第9話「神の花嫁」
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女の名は、ユイ、といった。
上の家の門で、初めに如水を迎えた、あの女だった。
声の、ほとんど聞こえなかった、静かな女。
家宅捜索を前に、里へ下りてきた——正しくは、下ろされてきた。
信者の一人が、坂の途中で、裸足のまま、うずくまっているのを見つけたのだ。
白い衣のまま、自分が誰かも、いつから上の家にいたのかも、思い出せずにいた。
記憶が、根こそぎ、抜けていた。
生まれた土地も、親の顔も、坂を登った日も。
ただ、名だけを、辛うじて覚えていた。
ユイ、と。
それすら、本当に自分の名なのか、自信がなさそうだった。
あの門で、幾度すれ違っても、寸分たがわぬ角度で、同じお辞儀を繰り返していた女。
あの、貼りついたような微笑みの下に、こんな空洞が隠れていたのか。
如水は、ユイの虚ろな横顔を見るたび、上の家に置いてきた同僚たちの、あの、焦点の合わぬ目を、思い出した。
連れ帰れたのは、この女、ひとりきりだった。
如水は、彼女を里の寺に預け、幾度も、話を聞きにいった。
偽記憶を植えられた口だ、と、初めは思った。
植えられた嘘を、ほどいていけばいい、と。
だが、ユイの口から漏れるのは、嘘というより——景色だった。
「白い布が……垂れていて。その前に、火が。……人が、並んでるの。数えると、いつも、合わないの」
うわ言のように、ユイは、それを繰り返した。
祭壇。
火。
垂れる白い布。
並ぶ人影。
合わない数。
そして、季節。
「あれは、菊の、咲くころ」。
脈絡のない、切れ切れの、景色。
妄想だ、と如水は思った。
あるいは、これも、植えられた偽りの一つだろう、と。
そう、片づけようとした。
だが、その景色は、今の上の家の、どこにも、無かった。
白い布も、火の祭壇も、あの家には無い。
如水は、あの無音の家を、隅々まで歩いたのだ。
ユイの語る景色は、あそこの、ものではなかった。
もっと、古い。
もっと、別の、どこか。
——如水は、府警の、埃をかぶった、古い綴りに、手を伸ばした。
何十年も前の、迷宮入りの記録の中に、それは、あった。
この谷の、さらに奥。
今はもう、無い集落。
そこで、秋——菊の咲くころに、幾人もの村人が、いちどきに、姿を消した。
神隠し、と、当時の帳面には、記されていた。
祭壇。
火。
垂れた白い布。
そして、消えた人数が、数える者によって、食い違ったと。
捜査は、手掛かりのないまま、閉じられていた。
ユイの景色は、妄想では、なかった。
どこかで、たしかに、起きたことだった。
相談者たちの、食い違う訴えも——もしや、デタラメではなく、この、古い出来事の、断片だったのではないか。
如水の中で、「撹乱」という言葉が、わずかに、ぐらついた。
消えた人数が、数える者によって、食い違う。
——如水は、あの日を、思い出していた。
上の家で、娘を数えるたび、二人になり、三人になった、あの、底の抜けた感覚を。
今の相談も、同じだった。
行方不明は三人、名簿は二人。
集めるほど、数が、合わなくなる。
何十年もの時を隔てて、同じ谷で、そっくり同じことが、繰り返されている。
人が消え、数が揺らぎ、誰も、正しい人数を、言えない。
——偶然に、しては、あまりに。
如水の背を、また、冷たいものが、なぞった。
ただ、一つ、ひっかかった。
この女に、谷の奥の、その集落と、縁があるとは、思えなかった。
生まれる、はるか前の話だ。
それなのに、ユイは、まるで、その場に立っていたかのように、語る。
垂れた布の、皺の一本まで。
寺の縁側で、ユイは、暮れていく谷を、ぼんやりと、眺めていた。
そして、誰にともなく、そっと、呟いた。
「……神は花嫁を選ぶ」
その一行だけは。
壊れた記憶の中で、ただ一つ、欠けても、揺らいでも、いなかった。
記憶を根こそぎ失った女が、たった一行だけ、忘れずにいる。




