動くタイムカード前編 定時の音
定時の六時、誰も触れていないのに、
定時の音は、この会社では、二度鳴る。
一度目は、六時の五分前。
河合課長が席を立ち、カードラックの前で、残っている者のぶんまで一枚ずつタイムレコーダーへ通していく。
ガチャン、ガチャン、と。
押し終えると、課長は倉庫棟へ出ていき、事務の島に残った者は、何事もなかったように仕事をつづける。
それが、この会社の毎日の景色だ。
二度目は、六時ちょうど。
誰も、押していないのに。
その音にはっきり気づいたのは、半月前だった。
その晩は、めずらしく私ひとりだった。
もう一人の事務員は早退し、運転手たちはまだ戻らない。
課長の足音が倉庫のほうへ消えて、時計の長針が真上を指した瞬間、背中で、タイムレコーダーがもう一度鳴った。
振り向いても、誰もいない。
押すべきカードは、もう全部押されている。
ラックへ寄ると、右端の隅に差しっぱなしの古い一枚が、わずかに沈んで見えた。
名前の欄に、色あせた字で「木内 昭一」とある。
五年前に、この机で死んだ人だった。
城北運送は、社員四十人ほどの中堅の運送会社だ。
私はそこで配車事務をしている。
二十九歳、北陸の出で、ここが初めての就職先だった。
朝礼では毎朝「定時退社を徹底」と言われ、定時に帰る者はひとりもいない。
残業は、つけない。
つける空気が、この会社にはなかった。
私は三年前、倒れた木内さんの後任として来た。
机も椅子も、カードラックの並びも、そのまま引き継いだ。
会ったことは、一度もない。
辞めたい、と思うようになって半年になる。
けれど、言い出せなかった。
北陸の親に顔向けができない。
次の当てもない。
それに、いつも河合課長が言うのだ。
「瀬川が抜けたら、この現場、誰が回すんだ」
その一言で、私はいつも口をつぐんだ。
口をつぐむたび、机の上の配車表が、一枚ずつ厚くなる気がした。
木内さんのカードは、おかしかった。
いちばん下、最後の日の退勤の枠。
そこだけが、黒く潰れている。
数字は、もう読めない。
同じ枠の上に、判が何度も何度も重なって、染みのようになっている。
指の腹でなぞると、重なったインクが、かすかな段になって盛り上がっていた。
五年ぶんの、厚みだった。
そして六時の音が鳴った翌朝には、その黒が、ほんの少しだけ濃くなっていた。
最初は、機械の誤作動だと思った。
古い型だ、そういうこともあるだろう、と。
次に、たちの悪い悪ふざけだと思った。
だから私は、見張ることにした。
その晩、河合課長は五時五十八分に事務所を出た。
私は時計と機械を、交互に見ていた。
六時。
誰も触れていない差込口へ、木内さんのカードが、ひとりでに沈んだ。
ガチャン。
怖くなって、私はカードをラックから抜き、机の引き出しへ入れた。
鍵もかけた。
翌日の六時、ガチャン。
カードは、ラックの右端に戻っていた。
引き出しの鍵は、かかったままだった。
私はその朝、誰にも言わなかった。
言えば、この会社でいちばんおかしいのが、自分になる気がした。
事務の島では、いつもどおり電話が鳴り、ファクスが伝票を吐き出していた。
その紙を寄越したのは、取引先の運転手だった。
六十を過ぎた古株で、荷の受け渡しのたびに、私の顔色を気にかけてくれていた。
ある晩、青い顔で残業する私を見て、ぽつりと言った。
昔、妙なことで妙な男に助けられた、と。
二つ折りの紙には、神宝町の番地だけが鉛筆で書いてあった。
神宝町のはずれの、看板もない一階の事務所だった。
すりガラスの引き戸を開けると、煙草のにおいと、湯を沸かす音がこもっていた。
机の向こうに、痩せた男が座っていた。
よれたアロハシャツ。
糸のように細い目。
かたわらに、金属の小さなポケット灰皿。
切羽詰まって早口になる私の前で、男は、湯呑みの底の茶渋を面倒くさそうに眺めていた。
「拝み屋の慈恩です」
と、男は言った。
勧められた丸椅子は、片脚が少し短かった。
慈恩さんは、自分の茶はそのままに、私の湯呑みにだけ新しい茶を注いだ。
私は、順を追って話した。
カードは、持ってこなかった。
持ち出す度胸も、もう一度触る気も、なかった。
「なるほど」
慈恩さんは、湯呑みを置いた。
「……会社、サービス残業してるでしょう」
図星だった。
なぜ分かるのか、と訊く前に、慈恩さんはつづけた。
「課長が押したあとに、もう一度だけ鳴るんですね」
「はい」
「それで、二度目に動くのは、死んだ人のカードだけ」
慈恩さんは、煙草をくわえて、火はつけずに言った。
「会社が人のカードを押す。よくある話です。……よくある話に、しちゃいけないんですけどね」
それから、細い目のまま、指を一本立てた。
「なら、一枚だけ勘定が合わない。課長が押すのは、生きてる部下のカードだけです。辞めた人間の勤怠をごまかしたって、会社は一円も得しない。死んだ木内さんのカードを押す理由が、課長には、どこにもない」
慈恩さんは、古い腕時計へ目を落とした。
「そのカード、いつから動いてます」
「半月前からです」
「あなたが気づいたのが、でしょう」
私は、答えられなかった。
「最初に聞いた人を、探してください」
翌朝、私は総務のパートの戸田さんをつかまえた。
五十を過ぎた、木内さんの生前を知る、ただ一人の人だ。
戸田さんは、茶筒を持ったまま、給湯室の戸を半分閉めた。
「五年前からよ。誰も、話したがらなかっただけ」
それから、声をもう一段低くした。
「みんな、聞こえてるのよ。聞こえてないふりが、うまくなっただけ」
河合課長が定時のカードを押しはじめたのは、三年前、課長になってからだ。
あの打刻は、五年前からつづいている。
昼休み、会社の裏の公衆電話から慈恩さんへ伝えた。
テレホンカードの度数が、一つ減った。
受話器の向こうで、短い間があった。
「会社の嘘より、その一枚のほうが、古い」
その夜も、六時ちょうどに、音は鳴った。
私はまだ、帰れずにいた。
「会社の嘘より、その一枚のほうが、古い」




