後編 渡す前に
水は下へ行く。誰も逆らいません。
八月十四日は、夜が明ける前から人が出た。
梶谷さんは公民館の前で名簿を見ながら、班を三つに割った。
二つを沢筋の下流へ、一つを下の橋のまわりへ置いた。
落ちたんなら下だ、と梶谷さんは言った。
水は下へ行く。
誰も逆らわなかった。
おれも逆らわなかった。
沢は膝までの深さで、水は冷たかった。
消防団は竹竿で淵を突き、青年団は水際の草を掻き分けた。
おれも下流を三時間歩いた。
おれの体には何も来なかった。
名前だけでは、おれの体は何も言わない。
おれが昨日言ったのは、あの一言だけだった。
それだけで、五十人ぶんの足の向きが決まっていた。
朝のうちに、握り飯の箱を苅部の家へ運んだ。
三和土の白い提灯は、箱が開いたきりだった。
紐が縁から垂れている。
初盆の支度が半分で止まっていた。
座敷の仏壇には去年の写真が立ててあった。
作業着の男の人が軽トラの荷台に腰かけて笑っている。
奈津さんは箱を上がり框に置いたきりで、蓋も開けなかった。
台所には炊いた飯が釜のまま残っていた。
奈津さんは台所と座敷を行ったり来たりしながら、同じことを何度も言った。
「あの子は、落としたんです。落として、拾いに戻って、足を滑らせたんです」
おれは頷いた。
昼は軽トラの中にいた。
窓を開けても風は来なかった。
ラジオを切ると、前の日の自分の声だけが残った。
おれの体には根元しか無い。
あそこに立ったことがあるという記憶だけが増えていて、沢のほうは一度も来ていない。
外していない。
そういう感触だけがあった。
だが口に出せばどうなるか。
物が根元にあって、あとから沢へ落ちたのなら、置いたという目が出る。
奈津さんの顔を見たあとで、おれにはそれが言えなかった。
おれは黙るほうを選んでいた。
午後になって、ホテルの喫茶室へ行った。
慈恩さんは四日前と同じ席にいた。
真夏に黒いスーツで、卓の端にポケット灰皿がある。
おれは向かいに座って、金は払いますと言った。
祓ってくれ、とも言った。
慈恩さんは煙草に火をつけてから、おれの話を最後まで聞いた。
それから、こう言った。
「同じ人は、同じところで落としますからね。依頼人の喋り方でも道は絞れる。半分は、それで説明がつきますよ」
おれは頷いた。
おれもそう思っている。
「今回は、外しましたか」
「外しました」
「外してませんよ。あなたが当てたのは、根元です。物のほうが、あとから動いた。……勘のいい人は、物の無い場所を指しません」
おれの手が止まった。
慈恩さんは、おれの顔の少し上を見ていた。
四日前と同じ高さだった。
それから灰を落とした。
「あなたに見えているのは、物が手を離れた場所です。手を離した理由は、物には残りません」
慈恩さんは卓の上に、指を一本だけ立てた。
「落としたのも、置いたのも、取り上げられたのも。あなたには、ぜんぶ同じ一点で来ています」
煙草入れ。
指輪。
首輪。
三つとも、おれの体には同じ来かたをしていた。
集積所の前も、台所の窓辺も、土手も、おれには区別がつかない一点だった。
おれはそれを十五年、同じ一言で渡してきた。
灰皿の縁で、細い煙が横に折れた。
おれは自分の膝を見ていた。
「祓えないんですね」
「憑いていないものは、剥がせません。ですから宿題です」
慈恩さんは内ポケットから無地のカードを一枚出して、卓に置いた。
「見つけても、黙って渡さないでください。渡す前に一度だけ訊く。落としたんですか、置いたんですか。……それだけです」
「慈恩さんは山へ来ないんですか」
「ぼくは行きません。あなたの町ですよ」
カードには何も書いていなかった。
あなたの言葉で一言、と言われた。
おれはそれを胸のポケットに入れた。
夕方の公民館は、人と汗でいっぱいだった。
おれは梶谷さんの前に立った。
「昨日、落ちてました、と言いました。あれは口の癖です。落ちたのか置いたのかは、おれには分かりません」
場が静かになって、それから割れた。
梶谷さんは名簿を卓に伏せた。
「今日一日、五十人を下へ歩かせたのは何だったんだ」
後ろで、じゃあ昨日のは何だったんだ、という声がした。
若いのが二人、おれから目を逸らした。
おれは返さなかった。
返す言葉が無かった。
梶谷さんはしばらく黙ってから、どっちだと思う、と訊いた。
「分かりません」
「……それを、先に言え」
梶谷さんは名簿を取り上げて、明日の班を初めから書き直しはじめた。
その晩、苅部の家へ行った。
奈津さんは公民館での話をもう誰かから聞いていて、おれの顔を見ても何も言わなかった。
「拓海くんの物で、家に無いものはありますか」
奈津さんは仏壇の引き出しを開けて、しばらく手を止めていた。
旦那さんの形見のライターが無い、と言った。
真鍮の、蓋のついたやつだ。
山仕事の合間に使っていたものだという。
おれは先に断った。
「分かるのは、手から離れた場所だけです。落としたのか、置いたのかは、分かりません」
奈津さんは頷いて、息子の名前と、なくなったライターのことを口にした。
体の記憶が一つ増えた。
山の上だった。
林道を登りきったところにある、古い作業小屋の中だ。
沢とは逆だった。
おれが言い終わっても、奈津さんはしばらく動かなかった。
それから、思い出したように言った。
「あの朝、玄関に、鍵がかかっていました」
飛び出していく子どもは鍵をかけない。
おれが何か言うより先に、奈津さんが自分で言った。
「上へ行ってください」
それから奈津さんは受話器を取って、梶谷さんの家の番号を回した。
方角を決めたのは、おれではなかった。
十五日の朝は、五時から山だった。
梶谷さんは班を二つに割って、上の林道へ入れた。
広報車が入れるのは中腹までだ。
梶谷さんは助手席から拡声器を出して、奈津さんに渡した。
使い方は教えなかった。
奈津さんは拡声器を両手で持った。
口が近すぎて、初めの一声は割れた。
奈津さんの声が谷へ出て、少し遅れて返ってきた。
三度呼んで切るやり方は、防災無線と同じだった。
奈津さんは三度で止めずに、何度も呼んだ。
四十分ほどして、上の斜面で人が動いた。
作業小屋の戸が内側から開いて、拓海くんが出てきた。
膝と肘が土で汚れていた。
自分の足で林道まで下りてきた。
誰も抱き上げなかった。
頬に乾いた土がついていて、唇だけが白かった。
拓海くんは何も言わなかった。
奈津さんも訊かなかった。
小屋の軒の下には、雨水を溜めた古いポリタンクがあった。
柄杓が一本、口に伏せてあった。
山仕事の人が置いていったものだ。
おれは小屋の前で、煙草を一本だけ土に立てた。
火はつけなかった。
拓海くんのためではない。
去年の夏に死んだ人のために立てた。
その晩、店の二階でカードを出した。
鉛筆で一行だけ書いた。
「落としたのか、訊きます」
翌週から、おれは渡し方を変えた。
見つけた物を出す前に、必ず訊く。
落としたんですか、置いたんですか、と。
訊かれた人はたいてい困る。
財布を返した相手に十秒黙られたときは、こっちの背中に汗が出た。
困った顔をされるのは、思っていたよりこたえる。
なぜ場所だけが来て、その理由が来ないのか。
それは相変わらず分からない。
おれの体は前と同じに動いている。
変わったのは、おれの口の順番だけだった。
九月に入ってから、ホテルの喫茶室へ報告に行った。
慈恩さんは山の話を最後まで聞いて、拓海くんが何を言ったかは訊かなかった。
それから灰を落として、こう言った。
「探すのは、これからも達者にやってください。渡すのだけ、下手になってもらいます」
おれは笑わなかった。
慈恩さんも笑わなかった。
伝票は慈恩さんが取った。
今日はいただきます、と言われた。
帰りに、平尾さんの家の前を通った。
節子さんは門のところで箒を使っていた。
おれが近づくと手を止めて、会釈をして、そのまま家に入った。
戸が閉まってから、箒の音はもうしなかった。
おれは、あの煙草入れが手を離れた場所を、いまでも正確に言える。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。





