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神宝町怪異相談 ~働く人専門の拝み屋は、怪異の奥にある事情を読む~  作者: KASANE
言食(ことばみ)〔前後編〕

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前編 声がなくなる

妖は、人を襲うためでなく、寄り添いすぎて霊障になる。そんな怪異のお話

父の声が消えたのは、母が死んで半年たった、秋の朝だった。


「おはよう」


わたしが声をかけると、父は口を開いた。


けれど、何も出なかった。


水槽の金魚が、餌を待って口を動かすのと、同じ形だった。


父は喉を押さえ、もう一度、口を開いた。


やはり、声は出なかった。


もともと、一日に十語も話さない人だ。


だから、家の音はほとんど変わらなかった。


工場から響く旋盤のうなり。


味噌汁の湯気。


食卓で触れ合う、箸と茶碗の音。


何ひとつ欠けていないように見える。


それなのに、たしかに何かが欠けていた。


それが、いちばん怖かった。


母が生きていたころ、父の言葉は、いつも母を通って届いた。


父が「おう」と言う。


「ありがとうって言ってるのよ」


母が笑って、言葉を足す。


夕食のとき、父が「ん」と鼻を鳴らす。


「おいしいって意味」


仕事で遅くなったわたしに、父が「いい」とだけ言う。


「心配するな、ですって」


父の言葉は、旋盤で削り落とされた鉄くずみたいに短かった。


母は、それを拾い、意味と体温をつけて、わたしに渡してくれた。


母が死んだ。


訳す人が、いなくなった。


父の「おう」は、ただの「おう」になった。


それでも父は、毎朝、工場のシャッターを開けた。


曽根鉄工所。


父の旋盤と、母の帳簿で回してきた、小さな町工場だ。


最近は、仕事が減っていた。


近所の同業者も、一軒、また一軒と、シャッターを下ろしている。


父は、うちのシャッターを半分だけ開け、薄暗い工場で旋盤の前に座った。


削るものがない日も、同じように。


声が消えた翌日、父を病院へ連れていった。


喉に傷はない。


声帯も、頭にも異常はない。


いくつか病院を回っても、答えは同じだった。


医者は、慎重に言った。


「心因性の失声かもしれません。強い喪失のあとに、声が出なくなることがあります」


妻を亡くした男が、声を失った。


医学のなかでは、話の筋が通っていた。


ただ、ひとつだけ、引っかかった。


父は、筆談ならできた。


紙とペンを渡すと、すぐに書く。


『メシ』


腹が減った。


『カギ』


戸締まりをしたか。


『図面』


取引先から届いたか。


用件なら、いくらでも書ける。


それなら、本当に、声だけの問題なのだろうか。


その夜、差し向かいで味噌汁をすする父に、訊いてみた。


「お父さん」


父が顔を上げる。


「何か、言いたいことある?」


父の箸が止まった。


口を開く。


喉が、二度、三度と動いた。


何かが、そこまで来ている。


それなのに、声は出なかった。


わたしは紙とペンを差し出した。


父は、受け取らなかった。


『メシ』も『カギ』も書ける手が、膝の上で拳になっていた。


用件は書ける。


けれど、「言いたいこと」は書けない。


父が失ったのは、本当に声だけなのか。


その疑いが、初めて、はっきり形になった。


神宝町の拝み屋を教えてくれたのは、金型屋の南部さんだった。


父と同い年で、母の葬式にも来てくれた人だ。


部品を受け取りに来た南部さんは、父が書いた『納期 三日』という紙を見た。


それから、父の顔を見た。


帰りぎわ、油の染みた紙切れを、わたしに渡した。


「医者が駄目なら、ここへ行ってみろ」


紙には、住所だけが書いてあった。


神宝町のはずれにある、看板もない雑居ビル。


十階のドアを開けると、煙草のにおいがした。


よれたアロハシャツを着た男が、湯呑みのなかを眺めている。


糸のように細い目。


年は、三十前くらいに見えた。


「拝み屋の慈恩です」


父の症状を説明すると、慈恩さんは、最初に訊いた。


「病院は?」


「行きました。異常はないそうです」


「それは、よかった」


意外な答えだった。


慈恩さんは、父の前へ椅子を寄せた。


膝が触れそうなほど近くに座る。


父の顔ではなく、口もとを見ていた。


糸のような目が、ほんの少しだけ開く。


そのとき、父が口を押さえた。


白いものが、唇の端から垂れたように見えた。


蜘蛛の糸ほど細いもの。


瞬きをすると、もう見えない。


慈恩さんの視線だけが、何もない空中を、上から下へたどっていた。


一本。


また、一本。


何かを数えているように。


父は、されるがまま座っていた。


長い沈黙のあと、慈恩さんが、わずかに眉を寄せた。


「なるほど」


「何か、憑いているんですか」


わたしが訊いても、すぐには答えなかった。


父の口もとへ手を伸ばす。


けれど、触れる寸前で、指を止めた。


「取ると、まずいな」


独り言のようにつぶやき、手を下ろした。


「どういうことですか」


「この細いのは、まだ大丈夫です」


慈恩さんは、見えない何かを指で分けた。


「ただ――」


指が、一本の場所で止まった。


「一本、腐ってますね」


何本のうちの一本なのか。


何が腐っているのか。


その日は、教えてくれなかった。


「続きは、お宅で。仏壇と、お母さんが書いたものを見せてください」


帰り道、父は、わたしの少し前を歩いた。


俯き、口を固く結んでいる。


その横顔が、ほどけなくなった結び目に見えた。


無理に引けば引くほど、固く締まってしまう、古い紐のように。

病院では、どこも壊れていない。それなのに「言いたいこと」だけが、書けない。

腐った一本の正体は、後編で。

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