第10話「神の花嫁」
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菊が、咲いた。
寺の庭の、隅のほうに。
夏の初めに坂を下ろされてから、ユイは、幾月も、その庭を眺めて過ごしていた。
秋が来て、朝晩が冷え、垣根の下に、白い菊が、ひらいた。
その朝、如水が訪ねると、ユイは、縁側に座り、菊を、じっと見ていた。
いつもの、虚ろな横顔では、なかった。
何かを、思い出しかけている、張りつめた顔だった。
「……菊の、咲くころ、だった」
ユイが、呟いた。
声が、震えていた。
「あの夜も。……菊が、咲いていた」
そして、堰を切ったように、語りはじめた。
もう、切れ切れの、うわ言では、なかった。
ひとつづきの、景色だった。
——山の、奥。
今はもう、無い、村。
夜。
かがり火。
垂れた、白い布。
布の前に、並ばされた、村の者たち。
幼い自分は、母の袖を握って、その列の、いちばん後ろに、いた。
大人たちが、声を合わせて、何かを、唱えていた。
低い、うねる声で、繰り返し、繰り返し。
——数える者によって、並ぶ人の数が、合わなかった。
やがて、前の者から、順に、火のほうへ、連れられていった。
連れられた者は、二度と、列に、戻らなかった。
母が、自分の手を、そっと、ほどいた。
行っておいで、と。
神様が、お前を、選んでくださるかもしれない、と。
母の手の、温もりだけが、掌に、残った。
そこで、ユイの記憶は、断ち切れていた。
気づけば、独りで、谷を、下っていた。
村も、火も、母も、消えていた。
自分が、誰なのかも。
——だが、この女は。
如水は、ユイの顔を、見つめた。
谷の奥の集落が消えたのは、府警の古い綴りでは、何十年も前だ。
目の前のユイは、その夜、母の袖を握る、童だったという。
ならば、この女は、いったい、幾つなのだ。
マリアと、同じだった。
齢が、読めなかった。
如水は、その問いを、いったん、脇へ置いた。
今は、繋げることのほうが、先だった。
ユイの語る、あの夜。
かがり火。
白い布。
合わない数。
——それは、春先から府警へ持ち込まれた、あの、食い違う相談の、一つ一つと、寸分たがわず、重なった。
夜中に、白い衣の花嫁を見た、と怯えた男。
——それは、布の前に立っていた、あの夜の、花嫁だ。
娘が戻らぬ、と泣いた父。
——それは、火のほうへ連れられて、列に戻らなかった、誰かだ。
神に、連れていかれる、と震えた女。
——それは、順に送られていった、あの、うねる声の中の、記憶だ。
みなが、少しずつ違うことを言い、決して噛み合わなかった、あの証言。
それを、ユイの記憶に、一枚ずつ、当ててみる。
——嵌まった。
バラバラだった断片が、ユイの夜を芯にして、一つの絵に、なった。
如水の、指先が、冷えた。
相談は、デタラメでは、なかった。
一人ひとりが、あの、谷の夜の、別々のかけらを、抱かされていたのだ。
誰かが、あの古い神隠しの景色を、知っていて。
それを、切り分けて、里の者たちの頭の中へ、植えた。
撹乱の、ために。
——そして、その景色の、真ん中で。
大人たちが、うねる声で、唱えていた、祈り。
ユイの唇が、それを、なぞった。
「……神は花嫁を選ぶ」
あの一行は。
初めから、この、谷の底で、唱えられていた、祈りだったのだ。
如水は、拳を、握った。
神秘が、初めて、犯罪の輪郭を、持った。
誰かが、過去を知り、過去を隠し、過去のかけらで、いまを、かき回している。
人の、手だ。
辿れる。
挙げられる。
——ただ、一つ。
あの祈りを、谷の大人たちは、いったい、誰から、聞いたのか。
そこだけは、ユイの記憶にも、無かった。
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