第3話 部屋の言い分
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
神宝町へは、電車で二駅だった。
降りたのは初めてだった。
商店街の外れに、その古いビルはあった。
一階の、看板のない引き戸。
中で人の気配はするのに、呼び鈴も、営業中の札もない。
二度ためらって、三度目に開けると、線香と煙草の混じったにおいがして、糸のように細い目をした男が、机で古い腕時計のねじを巻いていた。
よれたアロハシャツ。
十月にアロハだ。
机の上には、湯呑みと、ポケットに入るような小さな灰皿と、粗塩らしい小瓶。
事務所と呼ぶには物がなさすぎて、住まいと呼ぶには生活のにおいがなさすぎる部屋だった。
男は、おれより若く見えた。
二十六です、と本人もあっさり言った。
「拝み屋の慈恩です」
若さに怯んだのは最初だけだった。
おれが鍵の話をすると、男は途中から目をつぶるようにして聞いて——もともと糸目だから、つぶっているのかどうかも分からないのだが——一度も口を挟まなかった。
四本目の鍵を机に置いたときだけ、糸目がぴくりと動いた。
聞き終えると、「なるほど」と言った。
おれが半月かけて煮詰まった話を、この男は、湯呑み一杯の茶が冷めないうちに呑み込んだらしかった。
それから、湯呑みに茶を注ぎ足しながら、こう続けた。
「最初の一本は、本当に出回りものだったのかもしれませんよ。古いアパートの合鍵なんて、どこで何本生きてるか、誰にも分かりません。——でも、替えたばかりの錠のぶんは、別です。あれは、出どころが一つしかない」
どこです、と訊くと、男は湯呑み越しに、事もなげに言った。
「あなたの部屋です」。
料金を訊くと、見てから決めます、祓うものがいなかったら茶代だけで結構です、と言った。
商売っ気があるのかないのか、分からない男だった。
明日の夕方に行きます、と、手帳も見ずに決めた。
翌日の夕方、慈恩さんはうちに来た。
会わずにものは言えません、部屋も同じです、と言った。
人を部屋に上げるのは、越してきて初めてだった。
座布団が一枚しかないことに、客が来てから気づいた。
慈恩さんは、気にするふうもなく、その一枚も使わなかった。
六畳と台所を、遠慮もなくひと回りした。
台所の、洗い桶に伏せた一人ぶんの茶碗を見て、押し入れの上段の、使っていない客用蒲団を見て、何も言わなかった。
何も言われていないのに、おれは見られた気がした。
この部屋には、おれ以外の人間の痕跡が、何一つない。
それから慈恩さんは玄関の三和土に立ち、細い線香に火をつけた。
糸目が、少しだけ開いた。
煙が、まっすぐ、玄関の錠へ流れた。
ドアの内側を、慈恩さんは、長いこと見上げていた。
何の変哲もない、鉄のドアの内側を。
「悪いものは、いませんよ」と、慈恩さんは言った。
おれの肩から、力が抜けた。
「祟りも、恨みもない。この部屋にあるのは——気にしてる、って気持ちだけです」
気にしてる。
誰がです、と訊いたおれに、慈恩さんは、ドアの錠を指の背でこつんと叩いた。
「部屋が、です。正確には、この玄関が。……三年前のひと月を、まだ気にしてるんです。この部屋は、鍵が開かなかったんじゃありません。鍵なら、大家さんの家にあった。——開ける手が、なかったんです」
だから増やすんです、と慈恩さんは言った。
誰かが入って来られるように。
合鍵を持つ手が、一本でも多くあるように。
宛先も考えずに、ただ、増やす。
人格なんてものはない、意思ですらない、染み込んだ願いが同じことを繰り返しているだけです——。
幽霊は出ないんですか、と、おれは訊いた。
辰巳さんは、ここに、と。
慈恩さんは首を振った。
「辰巳さんは、もういません。ちゃんと、いなくなってます。残ってるのは人じゃなくて、ひと月ぶんの『開かなかった』だけです。人が染みを残すんじゃありません。時間が染みを残すんです」。
それから慈恩さんは、四本目の鍵をつまみ上げて、窓の明かりに透かした。
「この丸さはね、たぶん、辰巳さんの五十年です。同じ手で、同じ錠を、五十年開け続けた鍵の形。部屋が覚えてる『鍵』の形が、これしかないんですよ。だから新しい錠の合鍵を作っても、こういう、使い込んだ形で出てくる」
西日で、真鍮の山が鈍く光った。
おれの倍の年月、毎日回された鍵。
玄関を開けて、ただいま、と言って、返事のある家。
返事がなくなってからも、回され続けた鍵。
その丸さだけを型に取って、部屋は、黙々と同じものを作り続けている。
しばらく、誰も喋らなかった。
夕方の西日が、三和土に伸びていた。
おれは、毎晩くぐっている自分の玄関を、初めて見るもののように見た。
ここで、鍵は内側から掛かったまま、ひと月、回されなかった。
新聞が溢れて、牛乳が溜まって、通りの音だけが行き過ぎて。
この部屋で、と、おれはようやく言った。
この玄関の内側で、辰巳さんはひと月、誰にも開けてもらえなかったんですね——。
慈恩さんは、うなずきもしなかった。
かわりに、糸目のまま、おれを見た。
「片瀬さん。ひとつ、訊いていいですか」
「……はい」
「あなた、この半年で、合鍵を預けられる人が、何人いますか」
おれは、答えられなかった。
内海さん——と言いかけて、続かなかった。
会社の人間の顔を何人か思い浮かべて、どの顔も、鍵の重さに釣り合わなかった。
半年でおれがこの町に作ったものは、玄関の錠の新しさだけだった。
糸目の奥に、責める色は少しもなかった。
医者が、痛みますか、と訊くのと同じ声だった。
それが、かえって堪えた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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