第1話 覚えていない傷
毎朝、覚えのない痣が咲く。病院は異常なし、警察は事件性なし。本人は笑って言う——幸せでしたから、と。
重い題材を含みます。全3話の第1話です。
朝、目が覚めると、二の腕に痣があった。
五百円玉ほどの、青黒い痣。
ぶつけた覚えはない。
指で押しても、痛みらしい痛みはなかった。
ただ、毎朝、場所を変えて咲いている。
今日は二の腕。
先週は腰。
その前は、太腿の裏。
古いものが黄色く枯れていくそばから、新しい痣が青く咲く。
だからわたしは、七月でも長袖を着ていた。
会社の給湯室で、袖がまくれたことがある。
「また、ぶつけたの?」
先輩に訊かれ、わたしは笑った。
「そそっかしいんです。昔から」
言ってから、少し引っかかった。
――昔から?
昔のわたしが、そそっかしかったかどうか。
本当は、思い出せない。
わたしは小柳美咲。
二十九歳。
建材会社で事務をしている。
健康診断は、毎年すべてA。
職場の人間関係も普通。
アパートの部屋は片づいている。
休日は掃除をして、買い物をして、眠る。
趣味を訊かれると、少し困った。
昔、何をして遊んでいたのか。
どんな色が好きだったのか。
何になりたかったのか。
思い出そうとすると、頭のなかに、白い霧が出る。
アルバムを開いても、写っているのは運動会や卒業式ばかりだった。
どの写真でも、わたしはきちんと笑っている。
だから、幸せだったのだと思う。
そういうことにしていた。
けれど、体のほうは、そう思っていないらしかった。
朝の駅で、うしろから革靴の音が近づいてきたことがある。
こつ、こつ、と、硬い音。
背中のすぐ後ろまで迫った瞬間、胃がひっくり返った。
わたしはホームの端で吐いた。
駅員さんは、貧血だろうと言った。
会社の会議では、男性の課長が資料を覗き込んできただけで、ペンを持つ手が震えた。
課長は、悪い人ではない。
それでも、指が机を叩くほど震えた。
デパートの紳士服売り場も通れない。
並んだベルトを見ると、涙が出る。
悲しくない。
怖くもない。
なのに、目だけが勝手に泣く。
そういうとき、少し離れた場所から、自分を見ているような気分になった。
泣いているのは、わたしではない。
わたしの形をした、知らない誰か。
病院は、いくつも回った。
血液にも、皮膚にも、脳にも異常はなかった。
血が出やすい病気でもない。
夜中に、自分でぶつけているのかもしれない。
そう言われて、部屋にビデオカメラを置いた。
朝まで、わたしは布団のなかで眠っていた。
壁にも、家具にもぶつかっていない。
それでも、目を覚ましたわたしの腰には、新しい痣があった。
映像を巻き戻して、もう一度見た。
何も起きていない。
眠っているわたしのそばには、誰もいない。
それなのに、痣だけが増えている。
そのとき、初めて怖くなった。
交番にも相談した。
女性警官は、わたしの腕の痣を見て、書類を書く手を止めた。
「失礼ですが、誰かに殴られていませんか」
「いいえ」
「同居している方や、恋人は?」
「一人暮らしです」
「ご家族に暴力を振るわれたことは?」
思わず、笑ってしまった。
「私、幸せでしたから。」
父は、まじめな人だった。
――と思う。
学生時代も普通だった。
恋人と別れたときも、円満だった。
――と思う。
殴られた記憶は、一つもない。
記憶がない以上、警察にも調べようがなかった。
事件性なし。
相談は、そう処理された。
神宝町の番地を教えてくれたのは、給湯室で痣を見た先輩だった。
「去年、妙なものを見てもらった人がいるの」
先輩は、それ以上を話さなかった。
教えられた場所は、看板もない雑居ビルの十階だった。
ドアを開けると、煙草のにおいがした。
よれたアロハシャツを着た、痩せた男の人が、机の向こうで湯呑みを覗いている。
糸のように目が細い。
「拝み屋の慈恩です」
三十歳くらいに見えた。
わたしが袖をまくると、慈恩さんは痣を見た。
「病院は?」
「行きました。どこにも異常はありません」
「警察は?」
「事件性がない、と」
「そうですか」
質問は、それだけだった。
慈恩さんは、携帯用の灰皿で煙草をもみ消した。
わたしの正面へ椅子を寄せる。
そして、糸のような目を、ゆっくり開いた。
部屋の空気が変わった。
見られているのに、顔を見られている気がしない。
わたしの輪郭を、上から下へ確かめられている。
慈恩さんの視線が、わたしの肩を越えた。
何かを見つけたように止まる。
次に、口もと。
足元。
最後に、体の継ぎ目を追うように動いた。
一つではない。
いくつもの何かが、わたしのまわりにいる。
そんな目だった。
「何か、憑いていますか」
慈恩さんは答えなかった。
細い目が、さらに奥を見る。
その顔から、少しずつ表情が消えた。
わたしの背後で、何かが動いた気がした。
振り向く。
誰もいない。
ただ、床に落ちたわたしの影だけが、わずかに膨らんで見えた。
慈恩さんの視線が、今度はわたしの口へ移った。
唇の先に、白い糸くずのようなものが揺れた気がした。
瞬きをすると、消えていた。
「……これは、ひどい。」
低い声だった。
わたしの胸が、初めて強く鳴った。
「何が見えるんですか」
「いろいろです」
「いろいろ?」
「一人につく数じゃない」
慈恩さんは糸目に戻った。
それから、静かに質問を始めた。
「お父さんは、どんな人です?」
「まじめな人でした」
「どういうところが?」
答えられなかった。
父が働いていた姿も、笑った顔も、思い浮かばない。
「……覚えていません」
「お母さんは?」
「小さいころに、いなくなったと聞いています」
「誰から?」
「父から、だと思います」
「そのときのことは?」
「覚えていません」
「学生時代は?」
「普通でした」
「普通というのは?」
また、答えられなかった。
友達の名前。
部活動。
放課後に寄った店。
何一つ、はっきり浮かばない。
「恋人は?」
「いたと思います」
「好きでした?」
胸のなかを探した。
何もなかった。
「……覚えていません」
答えるたびに、自分の二十九年が薄くなっていった。
つらい記憶だけではない。
楽しかった日のことも。
誰かを好きになった気持ちも。
誕生日に何をもらったのかも。
わたしの人生は、すべて「普通」という名前の抽斗に入っていた。
けれど、開けてみると、中は空だった。
「つらいところだけ、きれいに取るなんてできません」
慈恩さんが、独り言のように言った。
「そのまわりも、一緒に消えている」
「消えている?」
訊き返すと、慈恩さんは黙った。
机の上で、指を一度だけ叩く。
何かを決めたようだった。
「小柳さん」
「はい」
「痣は、傷じゃありません」
わたしは、自分の二の腕を見た。
青黒い痣が、皮膚の下に沈んでいる。
「では、何なんですか」
「印です。忘れたことを、忘れないための」
意味が分からなかった。
「わたしは、何を忘れているんでしょう」
「それを、これから調べます」
慈恩さんは、わたしではなく、わたしの後ろにいる何かへ向けるように言った。
「記憶じゃなくて、魂が依頼に来てます。」
帰り道。
駅の階段で、革靴の音が聞こえた。
こつ、こつ、と背中へ近づいてくる。
胃が縮んだ。
手すりを握る。
震えながら、初めて思った。
この体は、わたしの知らない誰かの代わりに泣いている。
その誰かは、きっと――。
わたしと同じ名前をしている。
記憶はどこも壊れていないのに、体だけが覚えている。
魂の依頼の中身は、第2話で。




