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神宝町怪異相談 ~働く人専門の拝み屋は、怪異の奥にある事情を読む~  作者: KASANE
速くなる点滴〔前後編〕

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後編 最後の一滴

お読みいただき、ありがとうございました。


 翌日の昼、慈恩さんは、わたしの付き添いという形で、四〇二号室へ来た。


 面会は家族だけだから、わたしが連れて入った。


 よれたアロハシャツの慈恩さんは、看護師の会釈にも、見舞い客にも紛れて、誰の記憶にも残らないように歩いた。


 父は、その日、ちょうど目を開けていた。


 慈恩さんが枕もとに立つと、混濁した父の目が、ゆっくりと、その顔を捉えた。


 ただ、しばらく見て、また、まぶたを下ろした。


 慈恩さんは、糸のような目を、ほんの少しだけ薄く開いて、父の顔を、それから、点滴の管をたどって、傍らのスタンドを、長いこと見ていた。


 古い、ステンレスの支柱だった。


 ほかのベッドの新しいものと違って、そこだけ鈍く曇り、根もとに錆が沈んでいた。


 毎晩そこにいたのに、そのスタンドが古いことに、わたしは一度も気づかなかった。


「このスタンド、この病院より古いです」


 慈恩さんは、糸目に戻して、低い声で言った。


「まだ、療養所だったころからのものです。何十年も、使い回されてきた。……あなたのお父さんの疲れよりも、あなたの疲れよりも、ずっと前から、ここに在ります」


 意味が分からないまま、背中だけが、先に冷えた。


「速くなるのは、あなたが数えた晩じゃない」


 慈恩さんは続けた。


「あなたが、心のどこかで、もう終わってほしいと、そう願った晩だけです。締め直しても、体を変えても、願った晩は、速まる。夜勤のミスでも、終末期でも、筋は通る。通るんですが、筋の通るところだけを、律儀に選んで、速まっている」


 ——わたしの疲れが、これを生んだのだと思っていた。


 休めば、消えるはずだと。


 ちがった。


 わたしより、ずっと古いものが、もとから、そこに在った。


 それが、疲れきったわたしの心を、選んで、動いているだけだった。


 取り消しようがない。


 休んだところで、逃げ場は、どこにもなかった。


「中に溜まってるのは、一人ぶんじゃありません」


 慈恩さんは、支柱に、指を触れずに、掌をかざした。


「速く逝かされた人たちの、最後の音です。何十年ぶんの。ここは療養所でした。帰れないと分かっていた人が、たくさんいた病棟です。……そのなかで、家族が、もういい、と息を吐いた晩の、その最後の一滴が、この一本に、溜まっている」


 意志のある霊ではないのだ、と慈恩さんは言った。


 恨みも、祟りもない。


 人格などない。


 あるのは、選ぶことだけ。


 見放された気配のする患者を選び、その家族の願いを、律儀に叶えていく。


「優しさですら、ないんですよ。ただの、選り分ける仕組みです。誰が悪いわけでもない。だから、いちばん、性質が悪い」


 そう言って、慈恩さんは、その晩の段取りを授けた。


 自分は病棟に入れない。


 夜は、あなたが一人でやるしかないです、と。


 指先が震えるのを、隠せなかった。


 その夜、消灯は過ぎていた。


 四〇二号室に、わたしは一人だった。


 父は眠っていた。


 粗塩の小瓶と、無地のカードと、鉛筆を、膝に置いて、待つ。


 父の呼吸が、ひゅう、と喉で鳴って、止まって、また、思い出したように、吸う。


 モニタの電子音が、緑の線を刻んでいた。


 そのうちに、滴の音が、変わった。


 ぴちゃ。


 ぴちゃ。


 ぴちゃ。


 ——間隔が、そろっていく。


 生活の音ではなくなっていく。


 秒針のように、等しく、正確に。


 滴下筒のなかの水面が、見ているあいだにも、下がっていった。


 目盛りなどないのに、下がっているのが、はっきり分かった。


 わたしの心臓が、その音に合わせるように、耳の奥で鳴りはじめた。


 十一月の、暖房の効いた病室で、わたしの足首だけが、水に浸けたように冷たかった。


 数えるまいと思った。


 数えれば、速くなる。


 分かっているのに、数が、ひとりでに積みあがる。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 滴が落ちるたびに、父の命が、目盛りひとつぶん、減っていく気がした。


 ——もう、いいよ。


 父の、声だった。


 低い、掠れた、あの、無口な父の声だった。


 はっとして、父の顔を見た。


 父の口は、動いていなかった。


 眠ったままだった。


 声は、どこからも、していなかった。


 それなのに、わたしの耳の奥に、たしかに、父の声で、落ちた。


 もう、いいよ、と。


 人が死ぬのは、病気のせいだと思っていた。


 ちがった。


 誰かが、心のいちばん奥で、たった一度、もういい、と願って、その願いを、最後まで、取り消さないでいること。


 それだけで、点滴は、最後の一滴まで、落ちきってしまう。


 父を看取るというのは、父の最期を見届けることではなかった。


 この一滴を、落とさないで、いることだった。


 そして、わたしの心が、いま、その一滴を、選ぼうとしていた。


 わたしは、膝の上のものを握りしめて、立ち上がった。


 慈恩さんに言われたとおり、掛け金をそっと外し、夜の窓を、音もなく、細く、一つだけ開けた。


 冷たい外気が、ひとすじ、部屋の淀みを押し出すように、流れた。


 それから、粗塩を掌に少しあけた。


 水では溶かすな、自分の汗で溶かせ、と慈恩さんは言っていた。


 掌を握り、汗ばんだ首すじに押しあて、塩が湿るまで待った。


 その塩を指につけて、古いスタンドの錆びた支柱の縁を、根もとから上へ、一周、撫でた。


 ざらり、と、指の腹に、錆と塩が絡んだ。


 冷たい鉄の下に、無数の細かなものが、ひしめいている気がした。


 撫で終えると、支柱が、ほんの少し、鳴りをひそめたように感じた。


 最後に、無地のカードに、鉛筆で、自分の言葉を、一言だけ書いた。


 書いて、父の枕もとに、置いた。


 そして、父の耳もとに口を寄せて、これまで一度も言えなかった一言を、声に出した。


 母が逝ってから、わたしと父のあいだには、訳す人のいない沈黙だけがあった。


 その一言を、父の枯れた手を両手で包んで、声にした。


 掠れて、みっともない声だったと思う。


 それでも、たしかに、声になった。


 声にした瞬間、滴の音が、崩れた。


 そろっていた間隔が、乱れた。


 ぴちゃ、と、ひとつ落ちて、少し置いて、ぽたり、と、また落ちた。


 不揃いな、気まぐれな、生きた滴の音に、戻っていた。


 滴下筒の水面は、もう、下がらなかった。


 父の呼吸が、深く、静かに、なった。


 足もとの冷たさが、いつのまにか、退いていた。


 その晩、最後の一滴は、落ちなかった。


 父は、穏やかに、眠った。


 翌る日の昼、慈恩さんは、ロビーで缶コーヒーを二本買い、一本をわたしにくれた。


「あのスタンドは、抜けません」


 慈恩さんは、あっさりと言った。


「療養所からの備品です。撤去なんて、この病院はしません。明日には、拭かれて、また別のベッドへ回されます」


 わたしが黙っていると、慈恩さんは、古い腕時計の竜頭を指でなぞりながら、続けた。


「ぼくに抜けるのは、あのスタンドじゃありません。あなたの、心の一本だけです。それは、ゆうべ、あなたが自分で抜いた。ぼくは、塩の使い方を教えただけですよ」


 それから、ポケット灰皿を上着の内側でかちりと鳴らして、腰を上げた。


 去りぎわに、思い出したように、振り返った。


「その塩、余ったら、漬物にでも使ってください。安物ですが、よく効きます」


 食えない人だと思った。


 わたしは、少しだけ、笑えた。


 ずいぶん、久しぶりに。


 けれど、話は、それで終わらなかった。


 数日して、そうたが熱を出した。


 延長保育も義母の家も頼れず、パートは休めなかった。


 夫は、九州から帰ってこない。


 父は、生きていた。


 日に何度か目を開けて、よしこか、と口を動かし、また眠った。


 看取りは、終わっていなかった。


 ただ、続いていた。


 終わりの見えないまま、毎晩、病室と家と職場を、わたしは削れながら往復していた。


 眠れない、ある夜だった。


 父の浅い呼吸を、暗がりで聞きながら、疲れきった頭の、いちばん底で、わたしは、また——。


 ——もう、いい。


 思った瞬間だった。


 消灯を過ぎた四〇二号室で、静かに、不揃いに落ちていた滴が、ふ、と、間を、詰めた。


 ぴちゃ、ぴちゃ、と、また、そろいはじめた。


 わたしは、今夜も、父の点滴を、数えている。


 速いか、遅いか。


 崩れているか、そろっているか。


 慈恩さんは、心の一本を抜いた、と言った。


 抜いたはずだった。


 それでも、間は、また、詰まる。


 いちばん怖いのは、もう、滴が速くなることではない。


 それを速めているのが、わたし自身の心だと、もう、知ってしまっていることだ。


お読みいただき、ありがとうございました。

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