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神宝町怪異相談 ~働く人専門の拝み屋は、怪異の奥にある事情を読む~  作者: KASANE
空車(くうしゃ)

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前編 もう一件

深夜、誰も乗せていないはずの車の運賃箱に


  誰も乗せていない夜に限って、私の車の運賃箱は、初乗りひとつ分、増えている。


 売上の帳尻が、いつも七百円だけ合わない。


 混じっているのは、もう何年も釣りに出したことのない、古い硬貨だ。


  筒井修一、五十九歳。


 個人タクシーの運転手をして三十年になる。


 若い頃は会社の車を転がしていたが、十三年前に独立した。


 そのとき、引退する先輩から営業車を一台、安く譲ってもらった。


 車体はとうに乗り換えたが、運賃箱だけは、そのときの古い機械式のを、今でも使っている。


 硬貨を落とすと、ことん、と鈍い音がする。


 手に馴染んで、替える気になれなかった。


  仕事はたいてい夜だ。


 駅前の客待ち、繁華街の流し、病院からの送り。


 無線が入れば向かう。


 空車灯を点けて、誰も歩いていない道を、時速三十キロで流す。


 信号の赤が、濡れた路面に長く伸びる。


 ラジオの深夜放送を小さくかけて、私は三十年、この町の夜を、端から端まで知り尽くした。


 どの角にどんな客が立つか、雨の晩はどこが混むか。


 それが私の、暮らしのすべてだった。


  家に帰っても、待つ者はいない。


 妻の和子を、二年前に亡くした。


 息子は所帯を持って県外にいて、盆と正月に電話が来るくらいだ。


 だからというわけでもないが——私は昔から、駐車場に車を入れるとき、バックで入れなくなった。


 いつからか、頭から突っ込むか、少し離れた路上に停めて、暗い庭先を歩いて回るようになった。


 理由は、自分でもよく分からない。


 ただ、車の尻を家のほうへ向けて、ゆっくり下がっていく、あの動作が、どうしてもできない。


  運賃箱のことに気づいたのは、先月のはじめだった。


 客のいない一時過ぎ、そろそろ上がろうと車を路肩に停めて、天井の小さな灯りをつけ、日報をつけた。


 メーターの記録と、箱の中身を照らし合わせる。


 合わない。


 売上より、七百円多い。


 指を舐めて数え直しても、やはり多い。


  中を覗くと、古い硬貨が混じっていた。


 白銅の、ずいぶん昔の五百円玉。


 縁にぎざぎざのある、十円。


 今どき、釣りに出したら客が怪訝な顔をするような年代物だ。


 手のひらに転がして、灯りにかざす。


 刻印の年号は、昭和だ。


 指でつまむと、なぜか、ほんのりと温かかった。


 人の握っていた金の、温もりだった。


  私はしばらく、エンジンを切った車の中で、その硬貨を掌に載せたまま、動けずにいた。


 ラジオの、意味のない深夜放送が、低く流れている。


 窓の外は、街灯の届かない路肩の闇だ。


 誰かの手の温もりが、まだ、そこに残っている。


 私はそれを箱の底へそっと戻すと、家には帰らず、もう一度、空車灯を点けた。


  最初は、自分の数え間違いだと思った。


 歳だ、疲れているんだ、と。


 だが、翌晩も、その翌晩も、同じことが起きた。


 合う夜と、合わない夜がある。


 気をつけて見ているうち、私はひとつ、気づいてしまった。


  早く上がって帰った夜は、合う。


 深夜まで「もう一件、もう一件」と、空車灯を点けたまま流した夜だけ、七百円、多い。


 しかも、増えるのは決まって、旧市民病院の前で客待ちをした晩だった。


 あの、街灯の少ない、うす暗い車寄せ。


 退院の荷物を抱えた客や、夜勤明けの看護婦を乗せる、あの列に並んだ夜に限って。


  気にしはじめると、細かいことが引っかかった。


 増えた硬貨は、どれも昭和の年号だ。


 運賃箱の底に貼りついた古い値札に、私のものではない走り書きの数字が、薄く残っている。


 ボールペンの、力の入った字だ。


 そういえば——譲ってくれた先輩の川口さんは、「もう一件、もう一件」が口癖の人だった。


 そして、車の中で亡くなったと、あとで聞いた。


  私は川口さんの詳しい事情を知らない。


 譲り受けたときには、もう引退の話が済んでいて、握手を交わしただけだ。


 名前と、口癖と、車の中で逝ったという事実。


 知っているのは、それだけだった。


  組合の窓口と、行きつけの整備工場に相談した。


 整備士は油の匂いのする手で箱を開けて、中を点検した。


 「古い機械式は、硬貨が奥に引っかかって、後から落ちることがある。翌日、二重に数えちまうんだ」。


 それから私の顔を、下から覗くように見て、言い足した。


 「筒井さん、三十年、夜勤続きだろう。過労で、自分が入れた記憶が飛んでるってこともある。少し、休んだほうがいい」。


  念のためにと、運賃箱を新品に交換してもらった。


 つるりとした、味気ない新品だ。


 これで直る、と整備士は請け合った。


 私も、そのときは納得した。


 歳と、疲れと、古い箱のせいだったのだ、と。


 そう思い込みたかったのかもしれない。


  新しい箱に替えた夜、私はまた、旧市民病院の前で客待ちをして、一時過ぎまで流した。


 上がって、路肩で箱を開けた。


 新品の箱の底に、初乗りちょうど。


 白銅の五百円と、ぎざのある十円。


  背筋が、すっと冷えた。


 箱の問題ではない。


 そう、はじめて思った。


 指先の、あの温もりだけが、二年前と同じだった。


  どこに相談していいか分からず、途方に暮れていたとき、行きつけの定食屋「かどや」の主人が、味噌汁を置きながら言った。


 「筒井さん、そういう、機械でも医者でもどうにもならん話はな。いま、神宝町に、妙な拝み屋が流れてきててな。駅前の古いビジネスホテルに、しばらく泊まってるらしいぞ」。


  半信半疑で、私はその古いビジネスホテルを訪ねた。


 フロントで名を告げると、階段の上の、狭い一室に通された。


 その部屋の扉を開けると、煙草の匂いと、細い線香の匂いが混じって流れてきた。


 アロハシャツを着た、糸のように目の細い男が、灰皿の縁で灰を、とんとん、と落としていた。


 歳は、三十前だろうか。


 若い。


  思いつめて事情を切り出す私の前で、男は最後まで、欠けた湯呑みを両手で包んだまま、口を挟まずに聞いていた。


 聞き終えると、ひとつ、うなずいた。


 「なるほど。空車なのに、稼いでる、と」


  拝み屋は、慈恩と名乗った。


 話は分かった、というふうに、煙草を一本くわえて、火はつけずに言った。


 「一晩、乗せてもらいましょうか。車のことは、走ってみないと、分からないです」


  その晩、慈恩は私の車の助手席に乗った。


 自分では、あまり動かない男らしい。


 深夜一時、旧市民病院の前。


 客待ちの列に並んで、私はメーターを空車のままにしておく。


 慈恩は、客を探すでもなく、膝の上に手を置いて、運賃箱のあたりを、顔の少し上を、見るともなく眺めていた。


 フロントガラスに、街灯が滲む。


  病院の車寄せから、点滴の管をまだ提げたままの老人が、付き添いに支えられて出てきて、私の前の車に、時間をかけて乗り込んだ。


 慈恩は、それを見送るでもなく、ただ運賃箱の、その一点だけを見ていた。


  やがて、糸のような目を、ほんの少しだけ開いた。


 「この箱、故障じゃないです」


  低い声だった。


 さっきまでの、食えない調子が、消えていた。


 「……いや。半分は、あなたです。もう半分が、めんどくさい方ですね」


  私の半分が、何だというのか。


 それを訊く前に、前の車が動いた。


 私はメーターを倒して、車を出した。


 バックミラーに、誰も乗っていない後部座席が映る。


 慈恩は、その空いた座席をちらりと見て、こう言った。


 「もう一件、って顔してますよ。あなたも、この箱も」


【後書き】


空車のはずの運賃箱に、稼ぎだけが増えていく。


深夜のタクシーの、その前編でした。

祓うものが、あるのかどうか。( 一一)

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