第2話 名前のない列
踏切に立つ人たちには、翌朝、その夜の記憶がありません。
そして、ひとつだけ共通点があります。
調べはじめて、最初に分かったのは、奇妙なことだった。
第四踏切には、事故が多かった時代の名残で、古い監視カメラが一台ついている。
鉄道会社の人間であるわたしは、記録を確かめることができた。
夜、詰所にひとり残って、テープを巻き戻した。
夜の映像に、彼らは、映っていた。
粒子の粗い白黒の画面の中、遮断機の内側に、ぼんやりと人の形が並んでいる。
数も、立ち位置も、わたしが数えたとおりだった。
見間違いでも、寝ぼけたのでもなかった。
機械が、彼らを記録していた。
早送りにして、もっと厭なことが分かった。
列は、動かないのだ。
二十三時から明け方まで、およそ五時間。
早送りの画面の中で、雲は流れ、猫は横切り、警報灯は点滅するのに、人の形だけが、彫像のように、一ミリも動かない。
まばたきの間も、体の揺れも、ない。
生きた人間は、五時間、ああは立てない。
そして午前四時十二分、コマとコマのあいだで、全員が、いなくなっていた。
消える瞬間は、映っていない。
機械の記録する二十四分の一秒の、そのすきまで、三十人が帰っていく。
テープを三度巻き戻して、わたしは詰所の電気を全部点けた。
顔の判る何人かは、昼の世界の、実在の人だった。
学生服の子は、毎朝六時五十分の上りに乗る、定期券の中学生だった。
買い物袋の主婦は、駅前のスーパーでよく見る人だった。
腰の曲がった老人は、金物屋の隠居だった。
全員、昼間は、ふつうに生きていた。
ふつうに歩き、ふつうに買い物をし、電車に乗って、改札でわたしに会釈さえした。
慈恩さんと二人で、主婦の家を訪ねた。
夜の映像を、プリントして持って行った。
玄関先で、その人は、写真を長いこと見つめた。
夜の踏切に立つ、自分の姿を。
それから、困ったように笑って、言った。
「これ……私じゃありません。
」
でも、服は、その人がいま着ているカーディガンだった。
左手首の細い時計も、同じだった。
顔も、どこからどう見ても、本人だった。
私じゃありません、とその人はもう一度言った。
だってわたし、夜の十一時には、もう布団に入っていますもの。
主人に訊いてくださっても——。
嘘をついている顔ではなかった。
ほんとうに、覚えていないのだ。
毎晩、自分が踏切に立っていることを。
この人の中には、その夜の記憶が、一秒もない。
同じことが、確かめられた全員に言えた。
中学生も、隠居も、映像の中の自分を「知らない人」のように眺めた。
体は、家で眠っている。
家族がそれを見ている。
それなのに、同じ時刻の踏切に、同じ顔が立っている。
「魂だけ、通ってるんです」と、慈恩さんは帰り道に言った。
「夜になると、体を置いて、あそこへ並びに行く。
朝には戻る。
だから覚えてない」
なぜ、と私は訊いた。
なぜ、あの人たちなのか。
主婦と、中学生と、隠居に、いったい何の共通点があるのか。
年齢も、暮らし向きも、ばらばらだ。
中学生は、部活を辞めたと聞いたが、成績のいい、おとなしい子だという。
隠居は店を息子に譲って、悠々自適のはずだった。
主婦は、笑顔の絶えない人だと近所で評判だった。
共通点など、どこにもないように見えた。
慈恩さんは、すぐには答えなかった。
数日かけて、慈恩さんは、確かめられる相手に、ひとりずつ、会いに行った。
祓うでも、脅かすでもない。
世間話をして、茶を飲んで、帰ってくる。
それだけの訪問だった。
ただ、辞去する間際に、必ずひとつだけ、同じことを訊いたそうだ。
——最近じゃなくて、いいんです。
生まれてから今日までで、一度でも。
誰にも言わずに、思ったことは、ありませんか。
最後に訪ねた主婦が、その質問に、玄関先で立ったまま、ぽろぽろ泣き出したのを、わたしは慈恩さんの後ろで見た。
誰にも言ったことがないんです、とその人は言った。
一度だけなんです。
ほんとうに、一度だけ。
去年の冬、夜中の台所で、洗い物をしながら、ふっと——。
死にたい、と。
口には、出していない。
夫にも、子どもにも、友だちにも、言っていない。
日記にも書いていない。
心の中で、一度だけ、思った。
次の朝には忘れたつもりだった。
生活は続いていた。
笑ってもいた。
ただ、それだけなんです、とその人は繰り返した。
それだけなのに、どうして——。
慈恩さんは、責めなかった。
慰めもしなかった。
ただ、分かりました、と言って、深く頭を下げた。
帰りの道々、わたしは、三十という数を考えていた。
この小さな町で、三十人。
スーパーですれ違う人。
改札に定期を見せる人。
回覧板を持ってくる人。
あの列に立つ資格が「一度だけ、誰にも言わずに思ったこと」なら——資格のある人間は、この町に、いったい何人いるのだろう。
三十人は、多いのか。
それとも、まだ、ほんの一部なのか。
わたしは、隣を歩く慈恩さんに、それを訊けなかった。
訊けば、答えが返ってくる気がしたからだ。
帰り道、慈恩さんは踏切の手前で足を止めた。
夕方で、警報機は黙っていた。
錆びた遮断機と、砂利と、二本のレールが、西日で赤かった。
全員、同じだそうだ。
確かめられた限り、全員。
人生のどこかで、一度だけ、心の中で「死にたい」と思った。
そして、誰にも言わなかった。
口に出した人、誰かに打ち明けた人、助けてと言えた人は——列に、いない。
慈恩さんは、レールの先を、糸目のまま長いこと眺めて、それから、ひとりごとのように言った。
「あぁ……ここ、駅じゃない。
」
どういう意味です、と訊いたわたしに、慈恩さんは、振り向かずに答えた。
「待合室ですね。
度だけ、心の中で思って、誰にも言わなかった。
資格は、それだけです。
何の待合室なのかは、第3話で。




