後編 最後の一言
父の口から垂れる白い糸と、そのなかの、腐った太い一本。
その正体と、最後の一言のお話です。後編です。
数日後、慈恩さんが、うちへ来た。
家のなかを調べ回ることはしなかった。
仏壇の前に座り、静かに手を合わせる。
母の遺影を見たあと、棚に並んだ家計簿へ目を向けた。
「見ても?」
わたしが一冊を渡すと、慈恩さんは、ゆっくりページをめくった。
食費。
電気代。
工場で使った油の代金。
取引先への支払い。
母の丸い字で、家と工場の暮らしが残っていた。
慈恩さんの手が、あるページで止まった。
余白に、短い一文があった。
『お父さんは口下手なだけ。ちゃんと分かってる』
わたしも、その字を見つめた。
母は、父の「おう」や「ん」を、いつも訳していた。
それは、わたしのためだけではなかったのかもしれない。
言葉にできない父のためでもあった。
慈恩さんが、家計簿を閉じた。
「お父さん」
父が顔を上げた。
「奥さんに、『ありがとう』と言ったのは、いつが最後です?」
父の顔が、動かなくなった。
わたしは記憶をたどった。
母の誕生日。
結婚記念日。
わたしの運動会。
母が倒れた夜。
父の口から「ありがとう」と聞いた場面は、一つも出てこなかった。
父が「おう」と言えば、母が訳した。
――ありがとうって言ってるのよ。
それで、伝わったことになっていた。
父は、言わなくてよかった。
言わないままで、四十年、通じてしまった。
「お父さんの口から、白い糸が出ています」
慈恩さんが言った。
「飲み込んだ言葉です」
父の肩が、わずかに揺れた。
「『すまん』も、『助かった』も、『うまかった』も。言えなかった言葉を、代わりに食べてくれる小さな妖がいる」
「父の声を奪ったのは、その妖なんですか」
「逆です」
慈恩さんは、首を振った。
「その妖がいたから、お父さんは、今まで喉を詰まらせずに済んだ。四十年、飲み込んだ言葉を食べてくれていたんです」
「では、どうして今になって」
「食べられない言葉が、一本だけ残った」
慈恩さんは、父を見た。
「宛先が、いなくなったからです」
父の手が、膝の上で拳になった。
「渡せないまま残った言葉は、古くなる。太くなって、腐って、ほかの言葉まで塞いでしまう」
「祓えますか」
「祓えます。でも、声は戻らないでしょうね」
「どうして?」
「あれは妖の言葉じゃない。お父さん自身の言葉ですから」
慈恩さんは、無地のカードとペンを、父の前に置いた。
「口が無理なら、まず手で」
父は、ペンを持った。
紙の上で、手が止まる。
『メシ』も『カギ』も書ける手だ。
けれど、一文字も書けなかった。
ペン先が震え、小さな黒い点だけを残した。
慈恩さんは、しばらく待った。
それから、父の手からペンを抜いた。
「ここでは、書けないみたいですね」
父は、うつむいた。
「宛先のところへ行きましょう」
母の墓は、町を見下ろす小さな霊園にある。
彼岸を過ぎた、秋の午後だった。
慈恩さんは、墓から離れた楓の下で足を止めた。
「ぼくは、ここにいます」
父は、一人で墓前へ進んだ。
母の好きだった花を置く。
線香に火をつける。
そして、墓石の前に立ったまま、動かなくなった。
わたしも、少し離れて待った。
線香の煙が立ち、風に折れる。
父の口が、わずかに開いた。
けれど、声は出ない。
父は、もう一度、口を閉じた。
いつもの父なら、そこで諦めていた。
「おう」の一言で済ませ、あとは母が訳してくれた。
もう、訳す人はいない。
わたしが近づこうとすると、慈恩さんが、静かに首を振った。
父の言葉だ。
父が、自分で渡さなければならない。
日が傾き、墓石の影が長くなった。
父が、両手を強く握った。
旋盤を動かし続けた、節の太い手だった。
その手が、震えていた。
やがて父は、息を吸った。
喉の奥で、何かが引っかかる音がした。
それでも、今度は口を閉じなかった。
「……ありが、とう」
掠れた声だった。
二つに切れ、錆びつき、形も崩れていた。
それでも、たしかに届いた。
風が吹いた。
父の口もとから、白い糸が一本、伸びた。
今度は、わたしにも見えた。
指ほどもある、濁った糸。
それが、風のなかで少しずつ細くなる。
ほどけて、白くなり、最後には、夕日のなかへ消えた。
そのあとを、小さな白い影が追った。
獣にも、虫にも見えないものだった。
影は、最後の糸へ口をつける。
ゆっくり食べ終えると、父の肩の上で丸くなった。
役目を終えたように目を閉じる。
そして、細かな光になって崩れた。
怖くはなかった。
四十年間、父のそばにいたものが、ようやく眠ったように見えた。
父は、墓の前で泣かなかった。
ただ、何度も、息をしていた。
声の通るようになった喉で。
その晩、わたしは、いつもの夕飯を作った。
焼き魚と、味噌汁。
母の味には、まだ遠い。
父は黙って食べた。
一日に十語も話さない父へ戻っていた。
食べ終わるころ、父が箸を止めた。
わたしの顔は見ない。
湯呑みを見たまま、ぽつりと言った。
「飯、うまい」
わたしは、泣いた。
「ありがとう」でもない。
「母さんに似てきた」でもない。
ただの、「飯、うまい」。
けれど、その言葉は、誰にも飲み込まれなかった。
母にも訳されず、父の口から、まっすぐ、わたしへ届いた。
それでよかった。
それが、父だった。
後日、菓子折りを持って神宝町へ行った。
慈恩さんは、湯呑みのなかに茶柱を探していた。
「お父さん、どうです?」
「相変わらず、無口です」
慈恩さんは、少し笑った。
「妖より、人間のほうが頑固ですね」
父の口数は、いまも一日に十語ほどだ。
「おう」
「ん」
「いい」
意味が分からないときもある。
以前なら、母のように父の言葉を補おうとしたかもしれない。
いまは、分からなければ訊く。
「それ、どういう意味?」
父は困った顔をする。
長い時間をかけ、それでも、自分の言葉を探す。
もう、代わりに訳す人はいない。
だから父は、少しずつ、自分の口で話している。
今回も、慈恩さんは祓いませんでした。祓ったのは、お父さんの口。
言いそびれた言葉は、宛先のあるうちに。言食の物語は、ここで一区切りです。




