一階、多い 前編 ボタンにない階
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
深夜零時を過ぎると、うちのマンションは、一階、多い。
ボタンは、一階から六階まで。
それで全部だ。
駐車場へは建物の裏手の外階段で降りるから、箱には地下のボタンすら無い。
なのに、零時をまわると、階数表示だけが、無いはずの下の階を指して止まる。
乗っているのは、いつも私一人だった。
私は坂口誠一、五十四歳。
この「朝霧ハイツ」の住み込み管理人を、もう十四年やっている。
一階の脇にある四畳半が管理人室で、そこで寝起きしている。
妻はいない。
もう長いこと、この狭い部屋に、一人きりだ。
管理人の仕事は、掃除と、ゴミ出しの立ち会いと、住人の困りごとの取り次ぎ。
それから、夜の見回りだ。
オートロックの施錠を確かめ、廊下の電気を落とし、いちばん最後に、無人のエレベーターを一往復させて、扉の開閉と、階数表示に狂いがないかを点検する。
この締めくくりが、十四年来の、私の一日の終わりだった。
朝霧ハイツは、地上六階建て、各階三戸。
道から少し奥まった、日当たりのよくない土地に建っている。
築十三年。
私が来るより前、ここには古いアパートが建っていて、それを取り壊さずに改築したのだと、管理会社の書類には、そうあった。
私が知っているのは、そのくらいだ。
ある晩のことだった。
零時を、少し過ぎていた。
私はいつものように、六階から一階へ、空の箱を降ろしていた。
表示が、5、4、3、2、と順に減っていく。
1。
——そのまま、消えた。
パネルのどこにも点かない、数字と数字の隙間のような場所で、こと、と、箱が止まった。
扉が、数センチだけ開いた。
すぐに、閉じた。
その一瞬、匂いが差した。
畳と、線香と、古い石鹸の匂い。
今のロビーには、芳香剤が置いてある。
あの甘い花の匂いではない。
もっと古くて、しめった、誰かの暮らしの匂いだった。
扉が閉じきってしまうと、匂いは、もう無かった。
まるで、開いた隙間の向こうにだけ、今とは違う家が、静かに続いているみたいだった。
最初は、故障だと思った。
古い建物を改築したものだ、そういうこともあるだろう、と。
だが、翌晩も、翌々晩も、同じ時刻に、同じことが起きた。
零時をまわると、決まって一度、無い階で止まる。
私は、防犯カメラの録画を見返した。
エレベーターの中のカメラにも、その停止は、ちゃんと記録されていた。
ただし、私が一人で乗っているときだけだ。
昼間、住人が乗っている映像には、一度も無い。
それとなく、何人かに訊いてもみた。
「最近、エレベーターの調子、変じゃありませんか」。
みんな、きょとんとしていた。
誰も、あの停止に遭ったことがない。
この建物で、あれに気づいているのは、どうやら、私一人らしかった。
条件は、二つだった。
零時台であること。
そして、乗っているのが、私一人であること。
もし誰かの幽霊がいるのだとしたら、なぜ、私のときだけなのだろう。
幽霊というのは、そんなに相手を選ぶものなのだろうか。
私には、そこが、どうしても腑に落ちなかった。
気にしはじめると、建物のあちこちに、小さな綻びが見えてきた。
まず、部屋番号だ。
朝霧ハイツは、一階が「二〇一号」から始まる。
二〇一、二〇二、二〇三。
二階が、三〇一から。
表示される階より、番号のほうが、一つずつ多いのだ。
私はずっと、そういう振り方の建物なのだと思っていた。
一〇一号という部屋は、この建物には、無い。
次に、駐車場だ。
裏手の外階段から降りる半地下の駐車場は、天井が、やけに低い。
背の高い車は入れられない。
その隅の、モルタルで塗り固めた壁に、古い木の窓枠が、半分だけ埋まっていた。
ガラスの無い、木の桟だけの窓が、コンクリートの中から、こちらを覗いている。
それから、管理人室の、古い台帳だ。
歴代の入居者を綴じた、ぶ厚いファイルの、いちばん奥のページに、今は無い部屋の記録があった。
かすれたペン字で、こうある。
「一〇二号 多田」。
私は、その名前を知らなかった。
——いや。
知らなかったはずなのに、その字を見た瞬間、胸の奥が、なぜか少しだけ、ざわついた。
着任して十四年、この建物のことなら何でも知っているつもりでいたのに、私はその理由を、うまく思い出せなかった。
私は、管理会社に報告した。
数日後、エレベーターの保守業者がやってきた。
若い技術者が、制御盤を開けて、しばらく唸っていた。
「制御盤の誤作動でしょうね」
と、彼は言った。
「あとは、ピット——昇降路のいちばん下の部分ですが——そこの位置検知がずれていると、実際より一つ下を表示してしまうことがあるんです。この建物、改築のときに階数の設定を組み直してますよね。たぶん、その名残ですよ」
理屈は、通っていた。
号室が一つずれているのも、表示が一つ下を指すのも、みんな、改築のときの設定のずれで、説明がつく。
彼は、古い制御盤を、新品にそっくり交換していった。
「これで直ります」。
私も、そのときは、そうか、と思った。
やっぱり故障だったのだ、と。
交換した、その夜のことだった。
零時。
私はまた、一人で、エレベーターに乗った。
5、4、3、2、1。
——そして、消えた。
無い階で、こと、と止まる。
扉の隙間から、畳と、線香と、石鹸の匂い。
おろしたての制御盤は、何の役にも立たなかった。
そのとき初めて、私は思った。
これは、機械の問題ではない、と。
翌日、報告に行った私に、管理会社の古参の社員が、妙なことを言った。
名刺の裏に、番地だけを書いて、寄こしたのだ。
「うちの管轄で、こういう“建物のほうの話”が、どうにもならんときはな」と、その人は声を落とした。
「神宝町に、妙なのがいる。医者でも業者でも手に負えん、そういうときの、まあ、最後の窓口みたいなもんだ」
半信半疑で、私は、その番地を訪ねた。
神宝町のはずれ、看板も表札もない、古い雑居ビルの一室。
中にいたのは、思っていたより、ずっと若い男だった。
よれたアロハシャツ。
痩せて、肌が白い。
目は、糸のように細い。
煙草の匂いが、こもっていた。
私が、深刻に事情を切り出しているあいだ、男は、湯呑みの縁の欠けを、親指で、ずっとなぞっていた。
「なるほど。一階、多い、と」
男は言った。
気だるげな声なのに、妙に、芯があった。
「行きましょうか。建物のことは、建物に訊かないと、わかりませんよ」
その晩、男——慈恩、というらしい——は、朝霧ハイツへやってきた。
零時前の、無人のロビー。
慈恩は、すぐには箱に乗らなかった。
まず、昇降路の扉の前に立ち、それから外階段を降りて、駐車場の低い天井を見上げ、あの、半分埋まった窓枠を、しばらく眺めた。
何かを探すというより、顔の、少し上のあたりを、ぼんやり見ているような目つきだった。
やがて、糸のような目を、薄く開いた。
「これ、故障じゃないです」
慈恩は、静かに言った。
「……いや。半分は故障ですね。もう半分が、めんどくさい方です」
もう半分が何なのかは、その晩、慈恩は言わなかった。
帰り際、彼は建物の外に出て、六階建ての壁を、下から上へ、ゆっくりと見上げた。
そうして、指で数えるみたいに、宙を、とん、とん、となぞってから、こう言った。
「一つ、多いですね」
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
Nolaノベル
黒田おっさんのなりあがり物語【20話完結済】
最新話はなろうカクヨムで灰はふぁんたじー小説掲載中
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