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神宝町怪異相談 ~働く人の怪異をほどく、神宝町の拝み屋~  作者: K3/KASANE
洗っても、白い

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後編 十三着目

後編です。


 朝の更衣室には、まだ誰も来ていなかった。


 慈恩さんは戸口で立ち止まったまま、中へ入ってこなかった。


 数えるのはあなたです、と言われた。


 わたしは壁のフックから汚れた上着を外し、いつものように腕へ掛けていった。


 十二着で、フックが空になった。


 「十二です」


 言ってから、部屋の奥を見た。


 フックの列が切れた先の板壁に、釘が一本打ってあった。


 そこに、上着が掛かっていた。


 埃をかぶった、色の抜けた上着だった。


 上から薄いビニールが被せてあって、ビニールのほうも白くくすんでいる。


 窓からいちばん遠く、旧棟の壁を背にした隅だった。


 そこだけ、空気が動いていないように見えた。


 「それも、洗い物ですか」


 ちがいます、とわたしは言った。


 ずっと掛かっている。


 うちが請け負うようになるより前から、掛かっていた。


 慈恩さんは、そこで初めて敷居をまたいだ。


 ビニールの裾を指二本でつまんで、持ち上げた。


 胸の名札に、糸で名字が縫ってあった。


 杉山、と読めた。


 その下の、胸のポケットの底に、今朝の白いものが溜まっていた。


 ビニールの内側は、どこも汚れていなかった。


 慈恩さんの目が、ひらいた。


 糸のような線の奥に、黒目があった。


 声が低くなった。


 「ここは、風が来ませんね」


 事務所へ戻ると、社長は湯呑みを両手で包んで、なつかしそうにその名前を口にした。


 「杉山さんな。保温屋よ。先代のころからおった。十四年前に、五十八で亡くなってのう。……風邪が長うてな。冬に咳が出て、春になっても切れんで、夏には痩せてしもうた」


 お医者さんは、とわたしは訊いた。


 「風邪じゃと言うたよ。町の先生も、市民病院も。しまいは肺炎ということになってな」


 社長は湯呑みを置いた。


 「服は、女房が取りに来なさらんでな。誰も触らんし、捨てるのも忍びのうて、そのままじゃ」


 一度、洗わせてください、とわたしは言った。


 社長はあっさり、かまわんよ、と言った。


 こわがっている人は、その部屋に一人もいなかった。


 十四年前に一人死んで、その死に方の名前を、ここの誰も持っていない。


 そういう話を、みんなが世間話の声でしていた。


 工場を出て、川沿いの道を歩いた。


 慈恩さんは煙草を一本くわえたが、火はつけなかった。


 「外から付いたものなら、洗えば落ちます」


 風が冷たかった。


 わたしは手を袖の中へ入れた。


 「洗っても落ちない。袋に入れて口を縛っても、袋の内側は汚れない。……あれは、外から来ていないんですよ」


 では、どこから来るんですか。


 「中からです」


 足が、ひとりでに止まった。


 「着ていた人が吸ったぶんが、出てきてるんです。体に入りきらなかったぶんだけ、出口を探しています」


 服でくぼんでいるのは胸のポケットだけだと、わたしの頭のどこかが、勝手に続きを言った。


 誰も着ていない一着に溜まるのは、とわたしは言いかけて、その先が続かなくなった。


 「あの人が、吸ったぶんです」


 慈恩さんは、それだけ言った。


 「ぼくが祓えるのは、出てきたぶんだけです。入ってしまったぶんは、どこへも出せません」


 頭の中で、数字が回りはじめた。


 解体が始まったのは一月だ。


 まだふた月に足りない。


 夫は、あの工場に二十六年いる。


 いま出てきているのは、この冬のぶんだけではない。


 その夜、洗濯場に一人でいた。


 奥の茶の間で、悟がテレビを見て笑っていた。


 風呂場からは、痰を切るような短い咳が三つ聞こえた。


 それから、湯を使う音がした。


 裸電球の下に、十三着の上着を吊るしてあった。


 わたしは端から、胸のポケットに指を入れていった。


 乾いた白いものが指の腹につく。


 挟むと、消える。


 次の一着。


 つく。


 消える。


 十三回、同じことをした。


 自分の息の音が、耳の内側で鳴っていた。


 吸うたびに、冷えた土間の空気が喉の奥まで入ってくるのが分かった。


 入っていったものは、あとで出てくるのだろうか。


 人は、名前のついた病気で死ぬのだと思っていた。


 ちがった。


 名前のまだない病気でも、人はちゃんと死ぬ。


 名前がつくのは、死んだあとだ。


 風呂場で、また咳がした。


 次の晩、慈恩さんは洗濯場には入らなかった。


 表の路地に立って、細い線香を一本、指のあいだで回していた。


 順だけ言いますから、あとはあなたがやってください、と言われた。


 はじめに、開けた。


 土間の窓を二枚とも開けた。


 棚からビニール袋を下ろして輪ゴムを外し、口を全部ひらいた。


 閉じるのをやめるというのは、この冬ずっとやってきたことの、ちょうど逆だった。


 次に、撫でた。


 小瓶の粗塩を掌に少し出し、汗が出るまで握って、溶けたところを指につけて、胸のポケットの縁をぐるりと一周させる。


 十三着、一着ずつ。


 あかぎれの割れ目に塩がしみて、途中から痛みが分からなくなった。


 最後に、置いた。


 無地のカードを渡された。


 書く言葉は決まっていますか、と訊かれ、決まっていません、と答えた。


 慈恩さんは、それきり何も言わなかった。


 わたしは鉛筆で、一行だけ書いた。


 「わたしが、洗いました」


 カードを、胸のポケットに入れた。


 枕元でも神棚でもなく、溜まる場所そのものに。


 慈恩さんは路地からそれを見て、はい、と言った。


 意味は、訊かれなかった。


 翌朝、十二着のポケットは空だった。


 指を入れても、何もつかなかった。


 釘の一着も、同じだった。


 夫は咳をしなかった。


 飯を食べて、自転車で出ていった。


 それだけのことで、涙が出そうになった。


 杉山さんの上着は、別に洗った。


 十四年ぶんの埃が落ちて、すすぎの水が三度、灰色になった。


 乾かして、たたんで、風呂敷に包んで、町はずれのきみさんの家へ持っていった。


 慈恩さんは道の途中までついてきて、生垣の手前で足を止めた。


 きみさんは、包みを膝に置いて、しばらく撫でていた。


 「うちの人な、最後まで、風邪じゃと言うてましたよ」


 わたしは、はい、としか言えなかった。


 帰りの道で、慈恩さんは三つ並べた。


 洗うのをやめる。


 洗って、捨てつづける。


 捨てずに、取っておく。


 「どれがいいとは、ぼくは言いません」


 言ってくれないんですか、と訊いた。


 選ぶのはあなたです、という返事だった。


 別れぎわに、洗い物があればうちへ出してください、とわたしは言った。


 慈恩さんは首を振った。


 「ぼくのぶんは、頼みません。宿住まいなので、シャツは着たきりです」


 その夜、佃煮の空き瓶を洗って、棚に並べた。


 その日の白いものを集めて入れ、蓋にペンで日付を書いた。


 出来高帳に印をつけるのと、同じことだった。


 夫には、一つだけ言った。


 「病院で、胸の写真を撮ってきて」


 夫は嫌がったが、月の終わりに市民病院へ行った。


 帰ってくると、なんともなかった、と言った。


 医者は写真を見て、古い肺炎の痕かな、と言ったそうだ。


 若いころに気づかずにやったんでしょう、いまはどうということはありません、と。


 夫はそれで安心して、その晩は酒を飲んだ。


 三日後、悟が半日だけ工場へ顔を出した。


 四月からの誂えがまだなので、社長が新しい作業服を貸してくれた。


 糊のきいた、まっさらな紺色で、胸の名札の布には、まだ何も縫っていなかった。


 その晩、わたしはそれを洗った。


 何も入っていない、まっさらなポケットだった。


 翌朝、底に、白いものが溜まっていた。


 朝の食卓で、悟が咳を一つした。


 埃っぽかったわ、と笑って、飯をおかわりした。


 慈恩さんは、もう駅前の宿にはいなかった。


 わたしは瓶をもう一つ洗って、蓋に日付を書いた。


 その日の洗い物を干し終えて、エプロンを外そうとした。


 癖で、胸のポケットに指を入れた。


 指の腹が、白くなっていた。


 毎朝、十二着の作業服を、わたしはこの胸に抱えて運んでいた。


 洗う者の手は、いつも先に濡れている。


 だから気づかなかった。


 乾いているのは、わたしの胸のポケットの、底だけだった。

慈恩が、まだ宿無しだったころのお話

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