後編 においは、消えない
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
図星を刺されて、わたしはとっさに、何か言い返そうとした。
けれど言葉が出てくるより先に、慈恩さんは、腕時計を脇へよけて、あっさりと言った。
「最初に言っておきます。あなたに、憑き物はいません。祓うものが、何もない。あれは、生まれつきの鼻です。……才能ですよ。難儀な才能だ」
才能。
その言葉が、いちばん聞きたくなかった。
勘。
思い込み。
体質。
——そう呼べるうちは、いつか消せるかもしれない、と思えた。
けれど才能だと言われてしまえば、それは、わたしという体の、一部だということだ。
「消してほしいんです」
わたしは言った。
「これさえなければ、わたしは、静江さんのとなりに、ふつうに座って、お茶を飲める」
「消えませんよ、たぶん」
慈恩さんは、湯呑みの茶をひと口、飲んだ。
「あなたの鼻は、半分は説明がつきます。終末期の体は、頭が気づくより先に、片づけの支度を始める。長く介護をやってる人なら、それを、頭より先に、体で覚える。——でも、あなたのは、そこで終わらない」
慈恩さんは、湯呑みを置いた。
「会って、数秒の人。健診で、どこも悪くないと言われた人。それでもあなたは、外さないでしょう。そこは、勘じゃ届かない。あなたのは、本物です」
本物、という言葉に、体の芯が、すっと冷えた。
「本物なのに、穴があります」
慈恩さんは、静かに続けた。
「あなたの鼻は、いつ死ぬかは、嗅ぎ当てる。でも、その人が最期に何をしてほしいかは、いつまでたっても、嗅げない。あれは、鼻で嗅ぐものじゃないんです。訊いて、そばにいて、やっと半分わかる。それだけです」
わたしは、答えられなかった。
図星だった。
「それに、」
慈恩さんは、わずかに目を細めた。
「自分のにおいは、嗅げないでしょう」
そのとき、慈恩さんが、わたしの顔の、少し上のあたりを見た。
上から下へ、何かを確かめるように。
前編でも、一度、そうされた。
値踏みの目ではなかった。
もっと遠くの、わたしにも見えないものを見ている目だった。
「あなたが逃げてるのは、死のにおいじゃない」
低い声だった。
「看取ったあとに残る、自分のほうです」
その一言で、ずっと閉じていた古い部屋の戸が、内側から、音もなく開いた。
——子どものころだ。
祖父の膝に乗って、わたしは、鼻をひくつかせた。
甘くて、乾いた土のような、あのにおい。
まだ、それが何なのかも知らずに、わたしは口にした。
「おじいちゃん、へんなにおいがする」。
祖父は、はは、と笑った。
それからいくらも経たないうちに、祖父は、逝った。
幼いわたしは、思い込んだ。
わたしが言ったから、死んだのだ、と。
言わなければ、まだ生きていたのに、と。
それからだった。
においを嗅ぐたび、わたしは、その人から、先回りして離れるようになった。
心の準備、と呼んできた。
けれど、ほんとうは、においから逃げていたのではなかった。
また当ててしまう、口にしてしまう、その自分から、逃げていたのだ。
田所さんからも。
そして、静江さんからも。
慈恩さんの言うとおりだった。
慈恩さんは、祓わなかった。
祓うものが、ないからだ。
かわりに、三つのことを、わたしに授けた。
ひとつ。
静江さんの部屋の、窓を開けてきなさい、と。
ふたつ。
机の上の小瓶——粗塩を、わたしの前に、すっと置いた。
「これは、鎮めるものが無いから、あなたの手のためです」。
相手に触れられず、手が逃げそうになったら、その手を一度きつく握って、塩をひとつまみ握りしめてから、相手の手を取りなさい、と。
「鎮めるのは、相手じゃない。あなたの手のほうです」。
みっつ。
白い、無地のカードを、一枚。
「あなたの言葉で、一言」とだけ。
そして、宿題を出された。
「嗅ぐな、とは言いません。止められない鼻だ。かわりに——嗅いだにおいを、期限にしないでください。あと何日、で数えるのを、やめる。今日、そのひとのそばで、何ができるか。それだけを、考える。訊いて、手を取って、最後までいる。分からなくても、離れない。それだけです」
三日、迷った。
四日目の午後、わたしは、菓子折りも持たずに、手ぶらで、静江さんのアパートの前に立っていた。
チャイムを押すと、少し痩せた静江さんが、あの、変わらない笑顔で、迎えてくれた。
上がって、と言われて、今度は、足を止めなかった。
六畳の部屋に、あのにおいが、やはり、あった。
甘くて、乾いた土のような。
消えては、いなかった。
消えるわけが、なかった。
わたしは、まず、窓を開けた。
梅雨の晴れ間の風が入って、色あせたカーテンが、ふわりと膨らんだ。
「どうしたの、急に」と、静江さんが笑った。
それから、少し声を落として、こう言った。
「あんた、しばらく、来なかったねえ」。
責める調子は、なかった。
「わたしね、この体だから。自分のことは、自分がいちばん、分かってるのよ。あんたが来づらかったのも、なんとなく、分かってた」。
ベテランだった。
現場で、何人もの最期に、立ち会ってきた人だ。
わたしの鼻が嗅ぎ当てたことを、この人は、自分の体で、とうに知っていた。
それでも、笑っていた。
逃げたく、なった。
いつものように、急な用を思い出したふりをして。
——けれど、わたしは、塩をひとつまみ、手のひらに、握った。
指の関節が白くなるほど、きつく。
それから、口で、訊いた。
「静江さん。今日、なにが、したいですか」
静江さんは、少し驚いた顔をして、それから、照れたように、言った。
「じゃあ……髪を、梳いてもらおうかな。自分じゃ、もう、うまく腕が、上がらなくてね」
わたしは、塩を握っていたほうの手で、静江さんの、薄くなった肩に触れた。
手は、逃げなかった。
櫛を借りて、白いものの増えた髪を、根元から、毛先へ、ゆっくりと、梳いた。
静江さんは、気持ちよさそうに、目を閉じた。
においは、消えなかった。
ずっと、そこにあった。
それでも、わたしは、今日は、そばにいた。
あの日から、わたしは、何度も、静江さんのところへ通った。
窓を開けて、髪を梳いて、昔の現場の失敗話で、二人で笑った。
においは、行くたびに、そこにあった。
数える代わりに、わたしは、ただ、となりに座った。
静江さんが逝ったのは、梅雨が明けた、朝だった。
息が細くなって、そのまま、静かになった、と、あとで聞いた。
わたしは、そのとき、そばにいた。
手を、握っていた。
最期に、静江さんが、何をしてほしかったのか、においは、最後まで、教えてくれなかった。
訊いて、そばにいて、半分だけ、分かった。
それで、よかったのだと思う。
梅雨明けの、神宝町だった。
細い線香のにおいのする十階で、慈恩さんは、古い腕時計のねじを、また巻いていた。
わたしの顔を見て、糸のような目を、少しだけ、動かした。
「で、におい、消えましたか」
「いえ」
わたしは言った。
「ひとつも」
「けっこう」
慈恩さんは、少し笑った。
「消えたら、あなた、ただの、鼻のいい人だ。……嗅げるまま、そばにいられるほうが、よっぽど珍しいんです」
帰りぎわ、わたしは、あの無地のカードを、鞄から出した。
何を書くか、ずっと、決めていた。
ペンを握る手が、少しだけ、迷った。
それから……一言だけ、書いた。
「かぞえない。そばにいる」
現場に戻れば、また、新しい利用者さんに、あのにおいが立つ。
鼻は、明日も、きっと、嗅ぐ。
それは、変わらない。
においから、逃げ出したくなる日も、きっと、また来る。
ただ、今日だけは、逃げなかった。
数える代わりに、となりにいた。
それだけは、この鼻でも、嗅ぎ当てられなかった、確かなことだった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
Nolaノベル
黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】
最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中
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