後編 稼ぎ納め
筒井が出す一つの区切りまで。
翌日の昼、慈恩は私の家まで来た。
かわりに、と言うように、私に古いものを出させた。
譲り受けたときの書類、車検証の名義変更の控え、それから、組合の名簿に一枚だけ残っていた、川口さんの写真。
日焼けした、痩せた男が、営業帽をかぶって、仏頂面でこちらを見ていた。
慈恩は運賃箱を膝に載せて、底の走り書きの数字を、指の腹で、ゆっくりとなぞった。
「これ、あなたの字じゃないですね」
「ええ。譲ってもらったときには、もう、書いてありました」
「川口さんを、知ってる人。いますか」
いた。
組合の古参で、室井さんという。
もう六十八になるが、まだ現役で走っている。
川口さんと同じ時期に、同じ営業所にいた人だ。
私は室井さんに電話をかけ、慈恩と三人で、駅裏の古い喫茶店で会った。
室井さんは、運ばれてきたコーヒーをひと口飲んで、砂糖を入れ忘れたな、という顔をしてから、ぽつぽつと話しはじめた。
「川口はな。若い頃に、女房と別れてるんだ。娘がひとりいてな。詫びのつもりだったんだろう。別れた娘に、金を送ろう、送ろうとしてた。『もう一件、もう一件』ってな。それが口癖よ。夜っぴて流して、体を壊しても、やめなかった。血圧の薬を、ダッシュボードに転がしたまま走ってた」
「その、お金は」私は訊いた。
「届かなかったよ」室井さんは、窓の外の、色あせた喫茶店の日除けを見た。
「娘のほうが、受け取りを拒んでな。住まいも変えて、こっちからは消息も分からなくなった。それでも川口は、稼ぐのをやめなかった。ある晩、病院前の客待ちの列で、空車灯を点けたまま、車ん中で逝った。朝、次の運転手が気づいたときには、もう冷たかったそうだ。溜めた金の、使い道は、とうとう、なかった」
慈恩は、黙って聞いていた。
因縁話にするでもなく、ただ、湯気の消えたコーヒーの縁を指でなぞりながら、聞いていた。
喫茶店を出て、車のところへ戻ると、慈恩は運賃箱に手を置いて、私に言った。
「幽霊が、座って喋ってるわけじゃないです。川口さんが、化けて出てるんでもない」
私は、慈恩の横顔を見た。
「残ってるのは、人じゃなくて、気持ちだけです。『もう一件、稼がねば』って、その気持ちだけが、この箱に、染みついてる。箱を替えても直らないのは、当たり前ですよ。箱の故障じゃなくて、稼ぎたい気持ちのほうが、まだ走ってるんですから」
「なら」私は、喉の奥がつかえた。
「なぜ、十三年、何もなかった。なぜ、今になって」
「あなたが、川口さんと、同じ走り方を、始めたからです」
その一言で、私は、思い出したくないものを、思い出した。
二年前の、あの夜だ。
私は「もう一件」と、繁華街を流していた。
客を降ろしたばかりで、次の角を曲がれば、また手が挙がる。
そのとき、助手席に置いた携帯電話が鳴った。
病院からだった。
画面は、見た。
着信の文字を、はっきりと見た。
見て——それでも私は、「あと一件だけ」と、声に出して言って、切ったのだ。
ハンドルを、握り直して。
その一件を降ろして、家に帰ったときには、和子は、もう間に合わなかった。
廊下に、和子の脱いだ突っかけが、片方だけ転がっていた。
救急車を呼んだのは、隣の奥さんだった。
私が着いたときには、もう、白い布が掛けられていた。
私はその枕元で、握った拳を、どこにも向けられずにいた。
あと一件。
あの、たった一件が、どうしても、越えられなかった。
あの晩から、私は家に帰りたくなくなった。
稼ぐためじゃない。
帰らずに、済むために。
夜通し、走るようになった。
空いた助手席に、誰も乗せずに。
慈恩の声が、静かに続いた。
「この『増える』のは、新しい箱より前——川口さんの代から、ずっと、箱に在ったんです。ただ、あなたが『もう一件』の人になるまで、目を覚まさなかった。それだけです。あなたが、声をかけてしまった」
「祓えるんですか」私は訊いた。
「祓う?」慈恩は、片方の眉を、わずかに上げた。
「しませんよ。稼ぎたかった気持ちを、退治はできない。祓うものが、そもそも、無いんです」
煙草を、指の間で回しながら、慈恩は言った。
「ぼくにできるのは、あなたが区切りをつけるとき、隣にいることくらいです。……川口さんの分と、あなたの分。両方に」
その晩、私はいつものように、旧市民病院の前で、客待ちの列に並んだ。
慈恩は助手席で、細い線香に火をつけ、携帯灰皿を膝に置いて、待っていた。
細い煙が、まっすぐに立ちのぼって、天井のあたりで散った。
上がる時刻、箱を開けると、また、初乗りちょうどが増えていた。
この二年、私は箱を、金を数えるためだけに開けてきた。
今夜は、意味が違った。
私は、溜まった古い硬貨を、ぜんぶ、掌に出した。
ずっしりと重い。
何年ぶんかの、「もう一件」だ。
一枚、一枚、数えた。
白銅の五百円。
ぎざのある十円。
天井の灯りの下で、昭和の年号が、鈍く光る。
川口さんが、娘に届けようとして、届かなかった夜の数だけ、そこにあった。
数えるうちに、硬貨の温もりが、私の掌から、少しずつ、引いていくのが分かった。
数えながら、私は、和子のことを思っていた。
あの人も、こうして、私の稼いだ金を、茶の間で数えていた。
電気代、米代、息子の月謝。
皺を伸ばした札と、小銭を、几帳面に。
私が夜通し走って持ち帰る金を、待っていてくれた人が、たしかに、いたのだ。
その人の待つ家に、私は、あの夜、帰らなかった。
数え終えて、私は、最後に、初乗り一件分だけを、箱へ戻した。
ことん、と、あの鈍い音がした。
全部は、なくさなかった。
「これで、いいんですか」私は訊いた。
「それで十分です」
「え?」
「全部なくしたら」慈恩は、フロントガラスの向こうの、暗い車寄せを見ていた。
「この人まで、いなくなる」
私は、掌に残った古い硬貨を、そっと握った。
消すのではない。
受け継ぐのだ。
川口さんの「もう一件」を、一件分だけ、私が、預かる。
届かなかった金の、いちばん最後の一枚を。
次の晩から、運賃箱が勝手に増えることは、なくなった。
売上と中身は、合う。
ただ、箱の底には、いつも初乗り一件分だけ、私が自分の手で残している。
川口さんの席として。
消したのではない。
受け継いだからだ。
その最後の晩。
最後の客を病院の前で降ろしたあと、助手席の慈恩が、消えた空車灯を、見上げて言った。
乗客が運転手に行き先を告げるように。
ただし今夜は、逆だった。
「空車ですね」
「ええ」
「今日は」
「……家までです」
慈恩は、それ以上は言わなかった。
古い腕時計をちらと見て、料金は取らないんですよ、というふうに手を振って、静かに、車を降りていった。
空車灯が消える。
私は初めて、誰も乗せない車で、家へ向かった。
無線を切って、ラジオも消して、ただエンジンの音だけを聞きながら、見慣れた夜の道を走った。
いつもなら、ここで手が挙がるのを待つ角も、今夜は、素通りした。
空車灯の消えた車は、ただの、帰る車だった。
家の駐車場に着いて、私はハンドルを切った。
二年ぶりに、ゆっくりと、バックで入れた。
車の尻を、家のほうへ向けて。
頭から突っ込まずに。
ミラーの中で、暗い庭先が、少しずつ近づいてくる。
和子が植えた、枯れかけの山茶花が、バックランプに白く浮かんだ。
私は、そこまで、ちゃんと帰ってきた。
メーターは、とうに、ゼロに戻っていた。
稼ぐことでしか、大事な人を思えなかった…\( 'ω')/ウオオオオオアアアーーーッ!





