第2話「神の花嫁」
物音のしない家ほど、こわいものはありません。
入った瞬間、如水は、何かを、失うことになる。
まだ、それが何かは、分からなかった。
坂を登りきると、門があった。
白い木の門で、鍵はかかっていなかった。
身なりを崩し、信者を装ってきた如水が名を告げると、若い女がひとり出てきて、静かに頭を下げた。
どうぞ、と唇が動いた。
声は、ほとんど聞こえなかった。
中へ入って、如水はまず、それに気づいた。
——静かすぎる。
人はいた。
廊下の先にも、庭にも、白い衣の信者が幾人も動いている。
掃除をし、洗い物をし、すれ違い、会釈を交わす。
それなのに、音がしない。
足音も、水の音も、話し声も。
布のこすれる音さえ、どこか遠い。
人が二十人からいる家で、耳に届くのは、自分の心臓の音だけだった。
広間では、十数人が長机を囲み、静かに箸を動かしていた。
白い粥のようなものを、みなが同じ速さで口へ運ぶ。
だが、咀嚼の音も、器の触れ合う音もしない。
誰も喋らない。
誰も、こちらを見ない。
ただ、同じ動作が、そろって繰り返されるだけだった。
如水は、生まれて初めて、人の集まる場所で、耳鳴りを聞いた。
音が無さすぎて、耳のほうが、勝手に音を作ろうとしていた。
案内された廊下は、長かった。
両側に同じ格子戸が等間隔に並び、同じ木目の床が続く。
歩いても、歩いても、景色が変わらない。
角を曲がる。
また、同じ廊下。
もう一度曲がる。
やはり、同じだ。
窓の外の杉の位置だけが、さっきと寸分たがわず——同じだった。
前から、白い衣の女が歩いてきた。
門で自分を迎えた、あの若い女だった。
すれ違いざま、静かに頭を下げる。
どうぞ、と唇が動く。
声は、聞こえない。
——さっきと、寸分たがわぬ、同じお辞儀だった。
如水は思わず振り返ったが、廊下の先に、もう女の姿はなかった。
如水は足を止めた。
刑事の癖で、まず異変を探した。
人の手の跡を。
作為を。
金の匂いを。
壊れて戻った同僚たちが、ここで何を見たのかを。
異変を、一つでも見つけられれば、いい。
ほつれを一本、掴めればいい。
そうすれば、この家は“ただの犯罪”に落ちる。
神も、奇跡も剥がれ、如水の知っている世界に戻る。
逆に、何も見つけられなければ——引き返す理由が、無くなる。
そのまま、奥へ進むしかなくなる。
三人の同僚が、そうしたように。
だが、何もなかった。
埃ひとつない。
歪みひとつない。
仏壇も、神棚も、貼り紙の一枚もない。
ただ白く、ただ整い、ただ、静まりかえっている。
作為が、無い——それが、如水の背に、冷たいものを這わせた。
人の暮らすところには、必ず綻びがある。
生活の音が、匂いが、汚れがある。
それが、ここには、無い。
無いということが、この家の、たった一つの異変だった。
すれ違う信者が、みな、同じ角度で微笑んだ。
目だけが、笑っていない。
誰も如水を見ない。
と思うと、次の角では、全員が同時に、こちらを見た。
その静けさの底から、ふいに、声が湧いた。
どこから、とは分からない。
廊下の奥からとも、自分の内側からとも、つかなかった。
《神は花嫁を選ぶ。》
気づけば、如水の唇が、それを、なぞりかけていた。
喉の奥で、慌てて呑み込む。
背筋が凍った。
まだ、誰にも、何も、教わっていない。
それなのに、言葉のほうが、先に、口の中にいた。
あの三人も、こうだったのか。
この廊下を歩き、この静けさに浸され、いつのまにか、あの一行を、書いていたのか。
如水は、来た道を振り返った。
同じ廊下が、どこまでも続いていた。
出口が、どちらだったか——もう、思い出せなかった。
異変が『無いこと』こそが異変だと気づいたとき、如水はもう、出口を見失っていました。続きが気になったら、ブクマを一つ。
(☝ ՞ਊ ՞)☝キエエエエエ




