のひらに出して、汗で溶かした。


 慈恩さんが指したのはスピーカーではなかった。


 盤の内側の、手動放送の押しボタンだ。


 赤い樹脂の丸いやつで、線が切れたときにおれが自分の指で押すためのものだった。


 おれはその縁を、しめった指で一周撫でた。


 三ツ輪の事務所の壁にも同じ色のボタンがあって、三十二年、おれの指が触れていた。


 最後に無地のカードを渡された。


 何を書くかは言われなかった。


 おれはボールペンの尻を二度噛んでから、自分の字で書いた。


 次からは、おれが押します。


 慈恩さんはそれを読んで、意味を訊かなかった。


 説明もしなかった。


 カードは盤の内側の、扉を閉めれば見えないところに立てた。


 次の朝、南一丁目と東二丁目と駅前を回った。


 設定表の十七時〇〇分を消して、十六時五十九分と書いた。


 ビスを回す手は覚えている作業をしているのに、指先だけが熱かった。


 北三丁目の盤には触らずに置いた。


 理由はうまく言えない。


 店に戻って保守台帳を開いた。


 異常なし。


 異常なし。


 十二年ぶん、親父の字とおれの字で同じ言葉が並んでいる。


 おれはその下に、初めて違う一行を書いた。


 四時五十九分に設定。


 意図的。


 会長には笑われた。


 わざと一分ずらすのかと訊かれて、そうですと答えた。


 佐々木さんは湯呑みを持ったまま、変わったことをするなあ、と言った。


 悪気はない人だ。


 おれは頭を下げて帰った。


 めっき屋に寄って、同じことを説明した。


 沖田さんは槽から目を上げずに、そうだよ、と言った。


 それだけだった。


 おれは土間に立ったまま、耳の遠い年寄りだと思っていた自分の顔を思い出していた。


 その日の夕方、北三丁目の電柱の下で待った。


 北三のタイマーだけ、まだ正時のままだ。


 テスターの棒を出力端子に当てる。


 四時五十九分。


 針は動かない。


 音も鳴らない。


 五時ちょうど、針が振れて、頭の上でチャイムが鳴りはじめた。


 おれは棒を当てたまま空を見た。


 機械が言ったとおりの時刻に、機械が鳴った。


 それだけのことが、なぜか喉に詰まった。


 道の向こうで慈恩さんが煙草をしまって、なぜ止まったのかは何も言わなかった。


 町の五時を町に返したから、もう機械に用が無くなったのだと思う。


 おれはそう思っただけで、誰にも言っていない。


 翌朝、北三丁目のタイマーも四時五十九分に直した。


 七月に、めっき屋のシャッターが下りた。


 廃業の挨拶は葉書一枚で、槽は業者が二日がかりで運んでいった。


 沖田さんは息子の家へ移るという。


 北三丁目で五時に仕事を終える人は、これでいなくなった。


 それでも四時五十九分になると、チャイムは鳴る。


 更地の草はもう腰より高い。


 誰も出てこない道を、四つの音だけが一分かけて渡っていく。


 人の帰ったあとの工場で、誰も止めなかったベルトが回り続けているのに、少し似ていた。


夕方五時の音の話でした。

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