後編 あの角まで
後編です。
若林さんが電話をかけたのは十一時半だった。
受話器を置いてから、行ってこい、という顔でわたしを見た。
レンガの古いビルは、駅前の通りから川のほうへ二本入った角にあった。
エレベーターは扉が重く、上がるあいだじゅう金具が鳴っていた。
十階のいちばん奥の戸に、白い名刺が一枚だけ貼ってある。
名前のほかには何も刷っていない名刺だった。
戸を引くと、扇風機が首を振っていた。
机の向こうで、男の人が椅子を斜めにして座っている。
赤い花の散ったアロハシャツを着て、細い煙草を指に挟んでいる。
目は糸のように細かった。
「あー、どうもー。宇津木さんですかー」
声のほうへ頭を下げた。
灰は、机の上の携帯用の灰皿へ落としていた。
三日目の朝の顔から、袖の高さで腕を回る線と、腕時計の幅の白い帯と、軍手の口の線まで話した。
冷房は二十度で、雨戸まで閉めている。
慈恩さんは相槌しか打たなかった。
あー、はい。
あー、なるほど。
メモは取らず、途中で何も訊かなかった。
奥から若い女の人が出てきて、麦茶のコップを置いた。
十八か、そのあたりに見えた。
氷が二つ鳴った。
「どうぞ」
「ちーちゃん、ぼくのは氷を多めにー」
「はい」
女の人は盆を胸に抱えたまま、下がりぎわに、わたしのほうを見ずに言った。
「わたしなら、一度、その角に立ってみます」
「あー、はい、はい」
慈恩さんはそれだけ言って、煙草を灰皿でつぶした。
わたしはコップを持ったまま、返事をしそこねた。
「じゃ、行きましょうかー。明日の朝までなんでしょう」
慈恩さんは奥の襖の向こうへ引っ込んで、出てきたときには黒いスーツを着ていた。
仕事ですから、と言ってエレベーターのボタンを押した。
会館に着いたのは零時前だった。
若林さんが引き戸を開け、三人で冷えた空気のなかへ入った。
慈恩さんは細い線香を一本立てて、手を合わせた。
それから棺のそばに立った。
触らなかった。
ただ、顔の少し上のあたりをゆっくり見ていた。
急ぐ様子はまるでなかった。
「電話でうかがったぶんは、ぜんぶ合ってますよー」
ドライアイスの当て方も、乾燥も、化粧も、蛍光灯の白い光も、慈恩さんは一つずつ数えるように挙げて、うなずいた。
「ぜんぶ、そのとおりです。……宇津木さん、袖を見せてもらえますかー。ぼくは触りませんので」
わたしは白装束の袖に指を掛けて、肘の少し下までめくった。
線が出た。
慈恩さんが目を開けた。
細い糸が開くと、思ったより黒い目だった。
線を上から下へ、それから腕を回るぐるりを一度だけたどった。
まばたきをしなかった。
「服の形に、日は焼けません」
目はもう閉じていた。
「ここまで律儀な染みは、生きてる人の癖ですねー」
「痛んでるんじゃないですよー」
慈恩さんは棺から一歩下がった。
「戻ってるんです。この人の体は、四十年ぶん、外で出来てますから。三日も屋根の下にいたら、元へ戻りたくもなりますよねー」
止まるのか、と若林さんが低い声で訊いた。
「止まります。一度だけ、外の光に当ててください。当たれば、それで終わりです」
「戻ったぶんは、戻りませんけどー」
「白くは、ならないということですか」
「なりません」
慈恩さんは上着の内側から小瓶の粗塩と、無地のカードを一枚出して、棚の端に置いた。
使い方を短く言って、こちらへ向き直った。
「ぼくにできるのは、開けることだけです。どこで開けるかは、あなたの仕事でしょう」
会釈をして、慈恩さんは帰っていった。
非常口の緑のなかを、黒い背中が遠ざかった。
控室には、まだ明かりがついていた。
冷めた茶を替えに入ると、修さんは顔も上げずに話しはじめた。
母は四十年、あの角に立った。
朝の七時から八時十五分まで。
雨の日も、雪の日も、夏も。
学校のある日は一日も休まなかった。
三年前に膝を悪くして辞めて、それからはずっと家にいた。
「日陰が、一つもない角だ」
湯呑みを置く音が、思ったより大きく鳴った。
「みっともないと思っていた」
修さんはそれだけ言った。
そのあとは何も続けなかった。
わたしは頭を下げて廊下へ出た。
安置室に戻って、棺の小窓を開けた。
顔は濃かった。
白粉を厚く置いて上から色を殺せば、たぶん一段は隠れる。
二年やってきて、それくらいの見当はつく。
わたしは化粧箱の蓋を閉めた。
朝、控室から出てきた修さんに、わたしは頭を下げて言った。
「白くもできます」
修さんが顔を上げた。
「このままにも、できます。どちらも、お母さまです」
修さんは長いあいだ黙っていた。
それから、このままでいい、と言った。
理由は言わなかった。
順路のことを頼んだのは、そのあとだった。
小学校の前の角を回らせてください、と言うと、若林さんは道と火葬場の時間を確かめる顔をして、うなずいた。
「五分で戻れ」
その朝は、雲が一つもなかった。
二学期の始業日だった。
九時の四十分前に、わたしはカーテンを開けた。
遮光の裏地をたくし上げ、窓の鍵を回し、雨戸を端まで押した。
三日のあいだ、閉めることばかりしてきた部屋だった。
開けきると、隣家の壁に当たって返った光が、床を斜めに白く切った。
冷房を止めると、蝉の声が入ってきた。
棺の小窓も開けた。
光はまだ顔まで届かない。
当てるのは、あの角と決めていた。
粗塩は小瓶の半分を手のひらに出した。
汗で溶かせ、と慈恩さんは言った。
握っているうちに塩は角を失って、じわりと湿った。
指の腹に取って、棺の縁を一周撫でた。
木の合わせ目に、細い白い筋が残った。
ここまで、と決める線だった。
無地のカードには、朝のうちに書いてあった。
一行だけだ。
わたしも、そこを渡りました。
意味は誰にも言わなかった。
カードは、胸の上で組ませた手のそばへ置いた。
霊柩車は九時ちょうどに出た。
坂を下りて、二つ目の信号を左へ入る。
ガードレールの切れ目と、その向こうのブロック塀が見えたところで、車は徐行になった。
小窓は開けたままだった。
日が入った。
顔に当たった。
四十年ぶんの色は、朝の光のなかでは、ただのよく焼けた顔に見えた。
角には黄色い旗が立っていた。
店の前を掃いていた人が箒を止めた。
自転車を降りた男の人が、こちらを向いて動かなくなった。
始業式に遅れそうな子が一人、ランドセルを鳴らして走ってきて、渡りきってから振り返った。
誰も何も言わなかった。
わたしも言わなかった。
角を過ぎたところの電柱のそばに、黒いスーツの人が立っていた。
車が通るときに、一度だけ頭を下げた。
火葬場は町外れの高台にある。
炉の前で、修さんは母親の顔をもう一度見た。
それから、自分の腕を見た。
半袖の下から出ている腕を、肘の少し下まで、しばらく見ていた。
白い腕だった。
誰も声をかけなかった。
午後に会館へ戻ると、玄関の脇に慈恩さんが立っていた。
細い煙草に火をつけたところだった。
「あー、お疲れさまですー」
「止まりました。今朝より、濃くなっていません」
「でしょう」
「白くは、戻せませんでした」
「戻す仕事は、写真屋さんの領分ですよ」
慈恩さんは煙を細く吐いた。
「いい色でしたよー、あれは。屋根の下じゃ、ああはなりません」
それから歩きだして、途中で一度だけ振り返った。
「あの角、日陰が一つもありませんねー」
返事をする前に、慈恩さんは坂を下りていった。
夕方、わたしは安置室を掃除した。
雨戸を閉め、カーテンを引き、冷房を入れ直した。
塩の筋を拭き取ると、棺のあった台には何も残らなかった。
手を消毒すると、いつものように指の先から冷たくなっていく。
二年、この部屋で働いてきた。
夏の日をまともに浴びた記憶が、わたしにはない。
わたしの手は、まだ白い。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。





