第4話 あずける鍵
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祓うことは、できます、と慈恩さんは言った。
祓えば、この部屋はただの部屋に戻る。
鍵も、もう増えません。
増えたぶんは、ただの金物になる——。
「でも、この部屋が増やしたかったのは、鍵じゃありませんよ。鍵を持ってる手のほうです。祓うか、応えてやるか。ぼくは決めません。決めるのは、ここに住んでるあなたです」
考えます、と言いかけて、やめた。
考えるまでもなかった。
手帳の空白の週を思い出したからだ。
誰とも口をきかない週の終わりに、鍵が増える。
部屋は、辰巳さんの心配をしているのじゃない。
辰巳さんはもう、いない。
心配されているのは、いまここで寝起きしている、おれだった。
二十七のおれと、七十六の辰巳さんは、何もかも違う。
違うが、この半年のおれの暮らしを、辰巳さんの二十年の縮尺で引き延ばしたら、行き着く先は、たぶん同じ玄関の内側だ。
部屋のほうが、先にそれに気づいていた。
住人より先に。
「応えます」と、おれは言った。
慈恩さんの指示は、拍子抜けするほど地味だった。
まず、玄関と窓をぜんぶ開け放して、風を通す。
ひと月ぶん、と慈恩さんは言った。
玄関を開け、六畳の窓を開け、台所の小窓まで開けると、十月の夕方の風が、部屋をまっすぐ通った。
カレンダーがめくれて、台所の暖簾が揺れた。
半年住んで、玄関と窓を同時に開けたのは、初めてだった。
風の通り道というものを、この部屋は、ちゃんと持っていたのだ。
誰かが、そうやって設計したのだ。
あたりまえのことに、妙に胸を突かれた。
次に、小瓶から粗塩をひとつまみ、おれの掌に。
水は使わない、あなたの汗で溶かすんです、と言われて、おれは塩を握り込んだ。
営業事務の手は、なかなか汗をかかなかったが、握っているうちに、角が溶けた。
その塩で、玄関の錠と、ドアの枠を、ひと回り、指でなぞった。
最後に、無地のメモカードを一枚渡された。
あなたの字で、あなたの言葉で、と言われて、おれは少し考えてから、短く書いた。
——なにかあったら、あけてください。
それを、下駄箱の上に置いた。
慈恩さんは、三和土から一部始終を見ていただけだった。
手は、いっさい貸さなかった。
帰りぎわ、玄関で靴を履きながら、食えない顔で一言だけ付け足した。
「カードはね、部屋に読ませる紙です。でも、書いてあることは、人間がやってください」
料金を訊いたら、錠前の相談は錠前屋の相場で、と言って、平井の親父さんの錠交換と大差ない額しか取らなかった。
拝んだ憶えもありませんし、と言った。
たしかに、この人は最初から最後まで、一度も拝まなかった。
書いてあることは、人間がやる。
つまり、そういうことだった。
週末、おれは新しいスペアキーを一本、内海さんに預けた。
玄関先で用件を言うと、内海さんは、目を丸くして、それから、泣きそうな顔になった。
いいのかい、と三度訊かれた。
おれは、いいんです、と三度答えて、付け足した。
おれが返事をしなかったら、勝手に開けてください。
留守でも、旅行でも、叱ったりしません。
開けて何もなかったら、笑い話にしましょう——。
内海さんは、鍵を両手で包んで、仏壇にでも上げるみたいに、押しいただいた。
それから、柿をむいて持たせてくれた。
庭の木の、今年の一番なりだという。
もう一本は、隣県の妹に、簡単な手紙をつけて送った。
何と書いていいか分からず、結局「何かあったときのため」とだけ書いた。
届いた晩に電話が来て、妹は、合鍵なんて急にどうしたの、兄ちゃん変なものでも食べた、と笑った。
うるさい、いいから持っとけ、と言って切った。
切ってから、妹の着信を折り返し忘れていた週のことを思い出して、こっちから、もう一度かけ直した。
用はなかった。
用のない電話を、十五分した。
ついでに、と言ってはなんだが、向かいの部屋に、半年遅れの引っ越しの挨拶にも行った。
同年輩の会社員で、遅すぎる挨拶を面白がって、缶ビールを二本くれた。
廊下で会えば会釈をする間柄が、一軒ぶん、増えた。
それきり、鍵は増えていない。
毎朝、癖で数える。
三本。
夜も、三本。
キーリングは、あれから一度も、おれを数え間違えていない。
増えた四本は、平井の親父さんが金物として引き取ってくれた。
ただ一本、最初の、いちばん丸くすり減った一本だけは、内海さんが取っておいた。
月命日に辰巳さんの墓へ行くというので、おれも一度だけ、ついて行った。
小さな墓だった。
墓石には、辰巳家之墓、とだけあった。
花立てに、内海さんが持ってきた小菊が入った。
内海さんは、線香を上げて、洗った鍵をそっと墓石の前に置いて、長いこと、手を合わせていた。
ごめんなさいねえ、と言ったのが、聞こえた。
おれは何も言えずに、後ろで頭を下げていた。
線香の煙が、まっすぐ上がって、秋の空に溶けた。
辰巳さんのひと月だけは、誰がどうやっても、もう返せない。
それだけは、この話のどこにも、救いがないままだ。
部屋に戻ると、夕方だった。
下駄箱の上のカードは、そのままにしてある。
色褪せたら、書き直すつもりでいる。
ドアの前で鍵を出して、差して、回す。
かちり、と錠の開く音がした。
おれはその音を、ドアを開けずに、もう一度だけ聞きたくなって、閉めて、また回した。
かちり。
この音が、部屋の中に届いているといい、と思った。
誰か、帰ってきましたよ、と。
玄関の鍵を開ける音が、こんなに人間の音だとは、知らなかった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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