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神宝町怪異相談 ~働く人専門の拝み屋は、怪異の奥にある事情を読む~  作者: KASANE
記憶改変〔全3話〕

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第3話 思い出す勇気

戻したくない。怖い。それでも——という、最後の一歩のお話です。

全3話の最終話です。

気がつくと、神宝町の事務所にいた。


ソファに横たわり、薄い毛布をかけられている。


窓の外は、夕方の色だった。


息が、吸えなかった。


何度吸っても、空気が胸の真ん中で止まる。


指先が痺れ、視界の端が白く光った。


「過呼吸です」


慈恩さんの声が、遠くから聞こえた。


「死にません。ゆっくりでいいです。吐くほうを長く」


言われたとおりにしようとしても、うまくできない。


頭のなかでは、まだ音が鳴っていた。


男の怒鳴り声。


廊下を踏み鳴らす足音。


革が空気を切る音。


触れるたびに、喉が塞がった。


「ここは……」


「ぼくの事務所です。先生の手が触れたところで、あなたは意識を失った。連れて帰りました」


「先生は?」


「あなたが不安定なのは、ぼくのせいだと言ってましたよ」


いかにも、あの先生らしいと思った。


自分の治療が間違っているとは、少しも考えていない。


先生は、わたしを救おうとしていた。


いまも、本気でそう思っている。


「戻したくないです」


声が掠れた。


「ぜんぶ思い出すのは、怖い」


あの音の続きを知ったら、わたしは壊れる。


二度と会社へ行けないかもしれない。


一人で眠れなくなるかもしれない。


「知らないままでも、二十九年、生きてこられました」


慈恩さんは、何も言わなかった。


線香も、塩も出さない。


説得もしない。


ソファのそばへ椅子を運び、湯呑みを持って座った。


わたしの呼吸が落ち着くまで、ただ待っていた。


窓の外が、夕方の赤から藍色へ変わっていく。


やがて、慈恩さんが言った。


「思い出さなくても、生きられます。」


慰めではなかった。


この人は、本当に、どちらでもいいと思っている。


忘れたまま生きることを、弱さとも逃げとも言わない。


「思い出したくないなら、ぼくはここで止めます。あの先生のところへ戻る必要もない。記憶がなくても、体の反応と付き合う方法はあります」


選んでいい。


そのことに気づいた瞬間、涙が出た。


わたしは二十九年間、自分で選んだことがなかった。


忘れることさえ、わたしが選んだのではない。


誰かが勝手に、わたしの抽斗を閉めた。


鍵をかけた。


その鍵があることさえ、忘れさせた。


革靴の音に吐いていたのは、誰なのか。


ベルトを見て泣いていたのは。


毎朝、体に痣を咲かせていたのは。


わたしの知らないところで、わたしだけが、ずっと泣いていた。


誰にも気づかれずに。


わたし自身にさえ。


その子を、もう、知らないふりはできなかった。


「でも、私、私を知りたい。」


言葉にした瞬間、頭の奥で何かが開いた。


台所の隅で、膝を抱える小さなわたし。


冷たい床。


夜の玄関。


素足に触れる、ざらついた三和土。


背中で閉まる引き戸。


家のなかから聞こえる笑い声。


わたしだけが、外にいる。


場面が、次々に浮かんだ。


どれも短く、途中で切れている。


日付も、順番も分からない。


父の顔さえ、湯気の向こうにあるようにぼやけていた。


それでも、音だけは鮮明だった。


革のベルトが、空気を切る。


笛のような音。


次に来る痛みを知っている小さな体が、先に縮こまる。


そして、父の声。


「お前が悪い」


低く、平らな声だった。


「お前が悪い」


何百回。


何千回。


ベルトより深い場所へ、同じ言葉が打ち込まれている。


氷室先生は、殴られた記憶を消した。


夜の玄関も。


痛みも。


助けを求めたことも。


けれど、その言葉だけは、わたしの根に残った。


理由を忘れても、自分が悪いという感覚だけが残った。


好きなものを選べない。


夢を持てない。


誰かに嫌なことをされても、わたしのせいだと思う。


殴られた記憶がないから、逃げる理由さえ分からない。


「お前が悪い」


また、聞こえた。


頭のなかの父が、わたしを見下ろしている。


違う。


そう思った。


けれど、声にならない。


口の奥に、何十本もの糸が絡んでいるようだった。


言えば、父を否定することになる。


幸せだった過去も。


氷室先生に救われた自分も。


これまで普通に生きてきた二十九年も。


全部、嘘だったと認めることになる。


「お前が悪い」


違う。


わたしは、悪くない。


子どもだった。


逃げる場所もなかった。


助けを求めても、届かなかった。


それは、わたしのせいではない。


「お前が悪い」


わたしは、ソファの上で体を起こした。


息を吸った。


怖かった。


それでも、頭のなかの声へ向かって叫んだ。


「違う!」


喉が破れたかと思った。


たった二文字だった。


けれど、二十九年分の声だった。


部屋の空気が震えた。


足元に落ちていた影が、大きく膨らんだ。


犬ほどもある黒い塊が、一度だけ口を開ける。


何かを飲み込むように。


そして、音もなく薄れていった。


唇から、白い糸が何十本も伸びた。


風のない部屋で揺れ、一本ずつほどけていく。


最後に、体の輪郭へ貼りついていた薄い膜が剥がれた。


肩。


胸。


喉。


額。


障子紙のような膜が、霧になって消えていった。


小さなものたちは、わたしを襲わなかった。


ただ、役目を終えたように、少しずつ離れていく。


最後の一枚が剥がれたとき、わたしは息を吸った。


空気が、胸の底まで入った。


息というものが、こんなに深くまで届くのだと、初めて知った。


「いまのは……」


「影喰です」


慈恩さんが、薄くなった足元の影を見た。


「植えつけられた『お前が悪い』を、ずっと食べていた」


次に、消えた白い糸へ目を向ける。


「言食。言えなかった『痛い』や『助けて』を食べていた」


「この膜は?」


慈恩さんは、霧の残るわたしの肩へ手を伸ばした。


触れずに、指を止める。


「間守。記憶の空白を守る番人です。穴に落ちて、戻れなくならないように、あなたの継ぎ目を塞いでいた」


どれも、わたしを苦しめるためにいたのではなかった。


二十九年間。


わたしが壊れないように、寄り添い続けていた。


役目を終えた妖たちは、少しだけ名残惜しそうに消えた。


「記憶は、全部戻るんですか」


「戻りません」


慈恩さんは断言した。


「日付も、順番も、失われたままのものがある。思い出さないほうがいいものもある」


「では、何が変わったんですか」


「あなたが、自分の記憶を選べるようになった」


慈恩さんは、湯呑みを置いた。


「あの先生の書き換えは、本人が真実を拒んでいるあいだだけ保つんです。みんな、思い出したくない。だから、先生の作った記憶を受け入れる」


「わたしが、『違う』と言ったから?」


「本人が『違う』と言った瞬間、魂が記憶を書き直す。上から塗られた文字の下から、元の字が浮いてくる」


「もう、先生の力は」


「あなたには効きません。書き換えを受け入れる隙間を、あなた自身が閉じたので」


帰りぎわ、慈恩さんは、無地のカードとペンをくれた。


しばらく考えて、わたしは書いた。


『わたしは、わたしを知りたい』


カードは、定期入れに入れた。


あれから、数か月がたった。


週に一度、カウンセリングへ通っている。


能力など持っていない、普通の先生だ。


わたしの話を聞き、相槌を打ち、ノートに書く。


勝手に撫でない。


忘れさせようともしない。


記憶は、全部は戻っていない。


たぶん、一生戻らないものもある。


父とは、会っていない。


許してもいない。


裁判も起こさなかった。


何を選ぶかは、これから決める。


革靴の音を聞くと、今も肩が硬くなる。


けれど、もう吐かない。


震えが通り過ぎるまで、立ち止まって待てる。


朝の痣は、あの日から一度も咲いていない。


この夏、七年ぶりに半袖を着た。


給湯室で、先輩がわたしの腕を見た。


痣のことには触れず、笑って言った。


「いい色のブラウスね」


「ありがとうございます」


まだ、すべては話せなかった。


それでも、初めて、自分の口で礼を言えた。


後日、菓子折りを持って神宝町へ行った。


慈恩さんは、湯呑みのなかの茶柱を眺めていた。


帰りぎわ、糸目のまま言った。


「魂って、記憶より、頑固なんですよ。」


ひむろクリニックは、いまも診療を続けている。


氷室先生は、逮捕されていない。


自分が間違っているとも思っていない。


待合室は今日も、おだやかに微笑む人たちで、静かに混んでいるという。

今回も、慈恩さんは祓いませんでした。「違う」と言ったのは、依頼人自身の口です。

先生は今日も、感謝されています。それがいちばん、こわいところです。

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