第1話「神の花嫁」
時は、平成元年、京都の北の外れ。神を信じない刑事が、信じるしかない一行に出会うまでの話です。
三人の刑事が、あの坂を登っていった。
二人は、壊れ……一人は——ついに、数にも入らなかった。
平成元年の夏だった。
京都の北の外れ、地図では山の緑に呑まれて名も見えないような集落に、その家はあった。
国鉄の駅から乗合バスに揺られて一時間、降りてからは舗装の切れた坂を歩いて登る。
電話も車もめったに通わぬ谷で、開発の波はまだ届いていない。
杉と檜に囲まれた斜面のいちばん上に、白い壁の建物がひとつ、里を見下ろすように建っていた。
里の者はそこを「上の家」と呼び、正式な名を、誰も口にしなかった。
口にしてはいけない、とでもいうように。
主は女だった。
信者たちは彼女をマリアと呼び、「神の花嫁」と崇めた。
齢のわからない、笑うと目の消える女だという。
手をかざせば病が引き、口を開けばそれが明日になった——坂を降りてきた者は、みなそう語った。
神は、花嫁を通してのみ、人にものを告げる。
だから、いつか自分も選ばれるかもしれない。
そう願って、里の者は田を捨て、家を捨て、なけなしの蓄えを抱えて坂を登っていった。
残された年寄りは、それを黙って見送るしかなかった。
府警は、とうに動いていた。
娘が上の家へ行ったきり戻らぬ、という訴えが続いた春先、若い刑事を一人、信者を装って送り込んだ。
だが、ひと月で戻ってきた男は、別人のようだった。
目の焦点が合わず、取り調べのあいだじゅう、穏やかに笑っていた。
あそこはいいところでした、と男は言った。
ただ、自分は選ばれなかっただけです、と。
何を問うても、それだけを繰り返す。
やがて男は辞表を置いて、里へ帰っていった。
次に送った者も、同じだった。
三人目は——戻らなかった。
洗脳、としか言いようがない。
だが、手口が掴めなかった。
薬物の反応はなく、監禁の跡もない。
ただ、上の家へ入った警官が、一人また一人と、静かに“あちら側”の顔になって出てくる。
捜査は宙に浮いた。
送り込める人員も、行くと言う者も、尽きた。
そうして、役割が回ってきた。
「オカルトを事件にはできん。だが、これ以上うちの人間を持っていかれるわけにもいかん。——如水、お前が行け」
気の進む話ではなかった。
如水は、戻ってきた刑事たちの供述書に目を通した。
神など信じない。
奇跡も、祟りも。
人が変わるなら、変えた人間がいるだけだ。
刑事になって十年、如水が現場で学んだのはただ一つ、どんなに奇妙に見える出来事の裏にも、必ず人の手の跡が残っているということだった。
裏さえ剥がせば、化けの皮は、いつも下から落ちる。
そう思いながら頁をめくって、ふと、手が止まった。
筆跡も、言葉づかいも、まるで違う。
壊れて戻った三人と、娘が戻らぬと訴える父、夜中に鍵をかけた部屋でマリアを見たと怯える男——年も、立場も、会ったことすらないはずの者たちだった。
それなのに、全員が、同じ一行を書き添えていた。
《神は花嫁を選ぶ。》
一字の狂いもなく、句読点の位置まで、寸分たがわず。
潜入したはずの警官までもが、いつのまにか、それを書いていた。
上の家で刷り込まれたのなら、まだ話はわかる。
だが、供述書を綴ったのは取調室だ。
里を出て、幾日も経ってからだった。
それでも指は、勝手にあの一行をなぞる。
まるで、いちど耳にした者の裡に、言葉のほうが棲みついてしまうかのように。
如水は、束ねられた紙をもう一度、最初から繰った。
この言葉を、誰が最初に口にしたのか。
どの供述書にも、それを「誰から聞いたか」だけが、抜け落ちている。
まるで、そこだけ最初から無かったかのように。
「……誰から聞いた?」
窓の外で、蝉の声が、一斉にやんだ。
答えられる者は、どこにもいなかった。
これは『燃えカスの守り人』の、ずっと昔の外伝。よろしければ、同じ世界の他の話も。……あなたは、あの一行を、誰から聞きましたか。
(´・ω・`)




