後編 うかがいました
受け取りを断られたものは、差出人へ戻ります。
では、差出人まで受け取らなかったら、どこへ行くのでしょう。
三日後の閉店後、慈恩さんは店に来た。
一年ぶりだった。
閉めたばかりの自動ドアの外に、よれたコートで立っていた。
冬なのに、下はあのアロハシャツだった。
カウンターの中には入らず、客の立つ側に立って、忘れ物棚に溜まった伝票を一枚ずつめくった。
それから、電話で聞いた話と突き合わせますよ、と言って、まず、霊を抜きにして筋を通した。
「七十九歳、ひとり暮らし。奥さんは三年前に亡くなってます。身内は遠い。玄関に荷物が積まれる家は、この町にも何軒かありますよ。断った通販の箱、不在票、新聞。——年を取ると、家は、開けるより閉めるほうが楽になります。ここまでは、役所と民生委員の話です」
「通らないのは、日付です」
いちばん古い伝票を、指の背でこつんと叩いた。
「去年の十一月十七日。あなたが窓口で、初めて事実だけを確認した日ですね」
わたしは、店長の机から借りてきた記録の控えを台に置いた。
去年の十一月から、日付と時間と用件だけを書きつづけた紙束だ。
慈恩さんは、拝借します、と断ってからめくった。
一時間、一時間、一時間と続いた欄が、ある日を境に十五分になっていた。
そこから先は、ほとんど同じ長さで並んでいる。
用件の欄も、鰺、値札、床、と短くなっていく。
「よく書けてます。……ここまで短くなると、書かれない部分のほうが長い」
わたしは黙っていた。
慈恩さんは記録を閉じ、伝票を棚に戻して、こちらを見ないまま続けた。
「言葉は、受け取ってもらえないと、出した人のところへ帰るんです。荷物と同じですよ。宛先不明、受取人不在。——あの人が窓口で言っていた一時間のうち、事実は十五分でした。あなたはそれを一枚ずつ照合して、間違いは返した。正しいです。残りの四十五分は、宛先がなくなった」
わたしのせいですか、と訊いた。
慈恩さんは、いいえ、とすぐに言った。
「あなたは正しいです。……正しいだけでは、荷物は減らないんですよ」
祓えますか、と訊くと、首の後ろを掻いた。
「祓うものがありません。妖でもないし、霊でもない。ぜんぶ、あの人が自分の口から出した物です。他人の荷物を、ぼくは開けられません」
翌日の夕方、二人で沢井さんの家へ行った。
雨戸は、その日も閉まっていた。
慈恩さんは雨戸を叩かずに、玄関の前に立って、普通の声で言った。
「沢井さん。お宅の荷物のことで、伺いました。開けてください。——開けるところからです」
長い間があって、鍵の音がした。
戸が引かれて、痩せた老人が立っていた。
窓口で怒鳴っていたときより、二回りは小さく見えた。
頬がこけて、髭が伸びていた。
三和土から廊下の奥まで、あの茶色い包みが積んであった。
壁のように積まれた向こうに、電気のついた台所が見えた。
人ひとりが通れるだけの隙間が、包みのあいだに残してある。
廊下の途中の仏間だけは、きちんと片づいていた。
仏壇の前の座布団がへこんでいて、供えの湯呑みから、湯気が上がっていた。
慈恩さんは上がらなかった。
玄関の外に立ったまま、看板のほうへ顎をしゃくった。
「さわい鮮魚。何年、やってらしたんですか」
四十年だ、と沢井さんは言った。
それから、こちらが何も訊かないうちに、少しずつ喋った。
この店ができた年に畳んだこと。
魚は目で買うもんだということ。
妻のキヨさんが三年前に死んだこと。
「あれは、わしの言うことを最後まで聞かん人でな。……聞かんでも、そこにおった」
慈恩さんは、いちばん上の包みを目で示した。
「開けるのは、出した本人だけです。ひとつ、開けてください」
沢井さんの手が、紐を解いた。
中には何も入っていなかった。
ただ、包みが開いた瞬間から、声が鳴った。
沢井さんの声だった。
この鰺は昨日より小さい、同じ値段で小さいのは詐欺だろう、レジの男の目つきが悪い、床が汚れとる。
日付だけを変えて、同じことを、何度も。
もうええ、と沢井さんが言った。
声は止まらなかった。
四十分ぶん鳴りきって、それから、ふつりと終わった。
「……わし、こんなことばっかり言うとったんか」
わたしは、窓口で言うときと同じ姿勢で、頭は下げずに言った。
「うかがいました」
沢井さんは、こちらを見なかった。
手の中の茶色い紙を、ゆっくり畳んでいた。
慈恩さんは小瓶を出して、粗塩をわたしの掌に少し出した。
汗で溶かしながら、包みの山の縁を、ゆっくり一周撫でた。
じゃり、と指の下で鳴った。
「これは山を減らす手じゃありません。ここまでが預かり分だと、線を引くだけです」
最後に、無地のカードを一枚、わたしに渡した。
「書くのは、あなたです。確認以外で」
わたしは、少し考えてから書いた。
——うかがいました。
慈恩さんはそれを読んで、はい、と言った。
それから、古い腕時計を見て、条件を一つ付けた。
「一日にひとつだけです。閉店の音楽が鳴ったら、閉めてください。窓口は、閉まるから窓口ですよ。開けっ放しは、ただの穴です。——去年あなたの前にいた人は、たぶん、閉め方を教わらなかった」
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見ながら、わたしは一日ひとつの意味を考えていた。
全部受け取れば、たぶん半年で、わたしの玄関にも荷物が届く。
去年の春に膝をついた人を、わたしは知っている。
その人の頭の下げ方まで覚えている。
窓口の主になるというのは、そういうことだったのだ。
年が明けて、沢井さんは店に戻ってきた。
開店の三十分前から、ベンチに座っている。
売場を一周して、レシートを片手に窓口へ来る。
鰺と、値札と、レジの男の目つき。
確認いたします、と言って、伝票を目の前で一枚ずつ照合する。
間違いは、その場で返す。
十五分。
そのあとの五分は、規定の外だ。
キヨさんが鰺を煮るときは酒を先に入れたとか、目の澄んだ魚の見分け方とか、そういう話をされる。
わたしは、聞く。
閉店の音楽が鳴ったら、本日はご来店ありがとうございました、と言って、そこで閉める。
記録の紙には、用件の欄の下に、もう一行だけ足した。
規定外、五分。
中身までは書かない。
店長は何も言わずに、それも一枚ずつめくっている。
玄関の山は、二月の終わりに崩れた。
受け取ったぶんだけ、包みが解けて、紙になって畳まれていく。
沢井さんは、その紙を丁寧に伸ばして、玄関の隅に重ねていた。
まだ使えるでな、と言った。
三月の初め、三和土に残っていたのは、包みが一つだけだった。
わたしが手を伸ばしかけると、沢井さんのほうが先に手を出した。
伸ばしかけたまま、その手が止まった。
紐の結び方が、ほかのとは違っていた。
輪の作り方がぎこちなくて、締め方が甘い。
玄関に積まれていたどの結び目よりも、下手だった。
沢井さんは、しばらくそれを見ていた。
それから包みを膝に乗せて、紐をいったん解いた。
節の太い指が、そこからは慣れた速さで動いた。
十字にかけて、輪を作って、片手で締める。
四十年の結び目になった。
「……こいつは、わしが預かる」
中身は、聞かなかった。
慈恩さんに電話で報告すると、そうですか、とだけ返ってきて、切りぎわに一つ言われた。
「受け取った覚えのないものは、いつまでも、その人のところへ戻ります。——結び直したなら、もう戻りません。預かった物は、返品になりませんから」
沢井さんは、いまも礼を言わない。
この前、帰りぎわに一度だけ、こちらを見ずに言った。
「あんた、目はええな」
魚屋の褒め言葉だと気づくのに、一日かかった。
窓口には、閉まる時間がある。
わたしの玄関に、まだ何も届いていないのは、たぶん、まだ若いからだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
前作『お客様の声』から一年後のお話でした。





