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神宝町怪異相談  作者: KASANE
におい〔前後編〕

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55/63

後編 においは、消えない

時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


図星を刺されて、わたしはとっさに、何か言い返そうとした。


けれど言葉が出てくるより先に、慈恩さんは、腕時計を脇へよけて、あっさりと言った。


「最初に言っておきます。あなたに、憑き物はいません。祓うものが、何もない。あれは、生まれつきの鼻です。……才能ですよ。難儀な才能だ」


才能。


その言葉が、いちばん聞きたくなかった。


勘。


思い込み。


体質。


——そう呼べるうちは、いつか消せるかもしれない、と思えた。


けれど才能だと言われてしまえば、それは、わたしという体の、一部だということだ。


「消してほしいんです」


わたしは言った。


「これさえなければ、わたしは、静江さんのとなりに、ふつうに座って、お茶を飲める」


「消えませんよ、たぶん」


慈恩さんは、湯呑みの茶をひと口、飲んだ。


「あなたの鼻は、半分は説明がつきます。終末期の体は、頭が気づくより先に、片づけの支度を始める。長く介護をやってる人なら、それを、頭より先に、体で覚える。——でも、あなたのは、そこで終わらない」


慈恩さんは、湯呑みを置いた。


「会って、数秒の人。健診で、どこも悪くないと言われた人。それでもあなたは、外さないでしょう。そこは、勘じゃ届かない。あなたのは、本物です」


本物、という言葉に、体の芯が、すっと冷えた。


「本物なのに、穴があります」


慈恩さんは、静かに続けた。


「あなたの鼻は、いつ死ぬかは、嗅ぎ当てる。でも、その人が最期に何をしてほしいかは、いつまでたっても、嗅げない。あれは、鼻で嗅ぐものじゃないんです。訊いて、そばにいて、やっと半分わかる。それだけです」


わたしは、答えられなかった。


図星だった。


「それに、」


慈恩さんは、わずかに目を細めた。


「自分のにおいは、嗅げないでしょう」


そのとき、慈恩さんが、わたしの顔の、少し上のあたりを見た。


上から下へ、何かを確かめるように。


前編でも、一度、そうされた。


値踏みの目ではなかった。


もっと遠くの、わたしにも見えないものを見ている目だった。


「あなたが逃げてるのは、死のにおいじゃない」


低い声だった。


「看取ったあとに残る、自分のほうです」


その一言で、ずっと閉じていた古い部屋の戸が、内側から、音もなく開いた。


——子どものころだ。


祖父の膝に乗って、わたしは、鼻をひくつかせた。


甘くて、乾いた土のような、あのにおい。


まだ、それが何なのかも知らずに、わたしは口にした。


「おじいちゃん、へんなにおいがする」。


祖父は、はは、と笑った。


それからいくらも経たないうちに、祖父は、逝った。


幼いわたしは、思い込んだ。


わたしが言ったから、死んだのだ、と。


言わなければ、まだ生きていたのに、と。


それからだった。


においを嗅ぐたび、わたしは、その人から、先回りして離れるようになった。


心の準備、と呼んできた。


けれど、ほんとうは、においから逃げていたのではなかった。


また当ててしまう、口にしてしまう、その自分から、逃げていたのだ。


田所さんからも。


そして、静江さんからも。


慈恩さんの言うとおりだった。


慈恩さんは、祓わなかった。


祓うものが、ないからだ。


かわりに、三つのことを、わたしに授けた。


ひとつ。


静江さんの部屋の、窓を開けてきなさい、と。


ふたつ。


机の上の小瓶——粗塩を、わたしの前に、すっと置いた。


「これは、鎮めるものが無いから、あなたの手のためです」。


相手に触れられず、手が逃げそうになったら、その手を一度きつく握って、塩をひとつまみ握りしめてから、相手の手を取りなさい、と。


「鎮めるのは、相手じゃない。あなたの手のほうです」。


みっつ。


白い、無地のカードを、一枚。


「あなたの言葉で、一言」とだけ。


そして、宿題を出された。


「嗅ぐな、とは言いません。止められない鼻だ。かわりに——嗅いだにおいを、期限にしないでください。あと何日、で数えるのを、やめる。今日、そのひとのそばで、何ができるか。それだけを、考える。訊いて、手を取って、最後までいる。分からなくても、離れない。それだけです」


三日、迷った。


四日目の午後、わたしは、菓子折りも持たずに、手ぶらで、静江さんのアパートの前に立っていた。


チャイムを押すと、少し痩せた静江さんが、あの、変わらない笑顔で、迎えてくれた。


上がって、と言われて、今度は、足を止めなかった。


六畳の部屋に、あのにおいが、やはり、あった。


甘くて、乾いた土のような。


消えては、いなかった。


消えるわけが、なかった。


わたしは、まず、窓を開けた。


梅雨の晴れ間の風が入って、色あせたカーテンが、ふわりと膨らんだ。


「どうしたの、急に」と、静江さんが笑った。


それから、少し声を落として、こう言った。


「あんた、しばらく、来なかったねえ」。


責める調子は、なかった。


「わたしね、この体だから。自分のことは、自分がいちばん、分かってるのよ。あんたが来づらかったのも、なんとなく、分かってた」。


ベテランだった。


現場で、何人もの最期に、立ち会ってきた人だ。


わたしの鼻が嗅ぎ当てたことを、この人は、自分の体で、とうに知っていた。


それでも、笑っていた。


逃げたく、なった。


いつものように、急な用を思い出したふりをして。


——けれど、わたしは、塩をひとつまみ、手のひらに、握った。


指の関節が白くなるほど、きつく。


それから、口で、訊いた。


「静江さん。今日、なにが、したいですか」


静江さんは、少し驚いた顔をして、それから、照れたように、言った。


「じゃあ……髪を、梳いてもらおうかな。自分じゃ、もう、うまく腕が、上がらなくてね」


わたしは、塩を握っていたほうの手で、静江さんの、薄くなった肩に触れた。


手は、逃げなかった。


櫛を借りて、白いものの増えた髪を、根元から、毛先へ、ゆっくりと、梳いた。


静江さんは、気持ちよさそうに、目を閉じた。


においは、消えなかった。


ずっと、そこにあった。


それでも、わたしは、今日は、そばにいた。


あの日から、わたしは、何度も、静江さんのところへ通った。


窓を開けて、髪を梳いて、昔の現場の失敗話で、二人で笑った。


においは、行くたびに、そこにあった。


数える代わりに、わたしは、ただ、となりに座った。


静江さんが逝ったのは、梅雨が明けた、朝だった。


息が細くなって、そのまま、静かになった、と、あとで聞いた。


わたしは、そのとき、そばにいた。


手を、握っていた。


最期に、静江さんが、何をしてほしかったのか、においは、最後まで、教えてくれなかった。


訊いて、そばにいて、半分だけ、分かった。


それで、よかったのだと思う。


梅雨明けの、神宝町だった。


細い線香のにおいのする十階で、慈恩さんは、古い腕時計のねじを、また巻いていた。


わたしの顔を見て、糸のような目を、少しだけ、動かした。


「で、におい、消えましたか」


「いえ」


わたしは言った。


「ひとつも」


「けっこう」


慈恩さんは、少し笑った。


「消えたら、あなた、ただの、鼻のいい人だ。……嗅げるまま、そばにいられるほうが、よっぽど珍しいんです」


帰りぎわ、わたしは、あの無地のカードを、鞄から出した。


何を書くか、ずっと、決めていた。


ペンを握る手が、少しだけ、迷った。


それから……一言だけ、書いた。


「かぞえない。そばにいる」


現場に戻れば、また、新しい利用者さんに、あのにおいが立つ。


鼻は、明日も、きっと、嗅ぐ。


それは、変わらない。


においから、逃げ出したくなる日も、きっと、また来る。


ただ、今日だけは、逃げなかった。


数える代わりに、となりにいた。


それだけは、この鼻でも、嗅ぎ当てられなかった、確かなことだった。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。



次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


Nolaノベル

黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】


最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637


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