第4話 帰る人
慈恩さんは、除霊をしません。
結界も張りません。
最後の一歩の、そのまた手前の話です。
最終話です。
何とかならないんですか、と私は訊いた。
祓ってくれ、とは、もう言わなかった。
祓うものがいないことは、分かっていた。
慈恩さんは、湯呑みを両手で包んで、しばらく黙っていた。
それから、順番に話してくれた。
境界は、祓えません。
あれは悪いものじゃなくて、ただの場所です。
台風の進路に、お祓いが効かないのと同じです。
それから、並んでる人たちを、昼の側で捕まえて「あなた死にたいんでしょう」と言うのも、だめです。
本人は覚えてないんだから、怯えるだけです。
下手をすれば、その怯えが、列の背中を押します。
——じゃあ、どうにもならないんですか、と私は言った。
慈恩さんは、糸目のまま、少しだけ笑った。
ひとつだけ、あります。
あの列に並ぶ資格は、「死にたいと思ったこと」じゃないんです。
「誰にも言っていないこと」です。
心の回線が、一本も、外に繋がっていないこと。
だから——一本でも繋がれば、資格が切れます。
太い線じゃなくていい。
打ち明け話じゃなくていい。
ほんの、糸くずみたいな一本でいいんです。
その晩、慈恩さんは、また遮断機の内側へ入った。
先頭の彼女の横に立って、こちらからは聞こえないくらいの声で、何か言った。
あとで教えてもらった言葉は、拍子抜けするほど、短かった。
「今日だけ、誰かに、『おはよう』って言ってください。
」
それだけだった。
除霊の文句でも、命乞いでもない。
彼女の魂は、返事をしなかった。
まばたきひとつ、しなかった。
聞こえたのかどうかも、分からなかった。
慈恩さんは、それ以上何も言わずに、列を出た。
魂は覚えていません、と帰り道に慈恩さんは言った。
でも、体のどこかには、残るんです。
理由の分からない忘れ物みたいに。
翌朝、わたしは夜勤明けで、駅前のコンビニに寄った。
レジに並んでいて、自動ドアの音に振り向くと、あの子が入ってきた。
七時十二分の、経理の子だ。
目の下に隈があって、うつむいて、雑誌の棚の前を素通りして、おにぎりをひとつだけ持って、わたしの後ろに並んだ。
レジの店員は、アルバイトの、まだ若い男の子だった。
マニュアルどおりの、なんでもない声で、言った。
「おはようございます。
」
彼女は、財布を出しかけた手を、一瞬、止めた。
何かを思い出しかけて、思い出せない、というような間だった。
長い間ではない。
一秒か、二秒。
それから、小さな、掠れた、けれどたしかに声になった声で、言った。
「……おはようございます。
」
店員は、何も気づかず、袋におにぎりを入れた。
彼女も、何事もなかったように店を出て、駅へ歩いて行った。
それだけだった。
ほんとうに、それだけのことだった。
わたしは自分の缶コーヒーを持ったまま、しばらくレジの前から動けなかった。
その夜、踏切の列は、二十九人だった。
先頭に、彼女は、いなかった。
慈恩さんは、それから毎晩、通った。
列の端から順に、ひとりずつ、横に並んで、同じような短いことを囁いた。
今日だけ、ごみを出すとき隣の人に頭を下げてください。
今日だけ、電話に出てください。
今日だけ、湯呑みをふたつ出してください——。
減る夜もあった。
減らない夜もあった。
二十八。
二十七。
二十七。
二十五。
新月の晩が来て、警報機はひとりでに鳴ったが、レールは鳴らなかった。
列車は、来なかった。
先頭が、その朝、駅前のパン屋で「おはようございます」と言われて、頭を下げていたからだと思う。
その月、町では、誰も死ななかった。
半年ぶりのことだった。
でも、列は、ゼロにはならなかった。
どうしても糸の繋がらない魂が、残った。
慈恩さんの囁きが届かない、奥のほうの数人。
そして、新しく並ぶ者も、いた。
今夜も、この町のどこかで、誰かが、誰にも言わずに、一度だけ思う。
そのたびに、列は、一人ぶん、伸びる。
最後の夜、わたしは慈恩さんを、駅まで送って行った。
帰り道に、第四踏切がある。
警報機が鳴りはじめた。
カン……カン……カン……。
最終の一本前だ。
慈恩さんは、踏切の手前で足を止めて、振り返った。
糸目が、薄く開いた。
誰もいない、と慈恩さんは言った。
今夜は少ない。
……いや。
言い直したきり、慈恩さんは、黙った。
長い沈黙だった。
警報灯の赤が、慈恩さんの横顔を、点いては消え、点いては消え、照らしていた。
電車が通り過ぎ、遮断機が上がっても、慈恩さんはまだ、同じところを見ていた。
なんでもないです、行きましょう、とやがて慈恩さんは言って、それきり、その話をしなかった。
わたしがしつこく訊いたのは、後日、礼を持ってあのビルへ行ったときだ。
あの夜、何が視えたんですか。
慈恩さんは、湯呑みの中の茶柱をずいぶん長いこと眺めてから、観念したように、短く答えた。
一人、増えてました。
奥に。
知らない顔でした。
この町で三十六年駅員をやっているわたしが顔を知らない人間は、そう多くない。
それに、と慈恩さんは言った。
列の連中は、誰も、こっちを見ません。
線路の先しか見ない。
でも、そのひとりだけは——こっちを、見てました。
目が合って、口が、動いたそうだ。
声はなかった。
唇の形だけが、ゆっくり、こう動いた。
「次は、あなた。
」
誰に向けた「あなた」なのか、慈恩さんは言わなかった。
わたしも、それ以上は訊かなかった。
わたしは今も、神宝駅の夜勤に立っている。
最終列車の前照灯が第四踏切を撫でる一瞬、いまでも目を凝らして、数える。
今夜は何人か。
減ったか、増えたか。
見覚えのある顔が、ないか。
それから最後に、いちばん奥まで目を凝らして、確かめる。
その列の中に、自分の顔が、ないことを。
一度思っただけで、魂は毎晩、あそこへ通います。
本人も、家族も、知らないまま。
今夜、あなたの町の踏切には、何人並んでいるでしょうか。




