後編 最後の一行
本人の手が届かない場所でも、増えるのか。
後編です。
三日後の土曜、祖母の家に行った。
「夜中、物音ひとつせんかったよ」
と祖母は言った。
仏壇の引き出しは、閉まったままだった。
線香のにおいの中で、紙袋を開けた。
三行、増えていた。
五回裏の続き。
二人目の打者への三球目まで。
外のまっすぐ、ボール。
内へ変化球、ファウル。
低めに落として、空振り。
おれの字で。
おれの書式で。
おれが、隣の市にいなかった夜に。
祖母は湯呑みを持ったまま、おれの顔とノートを見比べて、受験て、そういうもんかね、と首をかしげていた。
笑う余裕は、なかった。
帰りの電車で、ずっとそのページを見ていた。
見ているうちに、べつのことに気づいた。
増えた行には、配球しか書いていない。
結果が、ない。
打ったか、打ち取ったか。
走者が出たか、点が入ったか。
スコアブックなら必ず埋まる欄が、ぜんぶ白い。
おれは覚えている。
あの日、ベンチで、次の一球を先に読めていた。
外と思えば外へ来た。
落ちると思えば落ちた。
増えていく行は、あの日おれが読んでいた通りの配球だ。
でも、その先がない。
読みが合っていたことだけが書いてあって、それで勝てたのかどうかは、どこにも書いていない。
月曜、学校を出て、まっすぐビルの十階へ行った。
「増えてました」
「でしょうねぇ」
驚きもしなかった。
座卓の隅には、灰皿と、小さい塩の瓶と、古い腕時計が並んでいた。
慈恩さんはノートを受け取って、今度はゆっくりめくった。
折れたページで、手が止まった。
「ここだけ折れてますねぇ」
「……癖です。負けた試合は、折るんです」
「折り目、他にもいっぱいありました。でも」
紙の角を、指の腹でなでた。
「ここから先だけ、書いてない」
「書けませんでした」
「書けなかったんじゃなくて。」
一拍あった。
座卓の上の線香が、短くなった。
「終わったことにしたかった。」
おれは黙っていた。
黙っていた時間で、答えたようなものだった。
それから、あの日のことを初めて人に話した。
三回戦。
相手の四番は、初球の入り方に癖があった。
三回見て、線になった。
五回の頭、監督に言った。
次の打席、初球は必ず振ってくる。
一球外すべきだと。
根拠もノートを開いて見せた。
「考えるのは、走ってからにしろ」
それだけだった。
監督は悪い人じゃない。
走れる奴から順に信じる人だっただけだ。
おれは、走れない側だった。
初球のまっすぐが真ん中に入って、左中間が割れた。
おれはベンチで、それを見ていた。
五回の表まで書いて、書くのをやめた。
ページを折った。
夏が終わる前に、部を辞めた。
「読めてたのに、って思いました?」
「……思いました」
「そのあと、読めてたことのほうが、怖くなったでしょ」
図星だった。
読みが合っていたと認めるほど、あの負けはおれのせいに近づいてくる。
言えば言い訳になり、黙れば、なかったことになる。
だから折った。
「この帳面はねぇ、妖でも霊でもないですよ。祓うものが、何にもない。めんどくせぇことに」
「じゃあ、何なんですか」
「あなたが置いてきた続きですよー。……ただ」
帳面を、こっちへ向けた。
「配球だけで、結果がどこにも書いてない。妙だと思いませんか」
「……帳面も、そこまでは知らないから、ですか」
「さぁ。ぼくに分かるのは、ここに書いてあることまでです」
「もういいです」
気がついたら、ノートをつかんで立っていた。
読みは合っていた。
それが分かって、何になる。
試合はとっくに終わっていて、点差はもう動かない。
合っていたと分かるほど、あの日のベンチが暗くなるだけだ。
「祓えないなら、いいです。どうも」
慈恩さんは引き止めなかった。
「はいー」と言って、湯呑みを持ち上げただけだった。
それから四日、行かなかった。
行は、増え続けた。
六回に入った。
六回の頭、相手は代打を出してきた。
その打者への一球目から、ちゃんと書いてあった。
あの日おれは、ネクストサークルの素振りの角度まで見ていた。
帳面は、それも知っていた。
四日目の夜、ランク戦で負けた。
大した負けじゃない。
よくある負けだ。
ヘッドセットを外したとき、右手の指が、膝の上で動いているのに気づいた。
書いていた。
今の負けを、膝に、誰にも読めない字で。
中学の頃からの癖だ。
緊張すると、膝が帳面になる。
誰にも気づかれたことはない。
膝は、折れない。
紙は折って終わったことにできても、指は続きを書きたがっている。
それに気づいた夜に、負けた試合の直す点を三つ、頭の中で並べている自分がいた。
勝負事は、もうやらないんじゃなかったのか。
……やめられるわけが、なかった。
おれはたぶん、読むのをやめられない。
次の日、十階に行った。
「……おれ、間違ってなかったんですか」
ドアを開けて、いきなりそれが出た。
四日ぶんの、最初の言葉だった。
慈恩さんは、座卓の向こうから、ゆっくりこっちを見た。
「ぼくはねぇ。」
一拍。
「帳面の字は読めます。」
もう一拍。
「人の人生までは、読めません。」
それから、無地のカードとペンを、座卓の上をすべらせてよこした。
「代わりに書いてもらうの、やめましょうか。最後の一行だけ、あなたの手で書いてみますか。……帳面がどうするかは、そのあとです」
「最後の一行って」
「決まってるでしょ。結果です」
おれは座って、ノートを開いた。
折れたページの折り目を、指で伸ばした。
角には白い筋が残って、完全には戻らなかった。
それでいいような気がした。
六回の途中まで増えた行の、その下に書いた。
——七月十二日。
三回戦。
二対四。
負け。
手は、思ったより普通に動いた。
帳面は、その夜から、何も書かなくなった。
三日待って、五日待って、白いままだった。
六回途中の続きは、おれの書いた一行が最後になった。
カードには、その場でもう一言、書かされた。
「一言だけ。あなたの言葉で」と言われて、少し考えて、書いた。
——つづきは、おれが書く。
どういう意味かは、言わなかった。
慈恩さんも、聞かなかった。
「なるほどねぇ」とだけ言って、カードをおれに返した。
「それは、持って帰るやつです」
帰り際、母の封筒を出したら、「じゃ、遠慮なく」と普通に受け取った。
そういうところは、ちゃんと商売だった。
十二月に入って、最初の土曜の夜。
ランク戦を三つ回して、二つ勝った。
ヘッドセットを外して、水を飲んで戻ると、画面に告知が出ていた。
『ゼロライン オープン予選 エントリー受付中』
チームに入っていなくても、個人で出られる枠があるらしい。
細かいことは、読まなかった。
読む前に、膝の上で指が動いていた。
今度は、止めなかった。
登録名。
年齢。
確認。
送信。
受付完了、の白い文字を、しばらく見ていた。
怖さは、あった。
野球の負けは、体格のせいにできた。
こっちの負けは、そうはいかない。
怖さの正体を、初めてまっすぐ見た気がした。
それでも、取り消しのボタンは探さなかった。
机の端に、新しい大学ノートが一冊置いてある。
まだ、どのページも折れていない。
一ページ目を開いて、日付を書いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
後悔の念で、手が勝手に動く怪異のおはなし。
シリーズで初めての、現代のお話でした。





