前編 毎朝、白い
ある朝から、洗ったばかりの服の胸ポケットに白い何かが
乾いた作業服をたたむとき、胸のポケットに指を入れる。
それがわたしの癖だった。
ボールペン、ねじ、丸めた伝票。
洗う前に出しそびれたものが、ときどき底に残っている。
その朝、指の腹についたのは、粉だった。
白い。
粉になりきる前の綿のような、細いもの。
指で挟むと、力を入れきる前に消えた。
爪の先には、もう何もない。
この上着は、昨日わたしが洗った。
すすいで、脱水にかけて、日の当たらない土間に一晩吊るした。
ポケットは裏返して振った。
何も残っていなかったはずだった。
たたんだ上着は、どれもこれも、底に同じ白いものが溜まっていた。
うちは、駅から川のほうへ下った古い通りにある。
店だった土間に全自動を一台と、古い二槽式を一台据えて、丸金鉄工所の作業服を洗っていた。
上着とズボンで一組、一組いくらの請け負い。
集配はわたしの自転車の荷台だ。
台所の引き出しには出来高帳がある。
日付と、組数と、受け取った印。
月末に事務所へ持っていって、そのぶんが、うちの家計の柱だった。
三月に高校を出る悟が、四月から父親と同じ工場へ入る。
もう決まっていた。
やめます、とは言えない。
誰にも言ったことはないけれど、それが、わたしの立っている場所だった。
次の日は、洗剤を多めにして、二度すすいだ。
乾かして、たたんで、寝た。
翌朝、ポケットの底に、また白いものがあった。
その次の日は、たたんだ上着を一着ずつビニール袋に入れ、口を輪ゴムで縛って、棚に上げた。
縛るとき、自分の指がすこし震えているのが分かった。
翌朝、袋を開けた。
袋の内側には、何もついていなかった。
透きとおったビニールは、しまったときのままきれいだった。
その中で、上着のポケットの底にだけ、白いものが溜まっていた。
夫が咳をしたのは、その日の夜だ。
風呂場で、痰を切るような短い咳を三つ。
風邪だ、と夫は言った。
医者へ行けと言っても、行かない人だった。
白いものが溜まった翌日に、その服を着た人が咳をする。
一度なら気のせいで済んだ。
二度目からは、済まなくなった。
週の終わりに、洗い物を集めに更衣室へ行った。
油と鉄と、冬の埃のにおいがこもった部屋だった。
壁のフックから汚れた上着を外して、腕に掛けていく。
掛けながら、いつも数える。
数えないと請け負いの数が合わない。
十二で、フックが空になった。
丸金で作業服を着るのは、社長を入れて十二人しかいない。
数は合っている。
合っているのに、戸口で足が止まった。
フックの列が切れた先の板壁に、釘が一本打ってあった。
そこにも、上着が一着掛かっていた。
うちが請け負うようになるより前から掛かっていて、洗い物ではないから、わたしは一度も数に入れたことがなかった。
そう思っただけだった。
誰かの古い替えでも置いてあるのだろう、と自分に言って、自転車の荷台に括りつけるころには、もう忘れていた。
その晩、出来高帳を開いた。
白いものが出た日に、鉛筆で小さな印をつけている。
癖のようなものだ。
何枚か前へめくって、手が止まった。
去年の秋のところに、同じ印が二つ、並んでいた。
解体などまだ始まっていない時分だった。
あのときも洗剤をこぼしたのだろう、と思って、ページを戻した。
月末、出来高帳を持って事務所へ行った。
金子社長は、ストーブの前で茶をすすっていた。
粉のことを言うと、社長は、ああ、それな、と笑った。
「旧棟をいま壊しとるでな。配管に巻いてある古い白いやつと、屋根の波板を剥がしとる。粉が出る出る。冬で窓を閉め切っとるで、なかなか抜けん」
窓の外に、工場のなかが見えた。
旧棟のほうから、うすい埃が、光の帯になって流れていた。
若い矢田さんが、口にタオルを巻いて鉄を運んでいる。
そうしている工員が、何人かいた。
「風邪も流行っとるしな。病院へ行った者もおるが、風邪だと言われて帰ってきよる」
体に悪いという話は昔から聞くがの、と社長は湯呑みを置いた。
「うちのは古い型のやつだで。解体が終われば、収まるでな」
筋は、通っていた。
ストーブの上で、薬缶が細く鳴っていた。
どこにも、おかしいところがない。
おかしいところがないのに、洗ったばかりの服の底に、翌朝また溜まる。
夕飯のとき、夫にその話をした。
夫は茶碗を持ったまま少し黙って、それから言った。
「保温屋の杉山さんも、最後は風邪が長かったな」
それだけだった。
二十六年あの工場にいる人の口から出る昔の名前は、いつも唐突で、いつもそれきりになる。
夫はまた箸を動かしはじめた。
わたしが引っかかっていたのは、名前ではなく、粉のほうだった。
工場の埃は灰色で、指でこするとざらつく。
爪のあいだにも残る。
ポケットの底のものは、白かった。
こすってもざらつかない。
湿らせても固まらない。
掌に取ると、そこにあるのに、重さがない。
洗剤の粉が溶け残っているのだ、とわたしは思っていた。
だから洗剤を替えた。
粉のものから、液体のものに。
翌朝、白いものは、いつもと同じだけ溜まっていた。
指の腹についたそれを、わたしはなぜか口へ運びかけて、途中で止めた。
舐めてはいけない、と、頭より先に、腕のほうが思った。
油汚れのひどいものだけは、通りの芝崎クリーニングへ出している。
粉の話をすると、主人はレジの向こうで腕を組んだ。
「洗って落ちんもんは、うちでも落ちんよ」
それから声を落として、駅前の古い宿に、そういうのを見る人が長いこと泊まっている、と教えてくれた。
ビジネスホテルの一階の喫茶室は、暖房が効きすぎていて、客はその人だけだった。
よれた黒いスーツを着た、痩せた男の人だった。
糸のように細い目をしていて、卓の端に、金属の小さなポケット灰皿が置いてあった。
拝み屋の慈恩です、と、その人は言った。
思っていたより、ずっと若かった。
「まあ、占いみたいなもんです」
わたしは鞄から空き瓶を出した。
佃煮の瓶に、その朝の白いものを集めてきていた。
「開けないでください」
慈恩さんは、瓶に手も触れずに言った。
「舞いますから」
わたしは瓶を卓に置いたまま、順を追って話した。
洗っても溜まること。
袋に入れて口を縛っても溜まること。
溜まった翌日に、その服を着た人が咳をすること。
慈恩さんは、湯呑みを両手で持って聞いていた。
話し終えたとき、その人が見ていたのは、瓶ではなかった。
わたしの手だった。
「あなた、手だけ、ずっと濡れてますね」
指の関節が、あかぎれで白く割れていた。
この冬はずっとそうだった。
隠す間もなく、わたしは手を膝の上に下ろした。
「社長さんの言うことは、正しいですよ」
慈恩さんは、火をつけない煙草を一本くわえ、それをまた卓に置いた。
「解体で粉は出ます。冬は閉め切ります。服には付きます。お医者さんの風邪も、たぶん本当です。筋は、通ります」
通るんですね、とわたしは言った。
ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でも分からなかった。
「はい。通ります。……ただ、ぼくが気にしているのは、粉じゃないんです」
では何ですか、と訊いた。
「数です」
慈恩さんは、古い腕時計の竜頭を指でなぞった。
「明日、洗い物を集めに行くとき、ぼくも行きます。いっしょに、数えましょう」
数なら毎週数えている、と言った。
組数が合わなければ銭が合わないのだから、間違えたことはない。
慈恩さんは、はい、と言っただけだった。
それきり、粉の瓶のほうは、とうとう一度も手に取らなかった。
その晩も、わたしは上着を洗った。
土間に吊るして、端から目で数えた。
癖だった。
十二。
数は合っている。
合っているのに、目が止まった。
——十二人の工場で、更衣室に掛かっていた作業服は、十三着だった。
後編「十三着目」に続きます。





