幸福係数
その町では、二十年間、誰も泣いていません。犯罪ゼロ、自殺ゼロ、苦情ゼロ。
幸せすぎる町と、その町長のお話です。重い題材を含みます。
わたしの町では、二十年間、誰も泣いていなかった。
犯罪ゼロ。
自殺ゼロ。
役場の苦情箱は、年じゅう空だった。
議会で、わたしはそれを「幸福係数」と呼んできた。
数字にするなら、満点の町。
その町長であるわたしが、いま、隣町の雑居ビルで、拝み屋を名乗る男と向き合っている。
役場の誰にも言えない話をするためだった。
「わたしのそばでは、人の痛みが薄くなるんです」
六十二年、女房にも明かさなかったことだ。
わたしが手を握り、目を見て話すと、人の悲しみや怒りは薄くなる。
湯に落とした角砂糖のように、角から溶けていく。
子どものころ、夜泣きする妹は、わたしが添い寝すると眠った。
喧嘩の仲裁に入れば、両方が怒っていた理由を忘れた。
人は、それを人徳と呼んだ。
政治家に、これほど向いた力もない。
わたしは牧原義一。
小峰町の町長を、五期、二十年務めてきた。
二十年間、握手をした。
祭りを回り、通夜を回り、家を一軒ずつ訪ねた。
泣く人がいれば、手を握った。
怒る人がいれば、目を見て話した。
そのたびに、相手の顔から痛みが消えた。
わたしは、いいことをしていると思っていた。
町は、静かになった。
空き巣も、喧嘩も、置き引きも消えた。
誰も、首をくくらなくなった。
そのかわり――。
中学校から、美術部がなくなった。
婚姻届が、年々減った。
夢を語る若者もいなくなった。
工場を畳んだ男は、わたしと握手して怒りを忘れた。
そして、もう一度やり直すことも忘れた。
この一年で、独り暮らしの老人が三人、こたつで死んだ。
三人とも、微笑んでいた。
医者は老衰と書いた。
けれど、冷蔵庫は空だった。
一人は、三か月も前から日めくりを止めていた。
苦しまなかった。
ただ、生き続ける理由まで失った。
「なるほど」
拝み屋の慈恩は、煙草にも火をつけず、わたしの話を聞いていた。
よれたアロハシャツ。
糸のように細い目。
三十歳くらいにしか見えない。
「町を、見てもらえますか」
「そのために来たんでしょう」
三日後。
慈恩さんは、小峰町の商店街を歩いた。
米屋のおかみが、わたしに笑いかける。
下校中の中学生が、そろって頭を下げる。
怒鳴り声も、笑い声もない。
「いい町でしょう」
言ってから、隣を見た。
慈恩さんは、笑っていなかった。
一人の中学生が、店先に飾られた絵の具を見ていた。
少女は赤い絵の具へ手を伸ばしかけた。
けれど、触れずに手を下ろした。
そのまま、何事もなかったように歩きだす。
慈恩さんの目が、わずかに開いた。
「……糸だらけだ」
少女の口もとへ手を伸ばす。
何もない空中で、指が止まった。
「言食です」
その名には、聞き覚えがあった。
言えなかった言葉を食べる、小さな妖。
人のなかに残った言葉が、その人を傷つけないように、代わりに食べるもの。
「悪い妖ではありません」
慈恩さんは、通りを見渡した。
「普通は、一人に一匹つくかどうかです。ここには、何百といる」
米屋のおかみの口。
学生たちの口。
笑って通り過ぎる町民の口。
わたしには見えない。
だが、白い糸を垂らして歩く人々の姿を想像した。
「この町は、あれたちの餌場です」
「わたしの力が、呼んだんですか」
「呼んだんじゃない。育てたんです」
慈恩さんは、先ほどの少女を目で追った。
「描きたい。恋しい。悔しい。助けてほしい。言葉は、心の渇きに押されて口まで上がってくる」
少女の背中が、角を曲がって消えた。
「あの子は、絵の具が欲しかった。でも、欲しいと言う前に、渇きが消えた。口まで届かなかった言葉を、言食が食べる」
「だから、誰も苦しまない」
「ええ」
慈恩さんは、わたしを見た。
「苦しんではいません。ただ――生きてもいない」
こたつで死んだ三人が浮かんだ。
あの人たちは、何も訴えなかった。
腹が減ったとも。
寂しいとも。
生きたいとも。
「いちばん太い糸は、あなたから出ています」
慈恩さんの細い目が、わずかに開いた。
「二十年ものです。黒くなって、腐りかけている」
「わたしが、何を言わなかったというんです」
「それを、ぼくが言うんですか?」
低い声だった。
胸の奥に、二十年間、蓋をしてきた名前があった。
「……娘です」
明里。
十七歳だった。
絵ばかり描いていた。
二十年前の冬、誰にも助けを求めず、自分で逝った。
机には、一枚の紙が残されていた。
『いっても、しかたないとおもった』
棺の前で、わたしは誓った。
この町から、娘のような子を二度と出さない。
痛みなど、すべて、わたしが消してやる。
「娘さんは、言葉を飲んで亡くなった」
慈恩さんは言った。
「あなたは、その痛みに耐えられなかった。だから、町じゅうから痛みを消した」
返す言葉がなかった。
「でも、あなたが作ったのは、娘さんが死なずに済む町じゃない」
慈恩さんは、商店街を見た。
みんな、穏やかに笑っていた。
「町じゅうが、娘さんと同じように、言葉を飲む町です」
わたしは、その場で膝をつきそうになった。
「祓えますか」
「祓うものは、ほとんどありません。餌がなくなれば、言食は痩せて山へ帰る」
「わたしの力は、どうすれば」
「使わなければいい」
「簡単に言わないでください。わたしは、この力で町を守ってきた」
「違います」
慈恩さんは、言い切った。
「あなたは、この力で、自分が娘さんを失った痛みから逃げてきた」
胸の奥で、何かが裂けた。
怒りが湧いた。
二十年間、感じたことのないほど強い怒りだった。
慈恩さんは、わたしの手を取らなかった。
目もそらさない。
わたしの痛みを、一つも薄くしなかった。
「あなたの糸は、あれにも食べられません。宛先を失った言葉は腐る」
無地のカードを差し出した。
「あなたの分は、あなたの口で。町の分は、あなたの次の演説で」
娘の墓は、町を見下ろす斜面にある。
二十年間、月命日を欠かしたことはなかった。
花を替え、墓石を拭き、手を合わせてきた。
それでも、墓前で娘に話しかけたことは、一度もなかった。
慈恩さんは、霊園の入口で止まった。
「ぼくは、ここで待ちます」
わたしは、一人で墓前に立った。
明里。
心のなかでは呼べる。
だが、口から出ない。
夕方の風が、線香の煙を折った。
『いっても、しかたないとおもった』
あの紙の文字が浮かんだ。
わたしも、同じだった。
死んだ娘に言っても、しかたがない。
そう思い、二十年間、飲み込んできた。
喉の奥が痛んだ。
逃げずに、その痛みを感じた。
「明里」
初めて、名前を声にした。
「……会いたい」
膝が崩れた。
墓石にすがり、声をあげて泣いた。
六十二歳の町長ではなく、娘に先立たれた、ただの父親として。
二十年分、泣いた。
慈恩さんは、何もしなかった。
あとで、太い糸が風にほどけたとだけ教えてくれた。
最後の言葉を食べ終えた小さな言食は、わたしの肩でしばらく丸くなっていたという。
そして、ほんの少し、かなしそうに崩れた。
二十年間、わたしが壊れないよう、そばにいたものだった。
次の議会で、わたしは原稿を伏せた。
娘の話をした。
自分の力のすべては話さなかった。
ただ、苦情も、怒りも、悲しみも、町の失敗として扱わないと約束した。
「幸福係数という言葉を、本日で廃止します」
声が震えた。
議場は、静まり返っていた。
その夜、女房が、仏間で泣いた。
娘が死んでから、初めて聞いた泣き声だった。
わたしは、慰めようと手を伸ばした。
途中で止めた。
かわりに、隣へ座った。
女房は、夜が明けるまで泣いた。
ひと月後。
役場の苦情箱に、投書が戻ってきた。
道路に穴がある。
ごみの回収が遅い。
町長の演説が長い。
商店街では、酔っ払い同士が殴り合った。
警察沙汰になった。
それでも、中学校の美術部には、一年生が一人、入った。
報告に行くと、慈恩さんは、湯呑みの茶柱を眺めていた。
「苦情が来るうちは、生きてますよ」
もらったカードには、こう書いた。
『わたしは、まだ悲しい』
いまも、名刺入れの裏に入れてある。
先週、役場に署名が届いた。
『前の、静かな小峰町に戻してください』
三百十二人分。
わたしは、その署名を突き返せなかった。
正しいとも、間違いとも言えなかった。
痛みのない町を望む気持ちも、また、本物だからだ。
机の抽斗へ、そっとしまった。
整った字で並ぶ三百十二人の名前が、どれも、穏やかに微笑んでいるように見えた。
わたしは、無地のカードを取り出した。
『わたしは、まだ悲しい』
声に出して読んだ。
痛みは、消えなかった。
今度は、それでよかった。
chatGPTで校正してるとたまに余計なことをしますね(´・ω・`)
こうしたほうがいいですよって…ね。
余計なお世話じゃいチャウヤロ! (≧∇≦)/☆(GPT)




