第4話 最後の雷
拝み屋は止めました。
最終話、エピローグまで。
慈恩さんは、『廻天』の使用を止めようとした。
承認手続きの窓口になった私の部屋へ来て、珍しく、長く話した。
「消すのは、勝手です。国には、それだけの道具があるんでしょう」
机の上には、分厚い承認書類が積まれていた。
「でも、雷獣を消しても、嘘は残ります。十三件の嘘も、これから生まれる嘘も、そっくり、そのまま」
「雷獣がいなければ、落雷は止まる」
「嘘は、消えません」
「施設が壊されるよりはいい」
「残った嘘は、いずれ腐ります。腐ったものには、また、別の何かが寄ってくる」
慈恩さんは、窓の外を見た。
神宝町の空には、灰色の雲が浮かんでいる。
「次に来るものが、人間を避けてくれるとは限りません。あの猫は、かなり行儀がいいほうですよ」
私は、承認書類へ視線を戻した。
「これは、国の決定です」
「その国って、誰です?」
「何を言っている」
「顔のないものは、決定できません。書類を作った人。印を押す人。最後に許可する人。決めてるのは、全部、人間でしょう」
私は、答えなかった。
「あなたがた、雷獣を消したあとで、十三件の落雷を、どう説明するんです?」
慈恩さんの指が、書類を一度叩いた。
「また、『経年劣化』ですか」
胸の奥に、三十年前のペン先が浮かんだ。
最初の一度だけ止まり、二度目から止まらなくなったペン。
「では、どうしろと言うんです」
「雷を止める方法は、討伐だけじゃありません」
「正直に話せと?」
「ぼくは、そう言ってません」
「同じことだ」
「なら、答えは分かってるでしょう」
慈恩さんは、無地のカードを一枚、机に置いた。
『雷を止める方法は、討伐のほかに、もう一つあります』
それだけ書かれていた。
「ぼくが言えるのは、ここまでです」
慈恩さんは帰った。
手続きは止まらなかった。
私の机には、各部署から承認印が集まってくる。
担当。
課長。
局長。
どの印も、決められた位置へ、きれいに押されていた。
役人の机とは、そういうものだ。
上から来た書類を受け取り、次へ送る。
三十年間、私は、そういう机だった。
私は、『廻天』の承認書を持ち上げた。
そのまま次の部署へ回せば、仕事は終わる。
雷獣が消える。
失敗した場合に、何が起きるかは分からない。
それでも、責任は手続き全体へ薄く広がる。
誰か一人の責任にはならない。
いつもの仕事だった。
私は、慈恩さんのカードを、承認書の上へ置いた。
それから、新しい添付資料を作り始めた。
落雷十三件。
秒単位の時刻。
その直前に行われた、十三の虚偽発表。
人的被害は、すべてゼロ。
雷獣には、こちらへの敵意がない。
武力は届かない。
結界は、数分の遅延のみ。
異能者による接触は不可能。
一つも丸めずに書いた。
『対象怪異は、公表された虚偽の発信源のみを選択している』
その一文を書いたところで、手が止まった。
これを上げれば、私が三十年間してきた仕事まで、問われるかもしれない。
退職。
処分。
記録の抹消。
家族へも、何らかの影響が出るかもしれない。
窓の外で、雷が鳴った。
私は、次の一文を書いた。
『十三件の落雷は、我々の隠蔽と無関係ではない』
課長へ提出すると、三か所の修正を命じられた。
『虚偽』を『説明不足』へ。
『隠蔽』を『情報共有の遅れ』へ。
『無関係ではない』を『因果関係は確認されていない』へ。
どれも、見慣れた言い換えだった。
「修正して、再提出しろ」
私は書類を受け取った。
席へ戻る。
赤字で示された三か所を見つめた。
三十年前の自分なら、すぐに直した。
「承知しました」と頭を下げて。
私は、三か所とも直さなかった。
同じ書類を、そのまま上へ回した。
誰にも気づかれない、書類のなかの抗命だった。
資料が総理の目まで届いたのか。
私の職位では、確かめようがない。
ただ、『廻天』の承認は、予定時刻を過ぎても下りなかった。
代わりに、翌日の夜、総理会見が入った。
金曜日。
午後八時。
私は、神宝町の丘にある指揮車で、会見を見た。
隣には、慈恩さんがいた。
頭上には、二週間動かなかった積乱雲。
測定器は、限界値に張りついている。
総理が、会見場へ入った。
用意された原稿を机へ置く。
発電所について。
ダムについて。
基地、新幹線、製油所、食品会社について。
事務方が作った文章を、順番に読み始めた。
『現在、事実関係の調査を進めております』
その行で、総理の声が止まった。
長い沈黙だった。
記者たちが顔を上げる。
総理は、手元の原稿を見た。
次に、別の資料へ視線を落とした。
私が作った十三件の対照表と同じ形式だった。
総理は、原稿を伏せた。
紙が机へ触れる音を、マイクが拾った。
顔を上げ、カメラを見る。
「隠していました。」
会場が、ざわめいた。
発電所のトラブル。
ダムの検査データ。
基地の事故。
車両部品の検査記録。
排出値。
産地表示。
総理は、一件ずつ認めた。
国と関係企業は、事実を把握していた。
知りながら、安全だと発表した。
問題はないと、国民へ伝えた。
すべて、事実ではなかった。
「私達の責任です。」
総理は、深く頭を下げた。
カメラのシャッター音が、雨のように続いた。
雷獣のことは、最後まで話さなかった。
TERAも。
神宝町の空も。
雲のなかを歩く巨大な獣も。
それでよかった。
あれは、公表して理解されるようなものではない。
会見が終わった。
誰も、声を出さなかった。
私は、頭上の雲を見た。
雷は、落ちなかった。
代わりに、雲の中央へ細い裂け目が入った。
「雲が……」
二週間、動かなかった灰色の蓋が、静かに割れていく。
裂け目から、夏の夜空が見えた。
星が、一つ。
また、一つ。
私は指揮車を飛び出した。
慈恩さんは、すでに丘の草の上に立っていた。
糸のような目を、細く開いている。
雲のなかで、青白い光が動いた。
視えない私にも、そこに何かがいると分かった。
巨大な獣が、ゆっくり身を起こす。
雷の毛並みが、一度だけ波打った。
満腹になった猫が、伸びをするように。
長い尾が、雲を横切る。
先端だけが、金色に光った。
獣は去る前に、一度、振り返った。
丘の上に立つ慈恩さんを見る。
鳴き声はなかった。
威嚇もない。
感謝でも、別れでもない。
ただ、視線だけが、静かに落ちてきた。
次の瞬間。
青白い光は、雲の奥へ溶けた。
裂けた雲が、初めて風に流された。
三十分後。
神宝町の空には、何も残っていなかった。
夏の星座が、何事もなかったように浮かんでいる。
「霊子値、低下」
観測員が読み上げた。
「通常値へ戻ります」
測定器の警告音が止まった。
「対象反応、消失」
誰かが、拍手をした。
一人。
二人。
指揮車のなかから歓声が聞こえた。
私は、晴れた空を見上げたまま、つぶやいた。
「討伐成功……か。」
慈恩さんが、ふっと笑った。
「いや。ご飯、無くなっただけですよ。」
「ご飯が?」
「総理が、全部認めたでしょう」
慈恩さんは、消えた雲の跡を見た。
「認められた事実は、もう嘘じゃありません。日本中の食卓から、いっせいに皿が下げられたんです」
「だから、帰った」
「食べ終わりましたから」
倒したのではない。
封じてもいない。
人間が嘘を認めたから、雷獣は去った。
それだけだった。
TERAは、その夜のうちに作戦終了の報告を出した。
件名は、『対象怪異ノ消失ヲ確認』。
消失理由の欄を、私は空白にした。
規定の様式には、書ける言葉がなかった。
書類は、差し戻されなかった。
誰も、その欄を埋めたくなかったのだと思う。
一週間後。
私は、神宝町の雑居ビルを訪ねた。
世間は、十三件の虚偽発表で騒いでいた。
調査委員会が作られた。
企業の役員が辞任した。
頭を下げる人間が、毎日テレビに映った。
空は、どこも晴れていた。
国として用意した報酬を出すと、慈恩さんは受け取らなかった。
「依頼人は国じゃなかったので」
「しかし、あなたは国家規模の被害を止めた」
「町は無事でした。それで、もう払われてます」
帰りぎわ。
ドアの前で、私は足を止めた。
「また現れますか。」
慈恩さんは、新しい煙草に火をつけた。
窓の外の、よく晴れた夏空を見上げる。
「人間が嘘ついたら、来ますよ。」
私は役所へ戻った。
あの日から、報告書の数字を丸めるのをやめた。
老朽化。
漏電。
手続き上の齟齬。
便利だった言葉を、使わなくなった。
部下からは、扱いづらい上司だと思われている。
出世にも、たぶん響く。
それでも、構わなかった。
書類に印を押す前に、一度だけ、窓の外を見る。
それが、私の癖になった。
遠くの空で、雷が鳴った。
一度だけ。
怪異を倒して平和になったのではなく、人間が正直になったから、怪異が去ったそうな。
遠雷は、今も時々、聞こえるそうです。




