前編 折ったところから
筆跡は、本人のものでした。
深夜二時、机の上でスコアブックが開いていた。
閉じて、消しゴムを重石にして寝たはずだった。
折れたページの先——白紙のはずの欄に、おれの字で、一行増えていた。
書いた覚えは、ない。
最初の晩は、寝ぼけて自分で書いたんだと思った。
字は、どう見てもおれの字だ。
癖のある変化球の略号も、ストライクの点の打ち方も、力の抜けた縦線も。
ペン先に触ると、インクはとうに乾いていた。
手のどこにも、汚れはなかった。
おれは牧野慧。
十七歳。
元、野球部。
今は、何でもない。
小三から去年の夏まで、捕手だった。
中学の最後に県外の高校から声がかかった。
名前を言えば、野球を知らない人でも頷く学校だ。
寮に入って、二年の夏に辞めて、母のいる神宝町に戻ってきた。
転入先では、野球をやっていたことを隠した。
体育のソフトボールで、打球の落ちる場所に三歩早く着いてしまい、少し面倒になったくらいだ。
スコアブックは、中一の春からつけている。
市販の用紙じゃ足りなくて、途中から大学ノートに自分の書式を作った。
左に試合の流れ、右に配球。
相手打者の初球の入り方、追い込まれてからの癖、ファウルの方向。
三回見れば、線になる。
九冊ある。
全部のページを言える。
負けた試合のページだけ、角を折ってある。
読み返さないための癖だ。
九冊で、折り目は二十六。
二十七個目の折り目だけ、様子が違う。
そのページは、途中で終わっている。
去年の七月十二日。
三回戦。
おれはベンチにいて、五回の表まで書いて、やめた。
書くのをやめて、ページを折って、夏が終わる前に部を辞めた。
理由は、まだ言いたくない。
増える一行は、その続きだった。
五回裏、相手の攻撃。
先頭打者への一球目。
外角低め、変化球。
おれの書式で、おれの略号で、おれの筆跡で。
一晩に一行か、二行。
多い夜で三行。
日付が変わる頃には何もなくて、朝起きると増えている。
消してみた。
翌朝、同じ行が同じ場所に戻っていた。
ノートを机の引き出しに移して、鍵をかけた。
朝、鍵はかかったまま、中で一行増えていた。
夜通し動画で撮っておこうとして、やめた。
撮って、映っていたら。
映っていなかったら。
どっちも、見たくなかった。
ページを破ろうとして、手が止まった。
破れなかった理由は、自分でもよく分からない。
そういう夜が、三週間続いた。
昼間は普通にしていた。
授業を受けて、弁当を食って、帰る。
夜が来るたび、机の上のノートだけが、おれより先に続きをやっていた。
見つけたのは母だった。
深夜、台所に水を飲みに下りたら、母が起きていた。
おれの顔を見て「あんた、最近ひどい顔しとるよ」と言った。
それから、机の上に開きっぱなしのノートの話になった。
隠すのが下手だったのは、おれのほうだ。
「何かあったんか」
「別に。」
別に、で通じる母ではなかった。
二日後、パート先で仕入れた話を持って帰ってきた。
町はずれの古いビルの十階に、そういうのを視てくれる人がいるらしい。
看板はない。
料金は良心的、らしい。
「行かん」
「行くだけ行き」
母は強い。
おれが野球を辞めた夏も、理由を一度も聞かなかった人だ。
その母が行きと言うのは、たぶん、三週間ぶんの何かを見ていたからだった。
翌朝、食卓に封筒が置いてあった。
困ったときの相場は知らんけど、足りんかったら言い、と書き置きが載っていた。
十一月の平日、学校帰りに行った。
ビルは古かった。
エレベーターを十階で降りると、廊下の突き当たりのドアが少し開いていて、線香のにおいがした。
「開いてますよー」
中から声がした。
狭い事務所だった。
奥に低い座卓があって、アロハシャツの上に褪せた半纏を羽織った男が座っていた。
目を閉じているのかと思ったら、糸みたいに細く開いている。
歳は分からない。
若くは、ない。
十一月なのに、窓が少しだけ開いていて、線香の煙がそこへ細く流れていた。
「拝み屋さん、ですか」
「はいー。慈恩といいます。まあ、拝み屋みたいなもんですよ」
座卓を挟んで座って、ノートを出した。
慈恩さんは、ノートより先に、おれの手を見た。
見られて、分かった。
おれも人の手を見る。
打者の握り、投手の指先。
手は嘘をつかない。
だから、自分の手が見られているのが分かった。
指先だけ、じっと。
それから、やっと帳面に目を落とした。
「よく書けてますねぇ」
ぱらぱらと、めくる。
折れたページの手前も、めくる速さは変わらなかった。
何も言われなかった。
「で、増えると」
「増えます」
「あなたの字で」
「おれの字で、です」
「ふーん。……めんどくせぇやつだなぁ」
誰に言ったのか分からない独り言だった。
おれにではない、と思う。
たぶん。
慈恩さんの見立ては、拍子抜けするほど普通だった。
「夜中に、自分で書いてる線がいちばん太いですよー」
夢遊というやつだ。
やり残したことがある人が、寝ている間に続きをやる。
そんなに珍しい話でもないという。
筆跡は本人のもので、インクの色も、机に置いてあるペンと同じだった。
家の外から誰かが書きに来る線より、ずっと現実的だった。
脅かして金を取る側の人なら、こんなにつまらない説明はしないだろう、とも思った。
「おれ、そんなに弱ってないですけど」
「弱ってる人は、だいたいそう言いますねぇ」
言い返せなかった。
「夜、何してます?」
「……別に。寝てます」
「手ぇ、見せてごらんなさい」
右手を出すと、慈恩さんは指先を一本ずつ眺めて、ふうん、と鼻を鳴らした。
「ペンだこの場所じゃないとこが、硬くなってますよ。毎晩、長いこと握ってるでしょう。……ゲームですか」
図星だった。
夜は毎晩、ゲームをやっている。
銃の、五人対五人のやつだ。
勝負事はもうやらない、と決めた人間が、毎晩ランク戦を回している。
矛盾しているのは知っている。
誰にも言っていないだけだ。
「勝ってます?」
「……六割くらいは」
「ほう」
慈恩さんは深追いしなかった。
代わりに、湯呑みの縁を親指でひとなでした。
「勝負はもうやめたって顔で、毎晩勝負してるんだからなぁ。そりゃ、夜中に続きも書きたくなりますよ」
独り言の形で、そう置かれた。
反論の宛先がなかった。
寝る時間は削れている。
疲れてもいる。
夢遊で片づくなら、それがいちばん気味がよかった。
そうかもしれない、と思いはじめていた。
思いたかったのかもしれない。
帰り際、慈恩さんは座卓から動かないまま言った。
「一個だけ、確かめましょうか。今夜からそのノート、家の外に預けてください。あなたの手が届かない所。三日で、はっきりしますよ」
「はっきりって、何がですか」
「書いてるのが、あなたか。あなたじゃないか」
糸目が、こっちを見た。
「……どっちだと思ってるんですか」
「さぁ」
慈恩さんは湯呑みに手を伸ばして、それきり何も言わなかった。
その晩、ノートを紙袋に入れて、電車で隣の市の祖母の家に持っていった。
仏壇の引き出しに入れてもらった。
祖母には「受験のお守り」と言った。
半分くらいは、嘘じゃない気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
後編に続きます。





