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神宝町怪異相談 ~働く人専門の拝み屋は、怪異の奥にある事情を読む~  作者: KASANE
動くタイムカード〔前後編〕

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後編 帰りたかった人

月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。


 翌日の夕方、慈恩さんは城北運送の事務所へ来た。


 定時の、少し前だった。


 来てくれるとは、思っていなかった。


 昨日の慈恩さんは、椅子から立つことさえ面倒そうに見えたからだ。


 今日も面倒そうではあった。


 ただ、足だけは、まっすぐこちらへ向いていた。


 残っていた事務員が二人、アロハシャツの拝み屋を見て、目を合わさずに帰り支度をはじめた。


 彼は気にするふうもなく部屋をぐるりと見て、いちばん奥の窓を、音も立てずに一つ開けた。


 閉め切って淀んでいた空気が、細く流れ出していく。


 外は、五月の宵だった。


 生ぬるい風が、配車表の端をかすかにめくって、また戻した。


 それから慈恩さんは、ラックの隅から木内さんのカードを抜いた。


 初めて現物を見る目で、天井の蛍光灯にかざす。


 厚紙は角がやわらかく丸まり、油じみて黒ずんでいた。


 いちばん下、最後の日の欄。


 出勤の判は、朝いちばんの時刻にきちんと押されている。


 退勤の枠は、判が重なりすぎて、黒い染みになっていた。


 染みの縁だけ、青いインクが紙の目に沿って、細くにじんでいた。


「ここ、元は空白です」


 と、慈恩さんは言った。


「新しい欄に押してるんじゃない。この枠ひとつに、同じ時刻を、五年間重ねてる」


 戸田さんが、湯呑みを両手で包んで、低い声で話した。


 木内さんはね、深夜に、この事務所で倒れたのよ。


 朝、私が来たら、机に突っ伏していた。


 救急車が着く前に、もう。


 だから、あの日の退勤は押せなかったの。


 このカード、どうしても捨てられなくてね。


 慈恩さんの糸のような目が、すっと開いた。


 奥の目が、私の椅子の後ろを、ゆっくりと追った。


 誰かが、立ち上がる。


 カードを取る。


 機械へ向かう。


 けれど、そこから先へは、行けない。


 私には何も見えない。


 ただ、慈恩さんの視線の動きだけが、それを教えた。


「五年間、ここまでです」


 慈恩さんは、開けたままの窓を見た。


「この人、会社の外へ出られてない」


 背筋が、冷えた。


「毎晩、定時に、自分の退勤を押してる。自分は帰れなかったから、せめてあなたを、と」


 慈恩さんは、私を見た。


「あの音は、脅しじゃない。『帰れ』です」


 湿った黒い声を想像していた私に、彼は首を振ってみせた。


「悪いものじゃないですよ。むしろ、いちばん優しいやつが、いちばん帰れなかった」


 戸田さんが、思い出したように言った。


 倒れた日の朝、木内さんは「今日は、娘と夕飯を食べる」と言って家を出たのだそうだ。


 結局その日も、事務所でいちばん遅くまで残った。


 戸田さんは、それきり湯呑みへ目を落として、何も言わなかった。


 慈恩さんは、何もない空間をしばらく見ていた。


 赤くはない、と小さくつぶやく。


 悪意の赤ではない。


 かといって、澄んだ青でもない。


 帰りたい未練の混じった、濁った青だ、と。


「祓う相手じゃない」


 慈恩さんは言った。


「祓ったら、この人、二度と帰れなくなる」


 それから慈恩さんは、タイムレコーダーの上の丸時計をのぞきこんだ。


 針は、少しだけ遅れていた。


 竜頭をつまんで、正しい時刻へ合わせる。


 塩も、札も、出さなかった。


 それだけの所作だった。


「この人の時間を、先へ進めるのは、ぼくじゃない」


 慈恩さんは、木内さんのカードを、私の手に置いた。


「あなたが、先に帰ってください」


 六時の五分前、河合課長が事務所へ入ってきた。


 いつものように、ラックの前に立つ。


 その手が、私の一枚へ伸びた。


「瀬川、カードはこっちで押す」


 私は、自分のカードを、先に抜いていた。


 渡さなかった。


「今日は、自分で押します」


 初めて言った言葉だった。


 自分の声が、思ったより大きく響いて、自分で驚いた。


 課長は何か言いかけて、やめた。


 拝み屋と、総務の古参と、目を伏せない私を順に見て、黙って残りのカードを押していった。


 ガチャン、ガチャン、と。


 いつもの音が、いつもより遠くに聞こえた。


 時計の長針が、真上へ重なる。


 六時。


 私は、自分のカードを、自分の手で機械に差しこんだ。


 ガチャン、と、私のカードが鳴った。


 それから、手の中の古い一枚に向かって、掠れた声で言った。


「お先に、失礼します。……帰ります」


 二つ目の音は、鳴らなかった。


 六時を一秒過ぎ、二秒過ぎても、機械は静かなままだった。


 慈恩さんだけが、私の椅子のあたりを見て、ほんの少し目もとをゆるめた。


 肩の荷を下ろすように、ほどけていきますよ、と彼は言った。


 満足とは、違う。


 やっと、というような静けさだった。


 開けたままの窓から風が入って、配車表の端をもう一度めくった。


 今度は、戻らなかった。


 翌日、私は駅前の書店で求人誌を買った。


 半年も辞めたいと思っていたのに、一度も開かなかった冊子だった。


 鞄の底で、角が折れた。


 ひと月あと、次の勤め先が決まってから、辞表を出した。


 河合課長は、いつもの顔で、いつもの一言を言った。


「お前が抜けたら現場が止まる」


 止まらない、と私は思った。


 木内さんが抜けても、この会社は止まらなかった。


 ただ、次の誰かが、同じ机に座っただけだ。


 木内さんのカードは、あの夜から、二度とラックに戻らなかった。


 戸田さんが、その日のうちに木内さんの家へ電話をかけてくれて、ご家族へ返すことになった。


 最後の日、私は空になった自分の差込口の裏に、小さな紙を挟んだ。


 紙には、こう書いた。


 「六時になったら、帰ってください。あなたがいなくても、会社は止まりません」。


 鉛筆で、二度なぞって濃くした。


 帰り道、菓子折りを一つ提げて、神宝町へ寄った。


 慈恩さんは、湯呑みを片手に、糸目のままそれを見た。


「辞めるのに、菓子折り持ってくる人、はじめて見ました」


 私は、少しだけ笑った。


 ずいぶん、久しぶりに。


 引き戸を閉めるまで、湯を沸かす音が、背中を追いかけてきた。


 私の抜けた席には、じき、新しいカードが差されるだろう。


 城北運送の定時は、これからも、六時ちょうどだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


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