後編 潰された一階
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翌日の昼、慈恩はもう一度、朝霧ハイツへやってきた。
夜のときのように昇降路を覗く素振りは、もう見せなかった。
ロビーのソファに浅く腰かけて、私に向かって、こう言った。
「坂口さん。古いもの、出してもらえますか。この建物が、まだ今の形じゃなかった頃の」
私は、管理会社の倉庫を当たった。
埃をかぶった書類の間から、改築前の写真が、何枚か出てきた。
旧「朝霧荘」の、色の褪せた間取り図も。
それに、管理人室のいちばん奥に綴じてあった、古い入居者台帳。
慈恩は、それらを一枚ずつ、時間をかけて見た。
何かを探すというより、紙の、少し上のあたりを撫でるような目つきだった。
写真の中の朝霧荘は、今の朝霧ハイツとは、まるで違う建物だった。
木造モルタルの、低い二階建て。
そして——道路より、一段低いところに建っていた。
玄関へ行くのに、外から数段、下りている。
今の駐車場のあたりが、ちょうど、その一段低い地面だったのだ。
「一階分、下に厚いんですよ、昔の家は」
慈恩は写真を置いた。
「今より、下に」
それから彼は外階段を降りて、半地下の駐車場に立った。
天井の、やけに低い場所。
モルタルに、半分埋まった木の窓枠。
慈恩は靴の踵で、コンクリートのスラブを、こつ、と軽く叩いた。
「この下、埋まってますね」
その音は、私が思っていたより、ずっと、こもって聞こえた。
「一九九〇年に、ここを改築してます」
慈恩は、駐車場の低い天井を見上げた。
「そのとき、昔の朝霧荘の一階を——道より低い、この半地下の一フロアを、土を盛って潰したんです。潰して、その上に、六階分を、積み直した」
私は、あの、半分埋まった窓枠を見た。
ガラスのない、桟だけの窓。
あれは、潰された一階の、窓だったのだ。
ずっと私を覗いていたのは、無い階のほうから、だったのだ。
「基礎の中に、昔の一階が、空間ごと、残ってるんですよ」
慈恩は続けた。
「一〇一号、一〇二号、一〇三号。土に埋めても、部屋の形は、そう簡単には消えません」
「じゃあ、あの、ボタンに無い階で止まるのは……」
「幽霊が出てるわけじゃないです」
慈恩は、はっきりと言った。
「人が化けて出てるんじゃありません。建物が覚えてるんですよ。人が忘れても」
恨みも、意思もない、と彼は言った。
誰かを驚かせたいわけでも、助けてほしいわけでもない。
ただ、建物が、潰した一階分を、覚えているだけ。
だから、祓うも何も、そこに化けて出ているものなど、はじめから、いない。
「なら」
私は訊いた。
「なぜ、私が乗ったときだけなんです。同じ零時でも、ほかの住人には、一度も出ていない」
「一人だけ、覚えてる人がいるからです」
慈恩は私を見た。
糸のような目が、薄く開いていた。
「建物は、覚えてる人が乗ると、思い出す。あなたが乗ると、一階分、数え直すんですよ」
覚えている人。
——その言葉が、胸の奥の、あのざわつきに、触れた。
台帳の「一〇二号 多田」の字を見たときの、あの感じ。
私は、目を閉じた。
そうして、思い出した。
十四年前。
私が着任した、旧朝霧荘の、最後の年のことだ。
建て替えが決まって、私は、立ち退きの挨拶回りをした。
ほとんどの部屋は、すんなり応じてくれた。
ただ一人、最後まで渋ったのが、一〇二号の、多田ハツさんだった。
七十八歳。
ご主人に先立たれて、一人暮らし。
あの、道より一段低い、畳の部屋。
仏壇には、いつも、線香が上がっていた。
それでもハツさんは、若造だった私に、お茶と、饅頭を出してくれた。
ここを出たくないねえ、と、笑いながら言っていた。
ハツさんは、仮住まいへ移った、その直後に、亡くなった。
私は、葬式にも行けなかった。
建て替えの、いちばん忙しい時期だった。
そうして、十三年。
私は、あの人のことを、半分、忘れていた。
畳と、線香と、古い石鹸の匂い。
あれは、ハツさんの部屋の匂いだったのだ。
「あの停止は」
慈恩は、静かに言った。
「新しい制御盤より、ずっと前からあったんです。改築のとき、一階を潰したときから、ずっと。ただ、覚えてる人が乗る零時にしか、出てこなかった。だから、あなたは、十三年、気づかずにいられた」
原因は、制御盤なんかではなかった。
制御盤より、ずっと前から、消えた一階は、そこに在ったのだ。
私が、思い出すのを、待っていたみたいに。
「祓えるんですか」
私は、訊いた。
「祓う?」
慈恩は、少しだけ可笑しそうにした。
「しませんよ。潰した階は、戻せない。無かったことにも、しません。祓うものが、そもそも、無いんです」
彼は、煙草をくわえたが、ロビーでは火をつけなかった。
「ぼくにできるのは、あなたが降りるとき、隣にいることくらいです」
慈恩は言った。
「降りるのは、あなたです。坂口さん。あなたしか、いないんですよ」
そうして彼は、三つのことを、私に教えた。
その夜、零時。
私は、一人で、エレベーターに乗った。
慈恩は、箱には乗らなかった。
昇降路の脇に、細い線香を一本立て、携帯灰皿を手にして、ただ、待っていた。
5、4、3、2、1。
——そして、消えた。
ボタンに無いところで、こと、と、箱が止まる。
これまで私は、いつも、怖くて「閉」を押していた。
開いてしまう前に、閉じてしまいたかった。
だが今夜は、押さなかった。
私は、扉を、一度、きちんと、開けた。
畳と、線香と、古い石鹸の匂いが、ひらいた隙間から、流れ込んできた。
そこにあったのは、今のロビーではなかった。
昔の、低い廊下だった。
天井の低い、薄暗い廊下。
その先に、一〇二号の、木の戸が、見えた。
私は、ポケットから、小瓶の粗塩を出した。
ひとつまみを掌にのせ、自分の掌の汗で、溶かした。
箱の隅に、真鍮の、古い階数銘板が残っていた。
昔の朝霧荘から流用して、改築のとき、外し忘れたのだろう。
「1」の、跡。
私は、その縁を、湿った指で、ゆっくりと、一周、撫でた。
派手な光も、音も、なかった。
ただ、真鍮が、ほんの少し、あたたかくなった気がした。
それから、無地のカードを、一枚。
私は、そこに、名前を書いた。
一〇二号 多田ハツさん。
続けて、短く、こう書いた。
ここに、いました。
忘れていて、すみません。
私は、そのカードを、扉の下の隅に、そっと置いた。
そうして、手を合わせた。
断つのではない。
送るのだ。
ずっと、ここに残っていた人を、やっと、見送るのだ。
扉が、ゆっくりと、閉じた。
表示が、するすると、「1」に戻る。
最後に、もう一度だけ、畳と線香の匂いが、ふっと差して——そして、消えた。
箱は、今の一階に、着いていた。
芳香剤の、甘い花の匂い。
無人のロビー。
昇降路の脇で、慈恩の線香が、細く、まっすぐに、煙を上げていた。
次の晩から、零時に、一人で乗っても、もう、一階は多くなかった。
表示は、1で止まる。
ただ、1で。
建物は、もう、思い出さなくなった。
私が、代わりに、覚えたからだ。
帰り際、ロビーで、慈恩は古い腕時計に目を落として、煙草をくわえた。
火は、外へ出てから、つけるつもりらしかった。
「古いものを潰して、新しいのを建てる。早いですよ、この町は」
彼は、六階建ての、天井のほうを、ちらりと見上げた。
「……潰した分は、たいてい、誰も覚えてない。覚えてる人が一人いれば、建物も、無理に思い出さなくて済むんですけどね」
それだけ言って、慈恩は、夜の神宝町へ、帰っていった。
煙草のにおいだけが、少し、残った。
新しい朝霧ハイツも、いつか、一階分、多く数える夜が、来るのだろう。
そのとき、誰か一人でも、覚えていてくれると、いい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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