第5話「神の花嫁」
ここまでは、潜入の話。
露見は、あっけなかった。
夜、帳面をもとの場所へ戻しに、あるじの部屋へ忍んだときだった。
襖を開けると、暗がりに、マリアが座っていた。
まるで、待っていた、というふうに。
如水は、動けなかった。
逃げ道を探すより先に、女が、静かに口を開いた。
「府警の方でしょう」
咎める色は、なかった。
怒りも、恐れも。
ただ、事実を確かめるだけの、水のような声だった。
如水は、答えなかった。
答える必要も、なかった。
女の目は、初めから、何もかも、知っていた。
「三人目の刑事さんも、そこに座っておいででした。あなたと、そっくり同じ顔で」
三人目。
戻らなかった、あの男。
如水の背を、冷たいものが伝った。
ここで、消されるのか。
そう身構えた如水に、マリアは、ただ、微笑んだ。
笑うと、目が、消えた。
「お引き止めは、しません。神は、選んだ方だけを、お留めになる。あなたは——選ばれなかった」
門は、開いていた。
最初から、鍵などかかっていなかったのだと、如水は今さらのように思い出した。
閉じ込められていたのではない。
出ようとする理由のほうを、この家が、少しずつ、溶かしていただけだった。
坂を下りながら、如水は、幾度も振り返った。
上の家は、杉の梢の上で、白く、静かに、里を見下ろしていた。
何も、追ってはこなかった。
府警に戻ると、如水は、堰を切ったように喋った。
洗脳。
監禁。
戻らぬ娘たち。
数の合わぬ名簿。
上司は、渋い顔をした。
物証がない。
奇跡だの、消える娘だのは、調書には書けん。
だが、警官が一人戻らぬ以上、放ってはおけなかった。
潜入は、そこで打ち切られた。
次は、表から行く。
令状を取り、家宅を検め、人を挙げる。
オカルトとしてではなく、事件として。
「これは、事件だ」
如水は、自分に言い聞かせるように、言った。
「神じゃない。人の仕業だ。人の仕業なら、証拠が残る。証拠が残るなら、必ず、挙げられる」
久しぶりに、地に足がついた心地がした。
無音の家を出て、電話の鳴る、雑然とした、人くさい世界へ、戻ってきたのだ。
ここでなら、戦える。
奇跡は、犯罪に翻訳できる。
花嫁は、ただの女に、引きずり下ろせる。
頭の中で、如水は、種を並べ直した。
臥せった老婆は、初めから歩けたのだ。
火事は、乾いた季節の、確率にすぎない。
無音は、躾だろう。
喋るな、音を立てるな、と刷り込めばいい。
数の食い違いは、人を入れ替えて見せる、手妻の類だ。
帳面に始まりが無いのは、古い頁を、抜いたか、燃やしたからだ。
——一つずつ、そう翻訳していけばいい。
まだ解けない結び目も、いずれ、ほどける。
ほどけない結び目など、この世に、無いのだから。
ただ一つ。
あの一行だけが、どうしても、種に落ちなかった。
誰が、最初に言ったのか。
それだけは、どう頭をひねっても、人の手の跡に、還らない。
如水は、その引っかかりを、頭の隅へ押しやった。
あとで、いい。
まずは、挙げられるところから、挙げる。
如水は、机に向かい、潜入のあらましを、報告書に書き起こしていった。
一枚、また一枚。
乾いた文体で、見たままを記す。
無音のこと。
数の食い違い。
帳面のこと。
ペンが、滑らかに走った。
最後の行を締めくくろうとして——如水は、ふと、自分の手元に、目を落とした。
調書の末尾に、几帳面な、自分の字で、こう、書かれていた。
《神は花嫁を選ぶ。》
書いた覚えは、なかった。
戻ってきたはずの三人が、取調室で、同じことをした。
里を出て、幾日も経ってから、指が、勝手に、あの一行をなぞった。
——如水は、ペンを、握りしめた。
世界は、まだ、人の側にある。
そう言い聞かせたそばから、言葉のほうが、先に、ついてきていた。
坂を、下りきってなど、いなかった。
ここからは、捜査の話です。




