第2話 魂は嘘を忘れない
慈恩さんが、珍しく自分から動きます。わたしの二十九年を、辿り直すために。
たったひとり、引っかかる人が出てきます。第2話です。
慈恩さんは、あまり自分から動かない人らしい。
依頼人に考えさせ、自分は事務所で茶を飲んでいる。
神宝町の番地を教えてくれた先輩は、そう言っていた。
けれど、今回は違った。
「生まれた町から、順番に見ます」
慈恩さんは、わたしと一緒に、わたしの二十九年を辿り始めた。
最初に向かったのは、実家だった。
古い二階建ての家。
表札には、まだ『小柳』とある。
門まで来たところで、右足が止まった。
行きたくないわけではない。
怖いとも思わない。
それなのに、足が上がらなかった。
敷居の前に、見えない壁がある。
無理に進もうとすると、膝が震えた。
「入りません」
慈恩さんは、門には触れなかった。
「でも、調べないと」
「あなたの頭は覚えていなくても、体が嫌がっている。今日は、それで十分です」
慈恩さんは、家ではなく、わたしの足元を見ていた。
影のなかで、何かがうごめいている。
そんな顔だった。
「近所を歩きましょう」
角の八百屋には、腰の曲がったおばあさんがいた。
わたしの顔をしばらく見つめ、目を細める。
「あんた、小柳さんとこの美咲ちゃんかい」
「そうです」
「大きくなったねえ。昔は、よく夜に外へ出されて――」
おばあさんの手が止まった。
大根を袋へ入れ、わたしから目をそらす。
「……人違いだったかね」
「そうだと思います」
わたしは、笑って答えた。
夜の玄関先。
そんな記憶はない。
けれど、おばあさんが「外へ出されて」と言った瞬間、膝の裏が冷たくなった。
足の裏に、ざらついた感触が戻ってくる。
冷たいコンクリート。
裸足。
そんなはずはない。
いま、わたしは靴を履いている。
「小柳さん」
慈恩さんに呼ばれ、息を吐いた。
知らないうちに、呼吸を止めていた。
「覚えていません」
「いまは、それでいいです」
次に、アパートで古い物を調べた。
卒業アルバム。
文集。
押し入れの奥にあった、段ボール箱。
中学のアルバムには、友達と並んで笑うわたしがいた。
名前を読んでも、誰なのか分からない。
担任の寄せ書きに、太い字で書いてあった。
『もう大丈夫だからね』
何が大丈夫なのか。
なぜ、そんな言葉を書かれたのか。
思い出せなかった。
卒業文集の題は、『将来の夢』。
わたしの作文には、こう書いてあった。
『公務員になりたいです。安定しているからです』
夢の中身は、それだけだった。
慈恩さんは、文集を閉じた。
「十五歳で、もう、欲しいものがなくなってる」
「現実的な子だったんじゃないですか」
「そう思いたいですか」
返事はできなかった。
段ボールの底から、古い診察券が出てきた。
『ひむろクリニック』
財布へ入れて持ち歩いていたらしく、角が丸く擦れている。
続けて、領収書の束も見つかった。
最も古い日付は、わたしが十五歳のとき。
最後は、二十二歳。
七年間、ほとんど毎月通っていた。
それなのに、診察室で何を話したのか、一度も思い出せない。
診察券に書かれた名前を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。
「氷室先生……」
白髪。
穏やかな笑顔。
柔らかい声。
顔だけは、ぼんやり浮かんだ。
「覚えてます?」
「少しだけ。優しい先生でした」
「何を治してもらったんです?」
「それは……」
分からない。
七年も通った。
それなのに、病名も、診察も、薬を飲んだ記憶さえない。
残っているのは、感謝だけだった。
日なたのにおいのような、理由のない安心。
その温かさが、急に気味悪くなった。
「この人に会います」
慈恩さんは、診察券を机に置いた。
「お礼を言いに行く、でいいです。ぼくは付き添いで」
ひむろクリニックの待合室は、静かに混んでいた。
十人ほどの患者が、順番を待っている。
誰もが穏やかに微笑んでいた。
泣く人はいない。
苛立っている人もいない。
貧乏ゆすりをする人さえいなかった。
母親に連れられた男の子も、膝に手を置き、置物のように笑っている。
静かすぎる。
心を病んだ人が集まる場所なのに、苦しんでいる人が一人もいない。
慈恩さんが立ち止まった。
糸のような目が、わずかに開く。
患者の口もと。
足元。
体の輪郭。
第1話で、わたしを見たときと同じ順番だった。
慈恩さんの顔から、表情が消えた。
「みんな、わたしと同じなんですか」
小声で訊いた。
「似ています」
「何がいるんです?」
「ここでは言いません」
男の子が、こちらを見た。
笑っていた。
けれど、椅子の下に伸びた影だけが、不自然に膨らんでいた。
診察室へ呼ばれた。
氷室先生は、白髪の老医師だった。
記憶に残っていたとおり、柔らかく笑う。
「小柳さん。大きくなったねえ」
その声を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。
懐かしい。
安心する。
この人は、わたしを助けてくれた。
理由も分からないのに、涙が出そうになった。
壁には、感謝状が並んでいた。
机の上には、患者から届いたらしい手紙の束。
『先生のおかげで、苦しまずに済みました』
一番上の便箋に、そう書かれていた。
「元気にしていたかい?」
「はい。お礼を言いたくて」
「礼なんて、いいんだよ。君が穏やかに暮らせていれば、それでいい」
慈恩さんは、挨拶もせず、先生の顔の少し上を見ていた。
「あなたが、消してるんですか」
診察室が静まった。
氷室先生は、驚かなかった。
しばらく慈恩さんを見て、やがて小さく笑った。
「変わった人だね」
「答えてください」
「生まれつき、できてしまうんだよ」
先生は、右手を見せた。
「つらい話を聞きながら、こうして頭を撫でる。すると、その人の記憶が薄くなる」
その口調には、後悔も迷いもなかった。
「最初は、父だった。戦争から帰った父は、毎晩うなされ、酒を飲んでは家族を殴った。私は泣きながら父を撫で、戦争の話を聞いた」
その夜から、父親は悪夢を見なくなった。
家族を殴ることもなくなった。
「別人のように穏やかになって、死んでいったよ」
氷室先生は、優しく笑った。
「だから、医者になった。苦しんでいる人を、この手で救おうと思った」
虐待。
暴力。
死に別れ。
消せる記憶は、すべて消してきたという。
四十年間。
患者にも、家族にも感謝された。
恨まれたことは、一度もない。
「待合室を見ただろう。みんな、あんなに穏やかだ」
慈恩さんの目が、細い糸へ戻った。
「先生。治してませんね。」
低い声だった。
氷室先生は、困ったように笑った。
「苦しまないでしょう?」
「苦しみ方を、忘れただけです。」
先生の笑みが、初めて止まった。
「記憶は消えていません。出口を塞がれて、体へ出てる。痣になる。震えになる。理由のない涙になる」
慈恩さんは、待合室のほうを見た。
「先生には視えないでしょうが、言えなかった言葉や、記憶の穴に寄ってくるものもいる。患者全員が、何匹も飼ってます」
「霊の話かね」
氷室先生は、静かに息を吐いた。
「君のほうこそ、治療が必要なのではないかな」
本気で心配している声だった。
悪意がない。
だからこそ、慈恩さんの言葉は、何一つ届いていなかった。
先生が、わたしを見た。
「小柳さん。顔色が悪いね」
「わたしは、何を消されたんですか」
「知らなくていいことだよ」
優しい声だった。
「いま、穏やかに暮らしている。それが答えだ」
「でも、痣が」
「不安にさせられたからだよ。妙な話を聞き、考えなくていいことを考えた」
先生が立ち上がる。
「大丈夫。ぜんぶ、忘れられるからね」
右手が、わたしの髪へ伸びてきた。
逃げなくてはいけない。
頭では、そう思った。
けれど、体が動かない。
七年間、こうして撫でてもらってきた。
体が、それを覚えている。
先生の手が髪に触れた。
ぬるい湯のような声が、耳から頭の奥へ染み込む。
まぶたが重くなる。
考えなくていい。
忘れれば、楽になる。
閉じた抽斗が、遠ざかっていく。
そのときだった。
抽斗が、内側から鳴った。
どん、と。
何かが扉へ体当たりした。
男の怒鳴り声。
廊下を踏み鳴らす足。
革が空気を切る音。
目の前に、一瞬だけ光が走った。
振り上げられたベルトの金具が、蛍光灯を弾いていた。
――知っている。
そう思った瞬間、視界が暗転した。
先生は、悪意のない顔で笑っています。四十年、感謝されながら。
戻りはじめた抽斗の中身は、最終話で。




